清澄な風景画「ニュージーランド」
背景は、テカポ湖
☆8☆ 観光の風景 ☆
☆ この国の自然は、単純に表現すれば、まだ汚濁の渦中にはな
い。本来なら動物がごとき微細な存在に左右されるはずのない
大自然が、ここにはまぎれもなく息づいている。
デコレーション・ケーキにたとえれば、ほとんど手つかずの
ままでここにあるから、観る者の心を奪う。が、よく見ると真
の手つかずではない。人がいじってクリームが崩れてはいる。
今後は急速に人の手が増え、競い合っていじるかも知れない。
「手を出すんじゃない。よく見るんだ。」と親に相当する政府
が叫ぶ。子供にあたる国民は手を出さない。食べたらたちまち
に終わってしまうことを理解しているからだ。
けれども客は、ある者は招かれざる客だろうが、出来栄えに
ヨダレを垂らし、スキあらば制止を振り切って口に持ち込もう
とする。子供らの中にも、よく見れば親のにらみが緩めばすぐ
にでも手を出したいのがいる。
<観るなら今のうちだ>と思う。
土曜日を利用して一日観光をしたのが二回あった。
この南島は、東側に人の世が偏る。西側へは、島の背骨のよ
うな山脈を越える。そしてこの山なみにまつわって清澄な自然
がその位置を占めている。
島を横断する鉄道は、たった一本だ。朝9:15クライストチャ
ーチを出た列車が、Springfield,Arthur's Pass, Otira, Moana
の四駅に停まった後、西海岸の終点駅の Greymouthに1:25に着
く。所要時間4h10mt、距離234Kmの路線は狭軌鉄道だ。
日本のJRは、上野から長野の少し先の豊野へ232Kmを特急で
はほぼ4hで走るし、新宿から松本へは、225Kmを3h弱でつなぐ
から、これに比較してさほど不便な乗り物ではなさそうに思
えるのだが、事実は異なる。
Arthur's Passは、標高737mの峠の駅で、窓外には初夏なが
ら雪を頂く峰がそそり立つ。
それに至るにはまず平野に広大な牧草の広がりを観て、やが
てなだらかな起伏の山裾に牧草の果てしない衣を観る。やっと
それが尽きると雪解けのカスケードが岩の崖を滴り落ちる。時
に激しい瀑布がしぶく。
厳しい峠の世界をかいま見て、列車は過疎の西側へ降りるの
だ。
などと書けばますます観光の欲をそそるだろうが、この列車
は、着いてから一時間ほどで折り返し運転になる。つまりこの
鉄道は、一編成の列車が一往復すだけなのだ。乗客は、いや通
常の乗客はまあない。乗るのは異国からの観光客だけだ。
もうひとつある。この列車の遅れはひどく、戻りの時刻なん
か常時40mt〜2hも遅れるという。最近これが世論的な問題にな
って、今は少し改善された。
私たちが乗ったのは、この一部、Otira-Springfield間だけ
で、その時も40mtの遅れを、プラット・ホームに乗り上げたバ
スに乗ったままで待ったのだった。
山間の駅は、北海道の旭川近くの層雲峡のバスセンターにい
るようだった。駅前の三十軒ほどの住宅は、ほとんどが空き家
で、数軒の入居者は、政府が無料で貸している失業者だと説明
された。
列車に乗り込むとすぐウェイトレスが、
「ティー?、コッフィー?」と、愛想良く注文を取った。ビス
ケットでアフタヌーン・ティーを飲みながら、トンネルで峠を
抜け、山から原へ、原から野へと走り下って行く。窓外には、
時に渓流が崖下深く迫り、往路にジェットー・ボートで恐怖の
疾走を楽しんだ白濁の流れや、切れ込みの険しい河岸の砂利の
筋が、跳び下がる沿線の繁みの間から覗き見える。
平野に出て私たちは降りたが、残飯を恵まれようと待つ黒犬
一匹の他には駅員の一人だっていないのだった。 こんな鉄道
もあった。というのは、本来ならば廃業・廃線になるはずの鉄
道を、愛好者が運営していると言う。バス旅行の一部に、愛好
者鉄道を楽しむように計画が組み込まれている。
ホームには、古いが頑丈なジーゼル機関車がブルーの客車を
一両だけ従えて、エンジンをうならせていた。
機関車に近づく。中には薄いピンクのつなぎに無帽の機関士
が、こちらに笑顔を向けるので、
「Can I take photo ?」と頼むと「Sure.」と身を乗り出して
応じてくれた。
駅舎内に売店があり、制服制帽の駅長が、切符を手渡し、ケ
ースの中の土産品を売る。
彼はやがてホームに出、客に出発を告げるや自らも乗って、
それ以後は車掌に変身するのだ。
乗客は、私たちだけだった。
妻が仲間にこの国で買ったピーナッツを振る舞う。そのころ
車掌はガイドになって、野を、山を、牧場を語り始めた。
「毎日動くの?」私は聞いた。
「毎日です。」
「乗客が一人もない日は?」「動かない。」
「乗務員はあなた一人?」「そう」「休みは?」
「週に一回、シティに帰る」
景色とは関係のない質問を重ねるうちに、車掌は、
「今から私有地の牧場を通り抜けます。ゲートを開けなければ
ならない」と話しを中止して、デッキへ去った。
列車が停まり、彼は降りて柵の一部の回転式のゲートを押し
開く。すると列車は動いてすぐまた停まる。今度は通った後の
ゲートを閉めるのだった。
緩やかな傾斜の野の中で、列車は停まり、「降りて下さい」
と言う。
野に立つ私たちを後目に列車はバックで野を下がっていった。
「どうしたの?」同じく野に立つ車掌に問うと、
「カメラを構えてください。」
観光客の撮影にサービスするためのバックで、列車はその勇
姿を示すべくブルッブルッブルッとうなりながら前を通り過ぎ
て見せた。
列車のことはそれくらいにして、飛行機の観光を紹介しよう。
クライストチャーチを起点にして種々の観光が用意されてい
る。南極までならジェット機で3h、プロペラ機なら8hと聞いた。
もちろん私たちは行かなかったし、行く計画もレディネスもな
い。島内でメインは、マウントクックとかミルフォードサウン
ドへの観光になる。
バスが市内のメインホテルで新婚さんなどを拾ってからカン
タベリー平野を南下すると、農村にはほとんど人や家を見ない。
羊だってそうやすやすとは見かけない。道路は、意外に思える
ほどどこへ行っても完備しているから、バスは疾走するが、数
分走って一群の羊を見つけるぐらいである。道路にも車が少な
い。免許のない私だってここでなら飛ばして走ってやる。
山を越えて谷あいを走る内に、景色が変わってくる。
澄んだ空の下に湖が冴える。その彼方に白い雪を載せた山並
みが続く。
テカポに来た。
事前にピーターと話したときに、私は、
「ナイス・ビューか?」と尋ねたのだが、彼はそんな通常のも
のではない、「パノラミックだ」と言った。
来てみると彼の言った通りの眺望に魅せられてしまい、一泊
だけで通り過ぎるのは惜しいと思った。
湖岸の一隅だけにわずか二十戸ほどの人のなりわいがある。
自然の中にところ構わず場を占める我が日本とは大違いで、自
然は悠然と端座し、人は遠慮がちにここだけに集まって静かに
生きていた。
近くに「Mt.John」という、雪を頂くには至らないが小高い
山があって、頂上には銀色の天体観測装置を光らせている施設
があった。
登るのは健康な一仕事だった。頂上付近ではこの79kgの身体
が小径から斜面へ吹き飛ばされるほどの強風に襲われた。眼下
を見おろすとカルデラの中岳に登ったように、周辺の湖と湿原
が広がる。
気分が広がり胸にはフレッシュな空気が満ちてきた。
テカポからマウントクックにセスナで飛ぶ観光がある。注文
しなければバスのルートで下から山々を観、湖を眺めて走る。
飛行機に載る人は、別料金を払って上から氷河を、峡谷を観察
し、アクロバットめいた操縦をも楽しむことになる。
四人の仲間が載った。私たちは載らなかった。クックへは長
い湖端が川になる縁を沿いながら走る。簡略な飛行場があって、
飛行機が川原から柵のそばまで走り寄ってきた。定員八人の乗
客が、痺れたのか扉が開かれてしばらくしてから、やっと安全
ベルトを外すのだった。
飛んだ飛行機は、まるで山肌を這うように急上昇をしてゆく。
セスナは身軽だった。
バスは麓の町に着いて小休止になる。ところが山が近すぎる
から見上げても、白い壮観のどれが最高峰のクックなのか、区
別できないのだった。
駐車場で同じく見上げる白人夫婦が、
「これがMt.Cookで隣がMt.Tasmanだ」と言うから、<啓子に間
違って説明したな>と、土産店に妻を探しに走る。
「そう? でも違うに。これみ。」と指さす土産用の山のカラ
ー写真は形が明らかに違う。最初私たちが谷あいに見たマッタ
ーホーンに似た姿がそれだ。
私はバスの前で再び夫妻を見つけて、
「これじゃあありませんよ。」と、お節介にも言うと、
「どうして分かるの?」と容易には信じない。
「中の土産屋で教えてもらった」と、話しを創作した。
後ほど、この旦那は、バスの中でわざわざそばに寄ってきて
「あなたが正しかった。有り難う」と言った。
一日バスに乗り続けてクイーンズタウンに着く。澄んだ湖を
とりまく青い山の裾で湖岸の町だった。
眺めは申し分ないが、部屋の取り方に問題があって一交渉が
あった。シーズンの始まりだからか部屋にゆとりがなかったの
だろう。
ここからミルフォードサウンドを一日で観光する。道路は細
長い湖を横切ることなく、丁寧に迂回して進むから、三角形の
二辺どころか四角形の三辺か、円周の八分を周るくらいにも感
じられる。観光開発には行き過ぎのないように行政指導の細部
がなされている。建設業界の汚職もはびこらないし、大建造物
が観光の対象になることもない。私はこの国のやり方に大いに
賛同しながら、でも<えらい遠回りやなあ>と道のりの長さを、
時にはかこったりもした。
それでも湖の景色を離れて谷を上がるようになると、山裾が
道路に迫り樹木が日陰を覆う。
「ブナの原生林です」とガイドが説明しても、幹はそう見える
が葉はつげの葉のように小さい。小休止の時にそばに近づいて
みると、確かにブナだった。日本でなら掌に三枚程度載るくら
いの葉が、ここでは同じ形で掌に八九十は載るほどのタイニー
ちゃんなのだった。こればかりではない。柏の葉。あれはカシ
ワモチを包むくらい大きいのをご存知だと思うが、ここのカシ
ワは、イチゴも姫林檎も包めない。空豆なら包めるかという程
度の小さい葉だった。こういう進化の不思議は、ダーウィンな
らずとも、すぐ関心を持つに至るものだ。
さらに原生林の枝の多くは、トロロ昆布みたいに寄生植物を
だらだらとぶら下げている。北海道で知ったのだが、名を思い
出せないでいると、菱田さんの奥さんが、
「サルオガセって言うの。」と教えて下さった。植物に詳しい
人だった。
すきなく茂り合う原生林をやっと抜けると、高山の谷は、小
氷河が押しだした石が何百トンとなくつみ上がり、道路に向け
て石垣ができあがっている。十メートルも上がればその上には
根雪が残って、下を水がほとばしるのか澄んだ音を立てていた。
峠を、この国には珍しいトンネルで抜けると、後は一気に坂
を下った。すぐミルフォード・サウンドだった。
フィヨルドの最奥部に船着き場がある。
Fiordはノルウェイの言葉で、英語ではsoundと言うが、南島
の西側五分の一はリアス式海岸でフィヨルドが多い。そこをフィ
ヨルド・ランドと称するが、どの入り江も「(何々)サウンド」
と名が着いている。
Milford SoundやDoubtful Soundは、案内でよく見かける名だ。
船では日本式の弁当が出された。景色を見ながら食べるが、周
囲の西洋人観光客は下の船内のレストランからお盆で持ってきて
食べている。船に迫る崖は、しかし見上げるに相当高い。細い水
の滴りばかりでなく下で打たれれば命を失いそうな水量の落下も
ある。
私の前に、待った後でやっと料理にありついたのか、遅がけに
お盆を持ってきたシニア婦人の、仲間と話す言葉に感じるものが
あったので、「Are you Italiana ?」と、目が合い笑みを交わし
たのを機に言ってみた。
「Yes.(そう、オーストラリアを見てから、ここなの。この後?
USAよ。)」
「すごい眺めだね。」
「いいえ、こんなの、失望。」
「え? なんで?」と私は聞き直す。
「ノルウェイへ行ったことがあるけど、こんなの、山の崖と滝だ
けで、いいとこないわ。あっちはファンタジックよ。」
崖の裾に赤いヒュッテなんかがあるのだろうか。
おばさんは、だから景色よりも日本人に関心があるようだった。
私はしかし眺めには興味を失わずにいて、ビデオを操作する。
また船内を歩き回る。操舵室では、四五歳の坊やが舵を握らせて
もらっていた。寄りそう船長も愛想がいい。私のカメラににこや
かにポーズした。
「キャプテン、事故をしないようにね。」などと思いつきのナレ
ーションで撮る時、日本語が分からない船長は得意そうにVーサ
インするのだった。
フィヨルドの湾口に近づいたとき、船内のアナウンスは、アザ
ラシが生息することを告げた。崖の下に角柱めいた岩があり、上
に数頭のアザラシが身体を横たえていた。下の普通の岩の上にも
他の数頭が寝そべる。しかし動物園で見るのと変わるところはな
い。当たり前の事だが野生らしさを期待して観察する。
船は左舷を二三メートルにも近づけたが、アザラシは髭つきの
頭をわずかに回して関心らしさを示しただけであった。物乞いも
脅し用の吠え声もまったくなく、落ち着いてあるがままの姿であ
った。
<これでこそSee-Lionだ>私はやっと見るべき物を見つけた気が
した。
前方には外海が波立っていた。南極へと連なる。
タスマン海だった。
☆ |
☆9☆ 環境保護の国柄は ☆
☆ 二十世紀が終わろうとしている現代の地球的問題として環境
保護の課題がある。私も、些末な存在ながら私に出来ることは
する決意でいる。車に乗らないことと畑を作ることは、そうい
うイズムの具現であると公言してもいい。
だがこの国に来てみて、俗な表現だが私は「シャッポを脱い
だ」思いがした。
日本にも、干潟を守り、ゴルフ場開発に疑問を呈し、生活用
水による汚濁や農薬など薬品による汚染を警告し、未来の危険
に警鐘を鳴らす運動家が最近は動きを顕著にしているが、私も
そんな動きに理解を示しているつもりだった。だがこの国の在
りようは、私の知る「運動」とは、一皮分も二皮分も脱皮して
いると感じた。
政府が「そういう」方向を、当たり前のこととして示してい
るし、普通の市民が、また当たり前のこととして「それ」を受
け入れ、己の人生の、あるいは生活の一部に「それ」を取り込
んでいる。
前にも書いたが、道路は人影の希薄な場所にまでよく完備さ
れ、一人当たりの舗装道路面積などは日本とは比較にならない
だろうと、バスで観光に繰り出す度に思ったのだが、そういう
道路完備に反して、「山を堀り割り」「河川に大弧橋を架し」
「トンネルを貫通し」などということをしない。在るがままの
山を迂回し、延々と湖の縁に沿って、半日でも一日でも自然を
観て走る。
ワイマカリリ河は、だから思う存分に河川敷を広げ、砂利の
平原の中に幾筋もの大小の濁流を競わせてそれぞれが曲がり下
る。
湖は、山に沿い山陰(やまかげ)の向こうに続く。山は、恵
まれたままの姿を横たえている。
またほんの疎らにしか存在しない町に、観光バスがトイレ休
憩したりするが、この「町」が、聞けば五十戸ほどの集落だっ
たり、十戸足らずの小字(こあざ)でしかなかったりする。そ
してそこには「過疎をかこつ」とか「過疎を嘆く」とか、そん
なマイナーな感覚はいささかも漂わないのだ。
先に書いたテカポでは、ホテル以外のものは、飲食店を含め
ても七軒しかなかった。それでも近隣の、いわば生活センター
だから、八百屋肉屋雑貨屋酒屋以外にみやげ物屋もある。もち
ろんそれぞれが目的別に区別された店には成りきってはいない
から、みやげ物屋兼雑貨屋とか酒屋兼バブ、八百屋兼雑貨屋兼
本屋などとスーパー・マーケットめいた店もある。
観光バスが止まって、団体を降ろしたり新婚の二三組を載せ
たりする。彼らはバス停からホテルへ直に往来するから、小商
店群にはほとんど人は来ない。もちろん賑わわない。
私は朝食後の散歩をした。妻がホテルのテラスから写生をす
るのを邪魔するまいと、湖畔をゆっくり散歩して、生のままの
自然を満喫したウブな精神のままで小商店群の観察に出かけた
のだった。どの店も店番がいるだけだった。「モーニング!」とか
「ハロー!」とか声を出しながら中に入る。
みやげ物を観察し、日本では見あたらない類の代物はないの
かなどと考える。羊毛を脱脂すれば副産物として出来るスキン
ケアー剤などは、日本でも流行った「尊馬油」みたいなもんか
な、などと思いながら見る。<見るだけでは悪いかな>と絵は
がきの一枚でも買おうかと、自然の写り具合を見る。しかしこ
の目で見たすばらしい自然を再現する容量の「絵」は、どう丁
寧に繰り返し見ても、ない。
「何時まで開いてる?」とおばさんに聞いてみる。
「八時まで。」
「シーズンは人が多いの?」
「今よりちょっとは多いかも。もうシーズンの始まりよ。」
「オフは?」
「開くわ、人は少ないけど。ーーーで、日本語で安くするって
どう言うの? ディスカウントもどう言えばいの?『ヤスイ、
ヤスイよ』、『ワリビキよ』て言えばいいの?」
「それはねえ、んーと、紙に書いとくよ。書く物頂戴。」
と、ボールペンで『ヤスクシマス』、『オマケシマス』と書き、
「言ってごらん。」と発音練習をして上げた。
植物の種や苗を売っている。
「これ、買っても国外に持ち出せないのじゃないの?」
「いいえ、ノウ・プロブレム。外国から持ち込むのは大変。こ
の国は自然を保護してる。外へ出すのはいいの。」
そう言えば入国の時、税関で「食品の類は?」と問われたの
だった。
国内の植物が清浄であることを、特にそれを誇るでもなく語
る。また外の文明国が汚染食品になじんで振り返らないことを
も、知っている。
わずかな客を待って店番する中年の婦人の意識がこうであっ
た。バスに乗って湖の形をそのまま丁寧になぞって迂回する。
そして先がやっと細くなり、対岸が近づいてくると、そこは河
の始まりだった。
川鱒がふんだんに生息するという。もはや生の自然を楽しむ
ことにやぶさかではない私は、清水の中の楽園をイメージし、
わずかな緑濁が時に碧水と我が目に映じる情緒を満喫している
と、同乗のアメリカ人が、通路をつかつかと前に出、ドライバ
ーに話しかけ始めた。どうも単なる質問ではない。しつこい。
議論らしい。
一日のすべてを運転するご苦労なドライバーは、ガイド・ア
ナウンスし、日本語ガイドのカセットを入れ、時には携帯電話
を受け、あるいはどこかへ掛けている。もちろん運転しながら
だ。私は神経が細いのか、そんな軽業運転を甘んじる楽天性も
度量もない。内心ではイヤに思って、景色よりも無神経さに腹
立ったりするのだが、今、おまけに米人観光客が議論さえして
いるようだった。
<何をやってんだ、いつまでも>と聞き耳を立てる。しかし50%
も理解出来なかったので、彼と話した植田さんの話しとも併せ
て復元すると、およそこうだった。
「鱒がそんなにいるのにどうして誰も釣らないんだ?」と言う
のが米人実業家の疑問だ。
「魚の世界を乱してはいかん。それに、政府が禁止してるんだ」
とは、観光バス運転手の答えだ。
「政府は、そりゃあおかしいよ。鱒はいくらでも遡ってくる。
人がスポーツしたぐらいでどうってことはないよ。釣ったらす
ぐまた放すんだから。それから、放さないで採って食料にして
も悪くないんだ。」
まさか米原潜の寄港を拒否したこの国の政府がひとしお嫌い
でもないのだろうが、少なくともこの自由人には、個人の良識
と選択にかかるべき問題を政府が法規で個人を制約するのが気
に入らなかったことは事実だろう。
この米人、ニューヨーク州で農場を持ち、自分の肉体と知力
とで、実業家と自称できるまでに家業を築き上げ人を雇い組織
している。七十にしてなお精悍な彼には、政府の「感傷」に服
従して「実業の資源」を手着かずに放置する異国の論理にじれ
ったさを感じたのだろう。
運転手は<そんなことしたら、あんたら観光客がどっと押し
寄せてきて、湖畔にはテントとゴミ、半裸の淫らな人混み。や
がてはみやげ物屋だらけ。次ぎつぎと自然破壊が進行する。最
初のボタンを外したら最後のボタンまではすぐなんだ>と思っ
ていたに違いない。
双方が理解しあうには至らなかった。時間が長かったから議
論を終えただけだった。
観光バスは、一日の走行を終えて町に着く。クインズ・タウ
ンがそうだったが、終点のバス停があったのかどうか、私たち
は知らない。
クライストチャーチでもモーテル前で観光バスに乗ったし、
その後いくつかのホテルに寄って客を拾ってから郊外に走りだ
した。
到着時も、「クインズ・タウンに着きました。◎◎ホテル、
△△ビューホテル、□□ロッジの順に着いていきます。」と、
ドライバーはいくつかのホテルをアナウンスした。これらホテ
ルは必ずしも街道脇のものばかりではないから、一館ごとにそ
れなりの時間を要するのだが、それが当たり前のことのような
雰囲気なので、聞くと、ホテルは現在あるものを、かなり以前
から増やさないことになっているのだった。政府が許可しない
から増えない。だから最近どこかになんとかホテルが出来たの、
あれは旧であれは新なんとかだ、などということはない。指の
数で示せるほどのホテルが、今までもこれからも在るだけだ。
定期バスは、だからホテル発でホテル着の客を受けている。
こうして山や川、野や湖は悠久な空と雲の下にその位置を確
かに占めている。
鳥のことにもふれておこうか。鳥ならキーウイだ。飛べない
この鳥は、ウズラの身体つきでハトほどの大きさ、そして干潟
のシギが長細くつけるくちばしと同じ物を有する。
卵はというと、かわいそうにもガチョウの卵よりも大きい。
博物館にレントゲン写真があるが、産卵直前の卵は、母の身体
の三分の一を占めている。
自然保護の看板国も、看板をはっきり掲げるまでに犯してき
た罪業の一つにこの鳥の減少を数えねばならない。今は保護地
を作って大事にしている。私は見に行かなかった。
街中に川が流れ、「エイボン」川などとイギリスの名を冠し
ている。流水は澄み浅い底には緑の藻が人魚の髪よりも美しく
裾をくねらせている。
流れに逆らって鴨が浮く。首と胸の境めには目を怪しませる
緑の羽毛が輪に回っている。季節がそうなのか、子持ちが多か
った。ヒヨコだが色は鴨の色で、くちばしはヘラだった。
川縁を上がって草むらで散歩したり、座ったりもする。
「可愛いなあ」などと近づいても逃げないのだ。もちろんすべ
て野生で、餌付けしてはいない。
川縁のベンチに、ユリカモメが近づく。くちばしと脚とが赤
い、と書けばすぐお分かりだろう。あの在原業平が
「名にし負はばいざ言問はむ都鳥ーー」と詠んだ鳥だ。私もちょ
っぴり祖国が懐かしい。目が、とび色だ。遠目で視力なら5.0
でも6.0でもあろうと思えるくらいくちばしの脇からきっちりと
焦点を合わせてこちらを窺う。そういう警戒はしながらも、一
メートル足らずのところまで接近してくる。
ボタニック・ガーデンに入った時のこと、日本ではありえな
いほどの大きな石楠花が四畳半の部屋を箱にしたらちょうど収
まるかというぐらいの大きさで咲いていた、いくつも。見とれ
ていると、下の落ち葉の中でかすかな掻く音がして、木の間の
下を覗くと、九官鳥そっくりな鳥が一心不乱に虫を探していた。
二メートルに近づいて、彼はちらと一瞥をくれただけで、仕事
をやめなかった。 それを見つめるうち、園内の小径の行く手
からスズメよりちょっと大きい鳥が近寄ってきた。スズメより
ヒバリに近い保護色だから、うっかりすると見失う。しゃがん
で待つ内、ほんの五十センチに近づいてきた。「パンあったや
ないか」と夕べのカレーパンを取り出す。ここのカレーはまる
でトウガラシ味で、だから残したのだったが、妻は手にしてヒ
バリもどきに差し出す。
彼は逃げはしない。だが四十センチ、三十五センチと近づい
てきたが、次第に距離を縮めにくくしている。首を回し、辺り
への気配りを十回余りもの動作でした後でやっと一歩、といっ
た慎重さになって、後十センチ余りのところでもう待てなくな
った。掌から食べて貰うのを諦めチョイと投げると、くわえて
小径の砂利の上でこまかくちぎっては食べ、残りの一つまみを
くわえたまま木立の間に去った。
この島はもともと無人島だった。マオリだって鳥の歴史から
すればとるに足りない。鳥達はまだほ乳類を恐れる習性を身に
つけてはいないのだ。
私はもともと川で魚を見れば、手でつかみたい習性を持つ。
雪の降る早朝、戸板でスズメを捕ることも祖母に習った。山へ
行くのは木の芽、山菜、ワラビ、ゼンマイを採るためだ。海な
ら浜では貝、磯ではニシ、ニナの獲物が欲しい。
こんな私はキッスイの日本原住民なのだろうか。だから日本
の鳥は間違ってもそばへは近づいてこない。人間に警戒を怠る
べからず、そういう習性を立派に身につけているのが日本の鳥
だ。
この国は、そういう私とは対極にあった。地球上の位置が全
く対極にあるだけでなしに、今、地球の未来を二十一世紀の方
舟(はこぶね)に託す上でも、私のイメージを超えていた。そ
して、私はこれに少しも反発を感じてはいない。
つまり快く脱帽している。
☆ |
☆10☆ 往復百年、苦しかった過去からの感動 ☆
☆ 人に善い人と悪い人があるように、人の世にも善い世間とそ
うでない世間とがある。
世の中が悪くなった、などと人が言う。それは人がエチケッ
トを失い、人を傷つけ、犯罪を恐れない方向へ変化してゆくの
を嘆くのだろう。
二十世紀のいわば大晦日に当たる昨今、人類の作る現代文明
社会は本当に悪くなっているのだろうか。尺度や基準を明確に
してからでないといい加減で主観的な結論しか出せないのだか
ら、私は世の中を嘆く人に、安易に組みしたりはしない。けれ
ども凶悪犯罪はおぞましいし、エチケット欠如の人を見れば批
判の情を、無意識の内にではあるが、視線に込めていたりする。
かつて農村では人に会えば必ず挨拶をせねばならなかった。
十三歳、つまり小学校を終えれば、村人に挨拶できないような
「未完成」びとでいることはできなかった。個人的に言えば、
それはつらい経験だった。
ところが長じて顧みるとき、
「ええ日やね」
「ええしめりやね」など天気の挨拶から、
「きれいにしてやね」
「精を出してやね」など田畑で働くことへの労(ねぎら)い、
「おっか、元気にしてか」
「まめにならしたか(もう産まれたか、の意味)」などと
人と人とが出会えば必ず多彩に心を交流させていた。そし
て黙って行き過ぎることを恥ずかしいこととしていた。だ
から幼すぎる「おとな」にはつらい修行・人間完成修行で
あったのだし、まただからこそ人の世はよそよそしくなん
かなかった。
さて、この国では人と人とが物を言い合うのだ。
バス停で待つ私たちに、散歩の犬連れが「モーニン」と
声を掛ける。高校生らしいのがリュックを背に速歩しなが
ら「モーニン」とやる。住宅街を散歩すれば、時には同じ
散歩者に会うし、また庭先でバラなどに手入れするおじさ
んに会う。すると「ハロー」と声が出される。
私はこの「世間」が気に入って、すぐにこちらから積極
的に声を掛けるようになった。「モーニン」や「ハロー」
にとどまらず、
「いいバラですね」
「いい庭ですね」
「庭いじりが好きなの?」と話しかけてみると、二三語から二
三分の立ち話があったりする。
そんな話しが一番長かったのはモーテルのおじさんで、楡
(にれ)の樹が二十坪あまりも傘状に覆い広がる下で、
「いい庭だねえ。すべてあんたが手入れするの?」と問うたと
ころ、「勿論!」と胸を張って答え、三十分余りも私をガイド
した、あたかも植物園の案内人のように。
彼が特に得意げに見せたのは二十株ほどのバラで、すべて花
が異なる。薄くてヒナゲシのような花びらのバラが珍しいので
「こんな種類の花は初めて見た。」と言うと、「新品種だ。」
と言ってから「たいていの新品種は日本で作られる。」と説明
した。
長話になりすぎてもいけないし、「いい話し、とてもために
なった。ありがとう。」などと言うと「It's my pleasure.」
と応じる。こんな時に私は人の情を感じる。
ホームステイも最後の夕食の後で、ジュンとピーター、私た
ち夫婦の四人は、日没後の近隣を散歩した。
ある角地の住宅の庭に三人が出ていた。一人はホースを手に
水を撒いている。例によって「ハロー」と言い、それだけで通
り過ぎようとした時、一人は中年婦人で四時過ぎに近くのスー
パーマーケットでレジを打っていた女性だったことに気づいた。
「午後、マーケットで会いましたね。」と言うと、
「覚えてます。」と答えた。
私は普段、レジの人を覚えるほど鋭敏な記憶力の持ち主では
ないのだが、この午後レジの後、この婦人はレシートを手渡し
ながら、確か「キュー。シーユーアゲイン。」などと言ったの
だった。<あれ>っと思った。(See you again)と言う言葉は
極く形式的な挨拶語なのかどうか、私にはよくわからない。け
れども、(Thank you)だけで済まさずに(See you again)を添え
る「情」を、私はいたく感じて、それでこのレジ婦人を覚えた
のだった。
「あなたはいいお庭をお持ちです。」私は褒めた。
「これ、私のではありません。親の家です。」
ジュンが前に出て、話した。私には半分も分からないが、日
本から来てホームステイしている、などと言っているようだっ
た。
「私の夫も日本の???」と聞いて、類推して理解する。「今、
旦那さんが日本にいるの?」と私。
「いえ、ちがう。日本の車を持ってるって言ったの。」とジュ
ンが私のヒアリングを訂正した。
「そう。どんな?」
「四輪駆動なの。とってもすばらしい車。」
残念ながら私は車を持たないから、話しを発展させることは
できなかったが、その車を通じて彼女は日本への何かを、賛美
か羨望か友好かを、表現してくれたのだった。
「明日、帰る。いや、まっすぐではなしに一週間の観光旅行を
してからだけど。」
「いい旅してくださいね。」
握手して別れた。
こういうことが滞在中に幾度もあるから、孤独感はない。よ
そよそしいとも感じない。
滞在の前半に、やはり散歩中にだが、妻と話し合った事があ
った。「情」のあるこの国のことについてだ。
「どう思う? かつて日本人は朝鮮人みたら馬鹿にしたぜ。しゃ
べって[トコ行くか]とか[パカするな]なんちゅうと、無条
件に軽蔑した。今、ウチら、たとえばオレの喋っとる英語なん
て、[英語、話すアル][カンコアンナイ、トコ行く、ワカル]
みたいな程度のもんやろ、ここの人が聞いたら。そやけど、ど
やえ、誰ひとりとして我々を馬鹿にしたかえ? ここの人ら、
偉い。よっぽど偉いぜ。」と私が半ば感動しながら言うと、
「そうも言えるけど、ひょっとすると金持ち文明国の日本に対
する感じ方は、かつての日本人が朝鮮や中国の人に対したのと
は違うんやない?」と妻が言った。
「そうかあ。ほんならあの戦後、米軍が来て大きな西洋人が
[ニッポンのダし、はなカーツオ]たら[テンプーラ屋さん、
ドコ、ワッカラナーイ]とか言うても日本人、笑わへん。それ
どころか[日本語、お上手]なんて笑顔で応対する。あの心理
と通ずるものがあるんやろか。」 いや、そんなことは絶対に
ない。言葉が下手でも不器用でも、また土地に不案内でもすこ
しも軽蔑しない。この人情に敬服する。
十一月二十八日の朝、残り二日足らずの滞在を充実させて過
ごそうと、バスをハグレー公園で降り、ボタニックガーデンへ
向かった。月曜だからか普段もそうなのか、美しいグリーンが
もったいないほど人が少ない。ジョギングの二三人にすれ違っ
ただけで奥へ歩を運ぶと、クロケット場があった。その金網の
際からエイボン川を渡るとボタニックガーデンになる。
金網の中には、ただ三人のシニアがハンマーを持っていた。
立ち止まった私たちに、一人のシニア婦人が近寄ってきて金網
越しに「一緒に出来ますよ。」と声を掛けた。人数が少ないか
らかもしれないが、老いても可愛い少女のように快い表情と身
体つきとに親しみを馥郁(ふくいく)と漂わせている。ほんの
一言二言の会話だけで別れるのは惜しい感じがする。
<いい国だ>と感じて渡る橋も下の清流も気分がいいばかりか、
入園料も取らずに大きな石楠花折りしも見上げる満開で、<い
い国>っと声が出そうにさえなる。
花を眺め、鳥を観、池をめぐって樹木の下に歩を緩めて時を
エンジョイした挙げ句に、出口が近いはずの辺りに来た。
小学校の高学年か中学生かの野外学習の帰りの、やや乱れた
隊列とすれ違ってから、小径脇に大きな樹があった。大人二人
の手でも樹囲を取れないほどの太さの幹に樹皮がぶ厚くかさん
でいる。そばに近寄ると見上げるところに札があって、
「Cork Oak」とあった。
<おい、これやで、コルクとる樹は!>と発見の喜びを妻に伝
えようとして、右手を樹に向かって挙げて振り向いたのだが、
妻はやや離れていた。すぐ近くに白人夫婦が寄り添って歩いて
くる。
言おうする表情が偶然にもこの白人夫婦に向けられてしまっ
た。だから紳士の方が「<何>?」と表情を向けてきた。
「Cork. Cork is made of this tree. Skin is very thick.」
と言うと、紳士は私と同じように樹に触った。
「Oh, really ?」と言って、それから私には忘れられない話し
に向かって、ごく自然に会話が展開されていった。
樹皮のことを(bark)と言うことなんか、私に知る由もない。
でもいい話しに細かい単語や文法は些細な障害でしかない。無
視できる。
「コルクが樹皮で出来るなんて知らなかった。ね?」と紳士は
彼の妻を振り返った。品よい淑女もうなづく。
「日本から? ここにもあるけど、日本の桜、きれいだね。」
紳士は七十歳ほどか、でも背筋は伸びている。
「日本に行ったことがあるのですか?」と私が問うた。
「ああ。戦争が終わって二三年後だったが、山口県で観た。
町の名? 思い出せないなあ。」
「岩国? あ、徳山?」
「トクヤマーーのような気がする。ほんとうに綺麗だった。結
婚式があったんだ、花の下で。ーーあんな美しいシーンは他に
観ない。」
「桜は、葉もないの樹にいっぱいの花が、しかも一斉につくん
です。並ぶ樹の下の道にいると、人の顔色も姿も桜の色になっ
て、夢見ているみたいです。」私は聞き役の奥さんにそこの樹
木を手でさしながら説明した。
「夫は、いつもこの事を言うの。日本の桜、日本の結婚式って。
ずっと、しょっちゅうよ。」
「わかります。美しいことが、美しいものをバックに行われる。
表現をこえますね。」
紳士は想いに耽っているようだった。
「あのころ、日本人はみな貧しかった。」私は少年の頃を思っ
ていた。
「そうだった。」
上野駅の地下道の飢えた孤児や疎開児童、焼け出されてバラッ
クに自炊する都会びと、列車のデッキに溢れ機関車にまで乗る
汚れ国民服の姿など、瞬時にイメージされていた。ある時、留
守番する農家のわが家に、母親が病気でお米がほしい、と知ら
ないおじさんが尋ねてきて、お米はぼくにはできないがイモな
ら上げられるからどうです、と言ったら、こんなに言っても分
からないのか、人でなし、と怒鳴って帰って行った。身も心も
ひもじかったんだ。
紳士は貧しかった日本人のことは話さなかった。すぐ「あれ
は美しい光景だった」と、多分青年将校だったころ、大戦が済
んで命の自由を得た喜びのさなかに、まさにうつつに観た美の
世界を、胸中大事に保存していた。 五十年の昔、私が浸って
いたあの現実と同じ現実にこの人もいて、悲惨な人の世に極美
の粋を抽出し、それを五十年の長きに渡って保存している。
私は涙もろくなって、言葉が出にくくなっていた。
「ニュージーランドのお方ですか?」
「いや、ロンドンだ。娘がオーストラリアにいて、年に二回ほ
ど来る。そのついでにここに来たんだ。」
名前まで教えてくれたのを、私は書き記さなかった。 これ
からの予定を互いに紹介しあった後で、
「とってもいいお話しでした。この旅の印象深い思い出になり
ます。ありがとう。」と、私はお礼を言った。
「私もだ。」と紳士が言った後で、
「今度ワインのコルクを抜くとき、あなたたちを必ず思い出す
わ。」と奥さんが言った。
二人は初夏の日差しを肩先に受けながら、出口門の方へ緩や
かに歩んでいった。
<あの人たちより、コルクを見て思い出すのは私の方だろう
なあ>と、思った。
人の出会いは、どんな芸術よりも優れていた。
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