清澄な風景画「ニュージーランド」

                                  背景は、テカポ湖







                                             

















 

清澄な風景画「ニュージーランド」

(「 風 景 画 」シリーズ 6)

☆  ☆ はじめに




☆  退職して一年半が経った。予定では第二の人生が美しく始ま

 っているはずだった。



  いや、ある面では期待通りに事は進んでいたし、その限りで

 の不満はない。



  畑のことを言っているのだ。私はほとんどの午前を、天気が

 良ければ畑で過ごした。その結果、自然の中で心身ともに健全

 な生活を創り出すことができた。私にはこのことが大の満足で、

 知己に会うごとに畑やそれにまつわる話題を好んで持ち出し、

 自慢げに話すのを常とするようになっていた。



  ところが、自然と共にある私の人生にも誤算があったことに

 早くも気づき始めていた。



  一年目、十三日間の中国の旅を、パック・ツアーで楽しんだ

 のだが、廬山や景徳鎮、黄山や西湖らがどれほど珍しくその印

 象が華々しかろうと、事後が大変なのだ。数日間でも畑を留守

 にすれば、夏ならば雑草は激しい勢力で挽回する。もとの管理

 状態に戻すには、根つめた労働のほぼ十日間を、つまり楽しみ

 の日数の倍の日数を必要とする。雑草との関係はこの程度でも、

 作物との関係はもっと悪化して、留守の間にもし雨、風、乾き

 などがあれば、その年の作柄(サクガラ、作物の生育状況)は半

 減してしまう。特に種蒔き時なら、わずかな自然条件の差異が

 収穫時の大ごとにもなってしまうだろう。



  そんなわけで、華々しかるべき我が第二の人生に、外国への

 旅を加えにくくなってしまったのだ。たとえば十日を越えるよ

 うな旅は、楽よりも苦の方が多い。



  それでも冬の間、つまり、十二、一、二月ならば長期の旅も

 可能だ。雑草や作物の成長の速度も、寒いときなら遅いからだ。

 また、仮に暖冬で草がはびこったにしても冬の草は、夏にまで

 持ち越さない。夏草と冬草とは季節で住み分けている。



  一年目の冬、だから十六日間の旅を、英国・ロンドンに計画

 した。旅先には大いに満足したし、畑への懸念も少なかったの

 だが、それでもしっくりとしないものが残った。華やかな人生

 と銘を打つにはまだまた隔たりが感じられたのだった。



  明けて六月、北海道へ九日間の旅をした。釧路から稚内まで、

 北辺部をおおよそ見回る旅は、一冊の記録に余る印象を私の中

 に残しはしたが、夏の畑に対する雑草と作柄との「精算」には、

 およそ二週間を要している。しかも雨の稀な年の炎天下でする

 労働だったから、時には苦行でもあった。そして「畑の盛んな

 時には旅ができない」ことを、この時にも改めて痛感している。

 <それじゃあ旅を楽しめないじゃないか。もう冬の旅を楽しむ

 体力もないくせに>と、反論癖のある自分が、自分に議論を吹

 きかける。



  幸い現代は、多分人類最終の文明段階に入っていて、かつて

 なら不可能だったことを容易に可能にしてくれる。

 <南半球に行くんだ>と、私は考えた。



  こう考える前から行きたいと思っていた二か所について計画

 を練ることにした。一つはオーストラリアのパース、もう一つ

 はニュージーランドである。さらには南米の各地もあるが、こ

 ちらのは治安に不安の伴うところが多いので、実現にはパック

 旅行を考慮に入れることにし、後回しにした。



  パースに向けて私の気持ちがほぼ固まりかけていたころ、東

 京でクラブの会合があり、そこでクライストチャーチのロング

 ステイ計画を知った。



  私は自前旅行をするつもりで計画を進めていたから、「一行」

 を形作ったりクラブが音頭を取ったりする旅の形態に丸ごと共

 鳴したわけではない。しかし、語学研修やホームステイという、

 私には経験したことのない内容だったので、この先十年ほどの

 人生を見通す時、大きな参考になるだろうと考え、参加の意向

 を膨らませたのだった。



  計画の骨子を言えば三つになる。三週間のうち@二週間の語

 学学校入学、Aホームステイ、B残る一週間の観光旅行、とい

 うものだった。



  九月の半ば、私は菱田祐守さんというリーダーになるはずの

 人に電話し、「妻と二人で仲間に加えてください」とお願いを

 した。



  この計画は、自前旅行を旨とする私の側から言えば、たとえ

 がふさわしいかどうかはさておいて、いわば「既製品」か「オ

 ーダーメード」なわけで、手続きを進める上で様々の不満や感

 想がないわけではなかったが、ある時、「今回は不平・不満を

 いっさい言わないことに決めるよ」と妻に言うと、「当たり前

 よ」と言下に断を下されてしまった。



  自前の旅を志すという思想の中には、ひとに采配なんか振ら

 せるものか、という意地も含められているのに違いない。



  私は、この旅に関する申込書の類いのすべてに、我意を加え

 ることなく、全く諾々と記入作業を済ませた。



  そして冬の畑とはいえ長い不在の罪滅ぼしに、出発の前日ま

 で充実した労働をつぎ込んだ。



  なお、毎度のことながら読んでおつき合いくださる方に前も

 ってお断りを申し上げたい。実は書き上げてから気づいたのだ

 が、文中に同行のかたがたのお名前が出てくる。私の仕業で、

 結果的に何かが暴露されたり、不本意な思いをされるかもしれ

 ない。私がそうならないように努力をしたつもりでも文章の表

 示するところに不本意な理解のされようがないとは限らない。

 それで、リーダーの菱田さんご夫妻はそのままのご名字を使わ

 せていただいたが、その他の同行の諸氏は、小説中の人物のよ

 うにフィクション名で表現させていただいた。



  それ以外はすべて実名である。



  また、「風景画」シリーズもこの辺で幾分か飛躍をしたいと

 考え、妻に共同制作を求めた。つまり、水墨画をちりばめても

 らった。                        

                             ☆

☆1☆ 仲間の出合い ☆




☆ 十一月七日の朝、はやる心で8:14に鼓が浦を出発する。予定

 より一本早い電車だった。10:50には難波に着く。



  南海難波駅で発車時刻を確かめてから、昼食には早いが日本

 食を食べ納めようと、千日前方向へ歩いて一膳飯屋に入る。刺

 身の他にサラダ、冷や奴などを数品並べて、



 「お酒、冷やでね」と箸を割りながら注文する。



   ささやかだが料理が賑わう美味しい昼飯だった。



 「ええ店やね。サカナ、新しいしーー」と、勘定書を持ってき

 たオヤジさんに言うと、「みなさん、そう言わはります」と、

 誇りを笑顔の隅に表出して、言った。



  難波から関西空港へ至るには、ラピートなる特急が特別料金

 を取って走る。約三十分だ。急行なら通常の料金で約四十分で、

 これに乗った。



  私は、少しの努力で経済的になるのならばそうすることにし

 ている。乗り物、食品、衣類などそう試みれば生活費なんかか

 さむものではない。さりとて生活程度を下げもしない。贅を省

 いただけのことだ。



  家から宅急便で送ったスーツケースは空港内の窓口で受け取

 る。そして辺りにあるキャスターの一つに全ての荷物を載せて

 移動する。難はない。



  そういう姿で構内を歩くとき、菱田さんに会った。彼は私よ

 りもはるかに多い荷物の山をキャスターに積み、そろりそろり

 と進んでいた。



  集合まではまだ一時間ほどあるから、とりあえず初対面の挨

 拶だけして、私たち夫婦は東京銀行へ行き、当面の必要分とし

 て、20、000\をNZ$に交換した。



  予め株屋で見ておいたレートの相場は[1NZ$=61〜62\]だっ

 たから、65\ぐらいになるかなと予想していたのだが、なんと

 69.36\もの低悪レートで交換してよこした。



  ここで外貨交換について触れておく。



  外貨を手にした私は東京銀行に対して不満、いや憤懣を感じ

 るようになるのだが、これは私一人の損得勘定からくる感情に

 とどまらず、世界経済の中の日本のあり方に対する評価にも大

 いに関わるものだと信じる。

 ョ「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「イ

 、現金  69.36\ 11/07 東京銀行(20,000\↓280$)   、

 、小切手 61.81\ 11/14 B.N.Z   (30,000\↓485.35$)、

 、現金  63.12\ 11/14 B.N.Z   (60,000\↓950.55$)、

 、小切手 62.12\ 11/16 B.N.Z   (20,000\↓321.95$)、

 、小切手 62.22\ 11/28 ANZ Bank(10,000\↓160.70$)、

 カ「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「コ

           ※小切手=Travellers Checks

             B.N.Z=Bank of New Zealand



  この表は、今度の旅行で四回の外貨交換をしたが、お金の種

 類、交換レート、日付と銀行名、及び(○\↓□$)とを一覧に

 示したものだ。東京銀行はズバ抜けて悪い交換率であることが

 分かる。



  この旅の期間を通じて交換レート相場の変動はほとんどなか

 ったことを、私は帰国後、新聞で確認している。だから要は銀

 行の「利」のむさぼり方による違いなのだ。



  さて集合の時間となって、初顔合わせの自己紹介があった。

 菱田夫妻、見送りの娘さんを伴った尾上さん、東京から新幹線

 でやってきた浅井さん、地元大阪の伊原さん、そして若い植田

 さんの都合七人の出合いだった。



  チェックイン時には<通路側でトイレに近い席>を注文した

 いと考えていたが、団体扱いだっただけでなく既に席も割り当

 てられてしまっていた。



  七人の仲間と親しくなれるのかどうか、いつも私はこういう

 出合いの時にふと不安を感じてしまう。金浦までの間に少なく

 とも顔と名前とが一致するようにしなければならないと、なん

 ども首をもたげて確認する。浅井さんだけは、何故か離れた所

 に席があった。



  金浦では乗り継ぎ便を三時間ほども待つ。



  食堂で松茸うどんがあったら食べたいと、尾上さんを誘い、

 売店を足早に見てから場内の簡易食堂に入った。 ない。代わ

 りにアイスクリームを食べた。

                                  ☆

☆2☆ 夜間飛行の風景  ☆




☆ ソウルからオークランドへは約十一時間を要する。食べて眠

 って時間を費やすしかないのだった。



  浅井さんは、何故かまたみんなとは離れた席にいた。



  飲物にはウイスキーを注文し、おいしいご馳走を存分に食べ

 るうちに気分がハイになってくる。周囲は、私たち以外はほと

 んどが韓国人で、何かの拍子に年輩の男と話し始めた。



  日本語が少しできる。日本統治時代に国民学校(昭和16〜20

 年、今の小学校に当たる)で習ったと言って、話そうと努力を

 続けるが、意のままには表出できないから、もどかしい思いを

 しているようだった。



  連れの女性の片方も日本語が出る。かつて大阪に住んだこと

 があると言った。もう一人は全く日本語を解さなかったが、日

 本人に好意と関心とを寄せる中年前半の女性だった。



  釜山からの観光団だと言うから、

 「私も釜山で生まれ四歳までいた。」「家は大新洞だった。」

 などと話して、幼児期の遠い記憶に「お祭か何かの時に大人が

 大勢通りに出て[ヲケギナ、チンチン ナーレ]なんて歌った」と言うと、

 女性は大喜びで手を叩いて、何度も「ヲケギナ、チンチン ナーレエ !  ケ

 ギナ、チンチン ナーレ !」と歌うのだった。



  住所を教え合い、私のハングルの読解力がいい加減なので、

 彼らは競い争いながら私にハングルを教え、住所をメモし終え

 てやっと夜の騒ぎは終わった。



  翌日、そばで見ていた尾上さんは、どうなるかと思った、と

 感想を言った。酔った私には何でもないことだったのだが、は

 た目には可なりの騒ぎようだったのだろう。



  消灯し寝入った。そして夜明けまで空のまどろみが安らかに

 続くはずだった。だが深夜に目覚めた私は、自分の呼吸が異常

 に激しいのに恐怖を感じていた。私はその都度意識して大きく

 息を吸わねばならなかった。<酸素が希薄なんだ>、そう思っ

 た。<これは「過呼吸」の発作なんだ>、そうも思った。



  特別処置室の患者のように胸と口とを動かして呼吸し、水の

 切れかかった魚のようにあえいだ。



  そんなふうに一時間ほど苦しんでいた。



   挙げ句にはトイレで、無理にでも吐こうとした。あまりにも

 入っているのが長かったからか、スチュワーデスが戸を開けに

 きた。



  席に戻って姿勢を変えようと様々な努力をしたり、通路や座

 席の下に自分の身体の一部でも潜り込ませる場所はないかと試

 みたりした。



  二度目のトイレ篭もりの後、やっと身体と心のやすらぎが訪

 れて、まどろむことができた。

                             ☆

☆3☆ ホームステイ ☆




☆ 明けても、機内食には箸をつけなかった。オークランドで乗

 換えの二時間も、トランジット・ルームの片隅の空いた椅子を

 五つ占領して横になっていた。乗り換えの後に出された機内食

 も、匂いをかいだ程度だった。



  クライストチャーチ空港を外に出る。



  そこは初夏のはずだったが、風は寒くて冷たいから秋の末の

 ように感じられた。



  マイクロバスに私たちを乗せ、後ろに荷物用のワゴンをつな

 いで走る。シーフィールド・スクールの職員と日本旅行の職員

 とが合同でのお迎えにきてくれたのらしい。



  着いて上がったSeafield-Schoolは、その時、休み時間だっ

 た。



  ホールの周辺に小部屋風の教室がある。いずれも十人程度の

 部屋に見受けられた。



  ホールには、ビリヤードの小型台があって、一青年が盛んに

 キューを突いていた。キューを杖にしてそれを見守る二人もい

 た。ホールの大部分は低いテーブルを椅子十脚ほどで囲ませた

 設営が二つ。椅子の数よりもはるかに多い学生が、思い思いを

 声高に話しているから、騒音のただ中に私たちが初訪問したこ

 とになる。



  そのガヤガヤの中に職員とおぼしき数人がいて、菱田さんは

 彼らをみんなに引き合わせるでもないし、たまたま近くにいる

 から「ナイストゥミーチュウ」などと言ったりする程度の、確

 かな挨拶も紹介もないまま、片方の椅子の固まりに私たちは座

 った。その一隅にはまだ語り合う学生らしき二三もいる。そし

 て落ち着きなく立ったままの私たちの仲間もいる。



  一人がやや大きな声で「何か」を言い始めたので、挨拶かな

 と緊張したら、「ホームステイ先から引き取りにきます。」と

 言ったのだった。



 「明日はホスト・ファミリー宅でフリーにしていて下さい。ま

 た通学の仕方も教えてくれます。明後日はオリエンテーション

 です。」などと、騒音の中で連絡めいた情報が流される内にも

 ホストが現れ、その都度、学校の誰かとホスト(ホステス)と

 が握手したり抱き合ったり、「オウ、オウ」とやった後で、

 「さあご紹介」となる。



  すると仲間の誰かが立って握手して「My name --」とか

 「Nice to meet you.」などとやり「じゃ、お先に。」と去っ

 て行く。



  中断していた職員の話しが「そこはモーニング・ティーのた

 めのお茶、コーヒーです。電話はこちらで、日本への掛け方は

 ーー」などと再開されると、また次のホストが現れ、職員と

 「オウ、オウ」とやり始めるのだった。その都度中断、と言う

 よりは中断の方が長い。



  意識が集注できなかった。



  ほとんどの仲間が去ってから、私たちをラッセル夫妻が迎え

 に来た。



 「ジュンです。」「ピーターです。」



  二人はとても気さくな感じだった。



 「Yutaka Yabuno」と自己紹介する。妻もそうした後で互いに

 握手しあった。そしてそうしながら<この人たち、どこかで見

 た気がする>と思った。それは単なる感じではなくて、本能的

 な確信とでも言おうか、いつどこで会ったと詳述できるほどの

 明確な記憶ではないが、私の人生のどこかで巡り会っているこ

 とは確かだ、と言ったような感じだった。



  学校側からは夫妻に封書の書類を手渡し、降りて二つのスー

 ツケースをトランクに入れ、車が走りだした。

 「YU-TTA--- ?」

 「YU-TA-KA」

 「Oh, Yuttaka. Ahm, Don't you have a short name ?(もっと

 短い名前はないの)」

 「ん、I don't have any short name. And we Japanese don't

  have such a custom.」



  私は、異国では異国の全てを尊重する、食も住も、礼儀作法

 もその他何でも。でも「私」は「私」で、それは変化しない。

 「私」はジョンでもチャックでもない。もしそんな簡単な単音

 節の仮の名前で呼ばれるとしたら、私は私でなくなる。そう思

 った。



  海岸沿いに直線を長く走ってから左折すると、右にゴルフ場

 があった。それが尽きると右折する。そして数百メートルで左

 折するとすぐラッセル家だった。右側の白い二階建てで、この

 街に二階建ては珍しい。



  すべて真っ白なこの家は、実は中古を買って塗り変えたもの

 だったが、家族の成長とともに家を買い換え、住み移って行く

 この国の習慣からすれば別に特異なことでも何でもない。



 「まるでホワイト・ハウスですね。」

  私はお世辞のつもりでこう言った。が、反応らしい手応えは

 なかった。



  二階が私たちの部屋だった。ベッド二つにテレビ、長椅子、

 小机がベッド・ルームにある。傍らの物入れめいた小部屋には

 整理棚と三畳ほどのスペースがあった。すぐ続いて洗面・トイ

 レ・シャワーの部屋になる。この三部屋のセットが住まいの

 「一単位」らしかった。



  部屋に収まってから階下に降り、私たちは持参した日本人形

 を贈呈した。



  残念なことに、詰め物をすべて出して荷を解いてみると、芸

 者の持つ三味線の糸巻きが一本、はずれていた。



  私は心をこめてプレゼントしてから、意図する所がうまく伝

 わるのかどうかを精いっぱい気にしながら、

 「今、荷をほどいたらこの楽器のストリングを巻く部分がとれ

 ていた。直してほしい。つけるものーー英語で何と言うのか知

 らないけれども、化学的なそれですれば簡単になおせるはずだ。

 思いがけなかったことで、許してほしい。」と言うと、

 「グリュー(glue=糊)って言うの、それ。心配しないで、かま

 わないよ。ーーほんとうにこんな立派な人形をありがとう。す

 ばらしいなあ。」と、二人して喜んでくれた。



   名古屋の大須に人形屋さんがあって、店頭に思わず足を止め

 たくなるような人形を並べる。私は、やや渋いかと感じるシッ

 クな「芸者」を買ったのだった。



  私は、日本の審美感の奥ゆかしさに誇りを感じている。異国

 に、美意識上で大きく水を開けていると自負している。



  ひとしきり感嘆した夫妻は、飾りものの中に場所を作って

 「芸者」の衣装と「しな」とをディスプレイした。 それを眺

 める形でソファーに腰を沈めてから、ピーターは「いっぱいや

 る?」と私にグラスを勧める。



  飲みながら、芸者の話しをする。



  思いのほかによく話しが通じるのだ。<オレの英語もいける

 ぜ>とこの時、感じている。



  食後にも「いっぱい、どう? ーーで、なにがいい?」と促

 す。



  私はウイスキーを所望した。妻はブランディーを言っていた。



  そしてピーターは、ギターを持ち出し、歓迎のホーム・パー

 ティーなのだろうか、歌を歌った。それにジュンが和す。歌の

 技量も雰囲気も、アマチュアーの域にしてはかなり水準が高い。

 私はビデオ・カメラを出して、これを記録した。



  一時間も、あるいはそれ以上も歌っただろうか、私は「荷物

 の整理もあるし、階上に上がりたいのだがーー」と休養したい

 意志を表示をした。



  遠慮とか体面とかふだん私が持つ行動様式の全てをなるだけ

 捨てようと意識していた。だから酒を言われてそのとき私が欲

 しければ「素直に」「欲しい」と答えるようにした。相手への

 配慮はないとは言えないが、純粋に自分だけを見つめて偽らな

 い自分の「意思」を正直に出そうと試みていた。そしてそれが

 多分、西洋の合理主義になじむことであり、ひいてはそれが

 「彼ら」に私たちを受け入れやすくすることになる、とも信じ

 ていたからだ。



 「シュアー。そりゃー疲れているもの。」二人はすぐ理解を示

 し、もすこしどうだ、とか、こんな歌で退屈か、などとは言い

 もしなければ、思うふうでもなかった。



 「明朝、わたしは七時に起きるわ。」ジュンはこう言ってから、

 階段に消えようとする私たちに「Good-night」と声を放った。

                              ☆




☆4☆ ニューブライトンの風景 ☆




☆「学校までの道順を教えて、と、それから一度、ここへ戻る。

 その後、街へ出る。今日の予定よ。オーケー?」



  朝のバター・トーストを食べながらジュンが言った。

 「ええ、ありがとう。」私に文句はない。ただ、

 「あ、バス停とバス時刻と、どこでわかる?」

 「ノープロブレム。」ジュンは<まかしとき>みたいな顔をし

 た。

 「洗濯物は?」と、ジュンは食後に言う。

 「どうやえ? 洗濯物出せって言うぜ。」と私は妻に取り次い

 だ。妻は英語が得意ではない。私が少々話すから<そっちに任

 せるわ>と思っている。

 「出してもええけど、それより使い方、教えてって言うてえ。

 その方がいつでも都合のええときにできるもん。」

 「そやな。言うてみるわ。」と日本語で相談し合ってもなんら

 不都合はない。ジュンは互いの顔を見つめている。 結論が出

 たとみたか、「?」と私を見る。



 「Ah, June. Can we use the washing mashine ?」

 「No, you need not use it. It's my job.」

 「I know, I know. But my wife wants to use it at any time

   she wants. So after washing, show us the place to dry

   laundries, please.」

  「OK.」



  これは遠慮でも何でもない。ホーム・ステイには、学校から

 宿泊費の他に食費も洗濯代も支払われるはずである。だから

 ジュンの言うように、洗濯機前の篭に汚れ物をポイっと入れて

 おいても何ら問題はないのだが、私たちの気持ちは自分でする

 方が気楽なのであった。



  干す時、ジュンが庭の物干しへ来て、クリップを一緒に差し

 た。そうすると家族が家族の洗濯物を手伝い合って干している

 気分になって、<こう言うのを at homeって表現するのだろう

 なあ>と思った。天気は好いし風も強めだった。



  こういうこともあった。最初の晩か次の朝か、ジュンが食事

 について意見を求めた時、私は言った。



 「この国の食習慣について私はまだよく知らない。多分日本の

 食事とは大いに違うと思う。また日本でも私たちは一般よりも

 はるかにベジタブル中心に食している。でも、私はあなたの家

 に住むことになったのだから、あなたはなんら気にせずあなた

 の家の食事を作って欲しい。私はファミリィーの一員としてそ

 れを食べ、そしてなじむだろう。」



  特に「あなたの日常(as usual)」をそのまま受け入れること

 を強調した。



 「分かったわ。」ジュンはすっきりとした表情で言った。



  郷に入らば郷に従え、と諺に言う。私は性格がどこかでひね

 っているのか、諺を遵守するのはいやだ。いかにも主体性がな

 い。



  だが今私は、郷を脱して異国に異体験をする。井の中から出

 てもう一つ広い次元の認識を得んがための挑戦を望む時、慣れ

 きった惰性のどの片鱗にだって未練があるはずはない。



  パック旅行で海外に遊び、味噌汁が欲しいの寿司が喰いたい

 のと騒ぐ「旅行愛好者」に脱皮はない。



  ジュンはその後、何を作るか事前に意見を聞くこともなかっ

 たし、時には作らなかったことさえあったが、私たちはそれを

 変にも、不満にも思わなかった。出された物の味を、日常それ

 を食べる人の気分になって食べた。また何もないときは自分達

 で食品の置き場所から出して作って食べた。



  最初の火曜日の朝、ジュンは「今日は帰りが遅いの。この鍵

 で空けて入ってちょうだい。」とラム毛皮の切れ端をつけた鍵

 を手渡した。そしてその保管をも任せた。仕事のある日は六時

 に帰るとして、私たちがそれより早く帰る可能性があったから

 だ。



  こうして洗濯物も食事も、それからこの鍵も、些細な生活の

 一コマに過ぎないのだが、いずれも「アット・ホーム」な滞在

 を可能にした。ホスト側もゲスト側も、ともに気楽に生活でき

 る。 



  期せずしてこうなったのか、予めこう計画してあったのか、

 ともあれジュンとピーターの心の広さを、振り返っては感じ入

 っている。



  クライストチャーチの中心部は、大聖堂(Cathedral)の一角

 である。全てのバスはそこを起点とし、放射状に路線を延ばす。

 また大聖堂の周辺を「スクエアー」と呼び、周辺部を含めて

 「シティ」とも称する。だから街の人が「キャシードラル、ス

 クエアー、シティ」と三異名で呼ぶ所が同じであることに気づ

 くには、若干の時間を要する。



 「Seafield School」のあるニュー・ブライトンは、市の区画

 の一つで、日本の大都市になぞらえれば「区」、中小の都市に

 比較すれば「町」に当たる。シティからはバスで十分余りを要

 するが、途中に農地や牧場をみて再び街に入るとそこだから、

 郊外の町の感がある。それよりさらに車で十分足らずの距離で

 「わが家」に至るが、その間は、全てが住宅の町並みだった。



  初めジュンは私たちを車で学校へ連れて行った。しかしバス

 の路線通りにではなかった。ゴルフ場に沿い、海岸に沿って数

 分でNew Brightonに達した。



  そこは「モール」と言うのだ、とジュンはかなり新しいらし

 い商店街を示し、「学校前のこの角からあの海岸前の時計塔ま

 でを目印にするのがいい。」と教えた。



  Chopper(食品)やFarmers(衣料品)などというスーパーマ

 ーケットに入った。その他種々の商店をのぞいて回った。食料

 品は、日本に比べてかなり安い。特に肉類なんか、もし若けれ

 ばたらふく食べるんだがと思わせてた。衣料品はそれほどでも

 ない。



  いったん家で昼食を取ってから、今度はシティに出た。車を

 道路わきに置いて、高級らしい店に入る。大橋巨泉の店だった。

 ムートンを白く清潔に並べる店もある。高級志向の店には、日

 本人店員が働く。バス停に近いある店には、関西弁の女性がい

 て、「関西のどこ?」と尋ねると「鳥羽」と答えた。この他滞

 在中に幾人も日本人女性に出合ったが、いずれも異国に孤独を

 味わう雰囲気なんて微塵もない。鈴鹿の娘が東京に出ているの

 よりも、ひょっとするとホームシック感が薄いのではないか。

 いや、帰りたいとか古里が恋しいとか、そんな雰囲気さえ漂わ

 せてはいなかった。



 「そう。うちは鈴鹿なんだ。ここ、長いの?」

 「二年、かな。」と会話もなんでもないことを話すばかりだ。

 「高いね。」

 「そうですね、この辺りは。」



  旧大学が、今やカルチャーセンターに改名されて、小商店が

 テナントする。ガラス細工の土産があって、ジュンは妻にキー

 ウイーのガラス細工を買い与えた。



  午後のコーヒーとケーキを食べてから、博物館をスイスイと

 見て通り、酒のスーパー・マーケットで車に買い込んでから、

 帰宅した。



 「バスの乗り方を教えて貰わなかった。」私は遠慮なくジュン

 に言った。



 「あ、忘れていたわ。すぐそこよ。8:30ごろに行けばいいの。

 で、今から行く?」



 「いや、いい。分かった。」



  実際のところはよくは分かっていなくて、翌朝早めにバス停

 に立ったが、そこには別の路線のバスやスクールバスが通る。

 私は数少ないわが路線のバスを見張るように待ち、白人の小学

 生に会話を試みた。



  いつも遅れるらしいのだ。



  少女は道を向こう側に渡ってまで彼方のバスの有無を確かめ

 てくれた。



  ほとんど十分も遅れたバスは、マイクロバスだった。 回数

 券を買う。少女が教えた回数券は8$だったが、運転手は16$

 (1,000\強 12回分)を要求したから、子供半額料金を教えたに

 違いない。



  二十人も乗ればほぼ満席のこのバスは、さらに詰めて学校に

 至る。終点ではないのだが、ほとんどの乗客がここで降りてし

 まう。



  運転手が先に「Thank you.」と言い、私たちが「サンキュー」

 と応じて、降りた。



  帰りにバスに乗ると、またこの運転手だった。顔を覚えてい

 て、私たちが降車の場所をうまくみつけられるかどうか気にし

 ているときに、彼はバス停よりも十メートルも早く停めて便宜

 を計らってくれた。



  翌日もその次も同じ運転手で、一人が一台で営業するかにみ

 える「Canride社のShore-Link路線」は、不特定の通勤通学びと

 を載せる近代的交通機関とは異質のなつかしい雰囲気を持って

 いた。

                              ☆

☆5☆ 家族づきあい 三景  ☆

[その1 How to communicate]




☆ ここは英語圏で、なんとかコミュニケートできるから私には

 快適であったが、でもよく観察してみるといくつかの理解のす

 れ違いが起こっている。時に重大時になりかねないとさえ感じ

 られたこともあって、その一つを紹介する。通じなくてもなん

 とかなるわさ、と楽観したい人は考えて欲しいと思うからだ。



  その日はアーサー峠へ一日観光旅行をしている。バスは学校

 発で学校に帰着する。



  さんざ楽しんだ後で、一日一往復の観光列車の甚だしい遅れ

 から学校に帰着したのが一時間余りも遅くなった。そしてそれ

 ぞれがホスト・ファミリィーに迎えの要請電話をすることにな

 った。



  尾上さんは言葉が通じないから寂しいと訴えていたのだった

 が、この時、電話ボックスに向かった。そしてカード電話が掛

 からないと訴えた。菱田さんの奥さんが手助けし、ダイヤルし

 て掛かったのを確認してホーンを手渡したらしいのだ。代わっ

 て尾上さん本人が話した。



  私は菱田さんがダイヤルして上げたのまでは確認している。

 そしてコイン電話ボックスに私は入った。



 「ツツー、あ、ジュン? ユタカ。アイム、ナウ、インフロン

 トオブザスクール。ーーイエス、サンキュウ。レイター。」と、

 <すぐ迎えに行くわ>と言ったジュンに応えてから、ボックス

 を出た。



  そこに立つ尾上さんに、「どうでした?」と問うた。



  伝わったのかどうか気がかりだったので、失礼な質問を承知

 の上でする。



 「ええ、家族の人、出て、なんか言いました。知ってるから迎

 え、来てくれる思います。」

 「そうですか。」それ以上は聞けない。



  やがてジュンが車できて、私は尾上さんに「気をつけてね。

 ほいじゃあ。」と別れを告げた。



  しかし気になるのだ。五六分の車の中でも気がかりだった。

 こういう心配事を残すのは身のためにならぬと決意して、家に

 着いてから私はジュンに頼んだ。



 「電話借りてもいい? 実は友達がうまく帰れたかどうか気が

 かりだからー」

 「どうぞ、いつでも。」



  私はファミリー一覧表を持ち出し、ロード夫妻宅へ電話した。

 「友人なんですが、尾上さんはお帰りでしょうか?」

 「いえ、まだですーー」と婦人の声だった。「ーー二十分ほど

 前に、彼女と思われる声の電話があり、『スクール、スクール』ってだ

 け言って切れたんです。主人と二人でなんのことかなと想像を

 巡らしているんです。なにかあったんでしょうか。」

 <やっぱし!>と私は思った。



 「帰りのバスがとても遅れたんです。で、彼女、学校のそばで

 待ってます。迎えに行って下さい。私、うまく意図が伝わって

 いないのではないかと心配でしたので電話したのです。ごめん

 なさい。」

 「いいえ、ありがとうございました。すぐ迎えに行きます。」



  翌日、彼女に尋ねると「なかなか来てくれなかったん。で、

 こっちが家かな思うて歩いてたら、車できてくれはってーー」

 と言った。



 「私、あんたとこ 電話したんだよ。」何か押さえがたいもの

 があって、私は言ってしまった。

 「え、いつ?」

 「家に着いてすぐですよ。」(だから迎えに来てもらえたので

 すよ)とまでは言わなかった。



  迷子を未然に防いだという感じよりは、無謀な行為に対する

 いらだちを感じたという方が、この時のことを正直に表現でき

 るだろうか。



  その前日、学校の雑談でお互いのホームについてしゃべった

 とき、昼弁当は作らないが夜は飲み放題の植田さんとこ、料理

 が手抜き気味でたった一皿しかない江藤さんとこ、部屋が狭い

 とひともんちゃくあった伊原さんとこなどに対して、薮野さん

 とこ、ええなあ、いっぺん見たいなあ、などとみんなは評し合

 ったのだが、そのとき尾上さんはこう言っている。

 「うちな、ご飯出るの。おかずな、インスタントラーメンだけ

 なん。」



  なんやそれ、とみんなは「冷遇」の場面を想像した。



  だが、その夜、私と妻は、

 「ホスト家庭も苦労しとるのと違うか。好きか嫌いか聞いても

 『Oh, Oh』ちゅうばっかりやし、これでええかちゅうても『Yes,

  Yes』やし、さっぱり通じやんから、日本人なら米がええやろ、

 ラーメンなら日本食やぜ、てなもんで、ご飯にラーメンが出る

 んやろ。冷遇やあらへん。いっしょけんめに気い利かしとるの

 やぜ。」

 「そうかも知れんねえ。」と言い合ったものだ。



  その六日後、ジャパン・ナイトと名付けたパーティーが用意

 されていて、その時、ロード夫妻にも会えるだろうから、どん

 な人か見たいと思った。



  さて、家族づきあいがこの項のテーマだ。



  ラッセル夫妻には「ぐるみ」でつきあう二組の夫妻があった。

 一番最初に出会ったのは「Gorge & Chris」だ。最初の日曜日に

 リッカートン高校の校庭でフリー・マーケット(flee market

 蚤の市)があり、スコットランド出の農場婦人二人がバイオリ

 ンと手風琴とでスコットランドの俚謡を奏じてくれたのだが、

 その時、人の流れの中で出会い紹介されたのがこの夫妻だった。



  Gorgeとは握手したが、いきなりキッスを左唇わきに吸い着け

 たのはChrisだった。歳はおよそ七十になろうとするぐらいだろ

 うか。



  もう一組は「Frank & Nessie」だ。Frankは果物商をリタイ

 アーしたばかりで、まだ年金は貰っていない。この国では六十

 五から年金支給になる。



  日曜日、わが家は四人でシティに出た。昼は旧大学の構内に

 出る「屋台」で韓国出の娘さんらの店から巻き寿司を、中国出

 の若い衆の店から焼きそばを、それぞれ紙皿に盛り、ラッセル

 夫妻と妻とが待つレストランの屋外テーブルへと両手を捧げて

 私が運ぶと、ピーターが既にビールを買って席を確保してくれ

 ていた。



 「今夜、パーティする。二ペアーのゲストが来る。親しみを感

 じたら互いにキッスするのよ。それは習慣。」とジュンが事前

 教育をする。



 「日本人は互いに触れ合うことはほとんどないの。私たちは慣

 れてはいないけど、構わない。」

 「いや、無理にしなくていい。」



  日当たりのいい旧大学の門前広場に、パフォーマンスや出店

 が賑わう。散策するうち、わがクラス・メートに会った。私た

 ち以外はほとんどが揃って来ている。



  私は紹介した。

 「You can invite your friends to our party.」ジュンは私

 に言った。

 「今夜、わが家でパーティーが計画されていて、友人夫婦がく

 るそうですが、あなたたちも来て貰っていいって言ってます。」

 私は、特に尾上さんに向かってそう言った。ホームで孤独をか

 こつ彼女に慰めをもたらさんがためにだった。

 「行かしてもらうわ。」と伊原さんは即答する。尾上さんや江

 藤さんは、周囲の動向をうかがう風だった。

 「今決まらなければ後でいい。で、電話頂戴。ジュン、電話番

 号、私の友達に教えて。」



  ジュンは名刺を出して渡した。一枚足りなくて、私が持って

 いたのを、誰かに渡した。

 「ジュンがね、三時過ぎからから始めるけど七時頃までいいっ

 て言っている。タクシーはね、この住所言えば分かるって。じゃ、

 電話してね。」最後まで私のそばにいた尾上さんに再び「事前

 の電話」を願った。



  その夕べ、四時頃からバーベキューが始まった。

  Frank & Nessieが着き、間もなくGorge & Chrisも来た。

  Chrisは前回同様、唾の湿りが残る辺りに「Chu chu !」とや

 る。



  焼けた肉を室内の食卓に盛って晩餐が始まった。でも普段と

 そう変わるでもないご馳走で、それを囲む四夫婦がいずれも一

 時をエンジョイする心情を満面、満身に表出しているところが、

 普段とは大いに異なるのだろう。



  わがクラス・メートから連絡はない。六時を過ぎた。 食後

 のテーブルを片づけ、ダイニングで雑談するうち、ピーターの

 ギターが始まった。ほとんど七時だった。

 「タクシーが来た。」キッチンの窓から外を見て、ジュンが叫

 んだ。「二台よ。」



  私は少々困惑した。電話がないからもう来ないのだろうと思

 っていたし、「備え」もない。



  でもわがクラス・メートは弾んだ歩調で近づいてきた。

 「早く迎えて。そう、中庭の側から入ってもらって。」とジュ

 ンが私に指示した。

 「どうぞ、どうぞ。よくいらっしゃいました。」ソファを勧め、

 持ち物を預かり、飲物を注いだ。浅井、梶、伊原、尾上、江藤

 の五人だった。



  歌が始まり踊りが興じられた。



  私はこの有り様をすべて文章表現したいのだが、二時間に余

 る時を、一時だって余さず文章で充実しなければウソになるほ

 どの楽しい集いを、今、もてあましている。ビデオに写してあ

 るから、<そんなに楽しかったの?どんなことしたの?>など

 と思う人があればそれを観て欲しい。ピーターのギター、三夫

 婦が声を合わせたスコットランドの漁師の歌、ネッシーが故郷

 グラズゴーを懐かしむ歌をミュージカル風のふりつけで歌った

 姿、どれも忘れない。金を出して楽しむ舞台の専門家のものよ

 り心にも身体にも染み込んで、幸せ感を刻みつけた。



  ハワイアン風の歌や踊りも、人の出会いの幸せを実感せしめ

 る。ダイニングに満ちるシニアの、若やいだ動作と嬌声。



  九時半を過ぎてクラス・メートは大型タクシー(マイクロバ

 ス)で帰った。



  後で分かったのだが、町のどこかの店でわが家に電話をして

 くれるように頼んだのだそうだ。店は気安く引き受けたという。



  それについての私の感想は、もう書かない。勿論のことだが、

 <なぜ電話がなかったの?>などと私は言わなかった。

                              ☆

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