背景は、街道の風景
☆ ☆フランクフルターと桜んぼ酒(キルシェワイン)☆☆ 初めての街を歩き始めるとき、あたかも瀬踏みして川渡りす るように、私は辺りすべてに注意を払い、用心深く歩を進める。 角に来れば四つ角の特徴を覚えようとする。帰り道を迷わぬ ためにだ。そこを曲がりでもすれば大ごとで、「こっち、アポ テケ(薬屋)を右。覚えといて。」などと妻に役割を押しつけ たりもする。 また、突然立ち止まる。 「ちょっと待ってえ。」 「これ、まっすぐやないの」 「まっすぐやけど、地図で確認しながら行かなあかんの。ほれ、 見てみ。あそこ、三叉路やで。どっちか分かる?」「ーーー」 「そやろ。こっち。これがハウプトバッヒェへ行く。」 知ってしまえば何でもない街だが、地面もビルも、そして空 までが初めて見る物ばかりだから、いい加減には通り過ごせな い。 選んだ道を右にすこし反りながら進むと、高級そうなレスト ランの庭やテラスの前を過ぎ、「三越」に出た。 買う物は、 ない。 「トイレ、借りとこか。」 この先に用足しの必要がおこったとして、そのとき容易に見 つけられるかどうか分からない。それに夜を徹して飛行機に乗 っていたので、緩やかな気分でトイレに入りたかった、いや妻 がそういう心情になっているに違いないと思ったのだ。 「いらっしゃいませ。」さすが日本人のお嬢さん、礼儀も愛想 もいい。 「トイレをお借りしたいんですけどーー」と妻は、階下のそこ へ向かう。 私は、妻の分も加えて両手に荷物をぶら提げ、所在なく、で もあえて陳列ケースの中の「高級品」に目を向けていた。その フロアーのほとんどの商品を観察するほどの時間を、私は辛抱 して待った。 「どんなんやった?」上がってきた妻に小声で問う。 「きれい。よかった。」つまりゆるりと用が足せたのだ。 「オレも。カメラ、持っとって。」私も降りた。小用の他に中 のむれた入れ歯の悪臭を防ぎたく、丁寧に口腔内をすすいだ。 外はウーバーン(U-Bahn=地下鉄)の入り口や花壇などを囲む ちょっとした「場」があって、取り囲むビル群が見おろしてい る。そこが Hauptwache だった。 ビルを一回り見渡そうとして、右方の歩行者専用大通りの次 に前方の建物に目を移す。 「あれ、マレーシア航空の燕マークと違うか。」 「どれ、ーーーそやそや。」 ともかく行っておこうと広場の右側を回ろうとした。 真ん中に一軒、喫茶店がある。 「これ有名な店やに。わざわざ残したんやて。」妻は記憶がい い。ガイドブックの細かいことまで覚えている。私の方はほと んどを忘れている。 「そうやったか。いっぺん入らなあかんな。」と言いながら向 かい側に出ると、有り難いことにそこに CITIBANK があった。 私は運の良さを喜ぶ。 何でもないことを運や縁起に結び付けるのは、こうして旅す る時に多い。思うに、飛行機に乗り降りすると、無意識の裏に 「いのち」を危惧することがしばしばあるからではないか。今 回の旅だって当初は利用を望んだ中華航空の切符が取れなくて、 結果は他の航空会社利用になったけれども、離陸直前には名古 屋空港のあの「中華航空機事故現場」まで飛行機が地上を進む。 テレビ画面でみた整備場がほんのそこに見えるとき、「いのち」 に無関心でいられる訳がない。また飛行途中の乱気流や臨時の アナウンス、そして着陸が試みられる十数分の緊張感に続いて 「ドン」と着地するまでの間に幾度か、いわば「覚悟」か「引 導」かを自らに強いながら、しかし心中は「まさか」「そんな ことほんとの例外中の例外なんだ」「しかし滅多にないことが 起こるとするすればイヤだ」などと、心のあちこちで、身体の 随所でこまごまと種々の想念が起こっている。 だから入国の手続きのすべてが済んでしまうと、ほっとしな がら(運が良かったなあ)と喜ぶ。 労せずして見つけた CITIBANK にも、そんな意識が投射され ていたのだろう。 マレーシア航空の事務所は七階にあった。エレベーターの一 つに入ると、ビルにも屋内設備にもまったく似合わないほどオ ンボロだった。ダンボール造りのようにも見えた。(工事して る、あるいは塗装してるんだ)と気づいたのは扉を出てからだ。 男子職員が二人いた。 「(英語で話していいですか。リコンファームにきました。で、 実はーーー出来たらうれしいし、出来なくても構いませんが、 この切符はナリタへ戻ります。名古屋に帰りたいのです。変更 できませんか。)」 ここで( )があるのは、翻訳表現だからだ。 「(やってみましょう。)」彼はコンピューターに入力した。 「(ありません。で、いつまでホテルに滞在しますか?)」 滞在中にキャンセル分などがあったら連絡をくれるのだろう。 「(二晩、滞在しますが、それから他の街を見て回ります。)」 「(それは、残念です。多分だめですね。)」 律儀そうな職員は、お辞儀こそしないが実に丁寧で、 「(旅を楽しんでください。)」と別辞を告げた。 経路変更はままならなかったが、気持ち良かった。降りてす ぐ CITIBANK に入った。 ここでもとてもいい思いを味わった。だが別項に書く。 歩行者天国と日本ではいう。自動車をシャットアウトしたこ の通りは、ハウプトヴァッヒェから三、四百メートルほど、通 りの中央の植え込みをも含めて、続いていた。 シーフード屋さんは、表のケースの中に魚介類や惣菜を美味 しそうに並べ、奥には十人程度のテーブルが見える。表には人 が並んでいた。いつかここで食べるのがいいと言い合いながら 通りを進む。 「香港」と漢字で書いた看板が立ててあった。そこから入った 小径に面してあったその中華料理屋は、メニューが実に分かり やすく、(二人で二十マルクぐらい)と予めもくろめるのだっ た。 英語でいいか、と確認してから、ウエイトレスを表(おも て)の写真入りメニューの前まで連れ出して、「ディスワン、アインス、 ウント、ディスワン、アインス」と、英独混交の注文をして、席に戻った。 「ああ、ウント、ツヴァイビア、ビッテ」 ビール小瓶二つと料理二皿の昼食は、〆めて26.90MK(1、988\) だった。しかも満足感を残したので、「チップするか」と、 30MK(2,250\)を支払う。 食後、市中見物を兼ねた散歩を続けようと、通りへ出た。天 気は、いつのまにか沈んでいた。空もそうだが、風が悪い。 「寒いやないか。」歩を速めて身を暖めようとした。 通りは、U-Bahn の次の駅、Konstablerwache まで続き、そ こは広場になっていて、ベンチにくつろぐ人が飲物片手に時を 忘れている。 しかし私たちは、寒気に突然襲われた思いがして、避けるた めにどこかに入ろうとするとき、疾風に乗って氷雨が降り掛か ってきはじめた。 「百貨店やろ、あそこ。入ろ、はよ。」と、ビルを二つ戻って 駆け込む。 高級そうな店に、私たちが買う物なんかはない。寒気を避け、 しばらく雨宿りをすればいいのだった。 エスカレーターを上るとき、 「いー痛! ううー。」と妻が叫んだ。 「痙攣や、いいっ。」苦しげな表情で片足のケンケンをしなが らエスカレーター上の床を脇に退いた。 (しまった)反省と困惑とにうろたえながら、私はどこかにベ ンチはないかと視線で捜した。 (疲れと冷えだ。それにあの劇薬を服用している。肝臓が疲れ の信号を出したんだ) 救急の方法や医療保険のことなど、不時の対応策が頭を巡る。 「ともかくどっかへ座ろう。」 「うん、すぐ治ると思うけど。」 家具コーナー手前に、折しも二婦人が腰を下ろしているのを 見て、そちらへ移動する。 婦人はすぐ立って行った。 厚い牛皮の深いソファーだった。 「膝、曲げて、そこの筋肉、柔らかくなるように揉んでみ。も っと曲げて。」 「うん。冷えたんや。」 「それもあるけど、あの薬や。肝臓に効けるちゅうとったやろ? 疲れた時は、服用を休まなあかんわさ。」 「そんなことない。病院でも血液検査したんやで。構わず飲ん どってええ、って言われたばかりやし。」 「そうかなあ。まあ、しばらくここにおって、動けるようにな ったらホテルへ帰ろ? 自分では分からんでも相当疲れとんの やろ。」 デパートを出るまでにもう一度痙攣が起こった。 ホテルで、二時間ほど、ベッドの上で昼寝をした。時計は五 時に近づいていた。二人は早くも次の欲を満たそうと話しはじ めていた。 「マイン川の向こう側なあ、南フランクフルト駅の辺りさ、こ れ地図にザクセンハウゼンてあるやろ。」 「うん。」 「この辺、ちょうどウイーンのワインケラーみたいに桜んぼ酒 飲ます店が多いってあるけど、晩ご飯、この辺にしよか?」 歩いて十五分くらいか、と推定した。 ガイドブックにある店の一軒めはお休み、二軒めに入ると、 満員の盛況で奥へ進んでも席がない。それでも店員はどうぞど うぞとばかり人に満ちたテーブルを指すのだった。 「出よう。座るとこない。」と、表に向かおうとしたとき、に じりよって席を空けてくれた人たちがいた。 「ダンケ!」と謝して座ったが、一人分に五十センチあるかな いかの狭さだった。 すぐボーイが来る。 周囲を見渡すと、誰も大きいコップを前にするばかりで料理 をつまむ者はいない。予定はソーセージの暖かい皿でマスター ドを塗りながらいっぱいやることだったが、郷に入らば郷に従 うべしと、つまみなしで、 「ツヴァイ!」とオーダーすると、 「キルシェヴァイン?」と確認する。 特に言うべきグラスではなかった。大きめの硝子コップで二 合は裕に入りそうだった。液体の色は、ごく薄くピンクががり、 酸味があった。アルコールを感じないから、ジュースと同じよ うに喉を越す。しかし夫婦は向かい合う私たちへの愛想に努め るから先ほど以来飲んでいないし、左向かいの無口男も不機嫌 そうにうつ向くばかりだった。その他は私たちに珍しげな顔を 向け、言葉のやりとりの順番を待つふうだった。 「ヤーパン? トーキョー? オーサカ? ーーーーーナゴヤーーーーーウー、ナゴヤ」 「ビトゥウィーン、ああ ツヴィッシェン、トーキョー ウント オーサカ」 「ヤアア. ウント ホリデイ?」 「ハーフ ホリデイ、 ハーフ ワーク」 「??」そうだろう。私にもホリデイかワークか判然としない旅なんだ。 「グループ?」 「ナイン. ヴィア アライン」 珍しい日本人やないか、って表情が周りから寄って来る。不 機嫌男もこっちを向いた。 「ユーライク キルシェ ワイン?」 「イエス」 「インメル トリンケン?」 「ヤア、イム ヤーパン トリンケン サケ」 「オー、サケ.セイム?」ここと同じふうか、と手振りで問う。 「アリトル ディファレント.ミットエッセン、ああ サシミ、 ユーノオ?、 スシ、 ヤキトリ、ウント ヤパーニッシ ああ ウントゾーバイター」 「エブリデイ?」 「ノウ」 「ウィークエンド?」 「ああ ディフィカルト クエスチョン」 「あ は はーーー(合唱)」 「インマー ザイネフラウ ツザンメン?」 「ヤー、インマー」だんなは背を伸ばし胸を張った。 「ヤーパン?」日本では、と聞き返す。 「ダーメン ニッヒト コンメン」 話しはこれから行くメルヒェン街道に移った。私は、事前に 知る事があれば幸いだと思ってただ聴くことにした。 しかしそういう知識には関心の少ない人たちらしく、アール スフェルドやシュタイナウ辺りのことで、すでにだんなと無口 男とが、何かディスカッションを始めた。たぶん私たちのため に良い情報を与えたい善意が強いのだろうが、肝心の私たちに は地名や人名以外に理解できることは全くないのだった。とう とうお連れのマダムも加えて、アールスフェルドは●◎◇◆□ ■で、シュタイナウは△▲▽▼※〒だ、と言うふうに比較対照 表?まで出来そうに結論づけたらしいのだが、私たちにはなに 一つ分からないので、さらに問う気も起こらない。 だんなは胸を広げて風を入れ、 「ノイジー(辺りがやかましいから話しがしにくい)」と言った。 確かにここは騒がしい。話がしにくい騒音だった。そしてそ んな騒音が生じるほど、みんなが開放的に話しているのだった。 ところで、この国の人は総じて静かなのだ。先入観なしに、 静かだなあと感じた場面があった。そこは駅の旅行センターだ った。 群衆がたむろしているのに、何か気づくづくものがあった。 「おい、こんなに人がようけおるのに、変に鎮まっとるやない か。」 私たちは国民性の一面を発見して、感心したのだった。 団体で行動する車中の子供達も、また日曜の野外劇を観る大 人も、各自の子供達に注意を与えながら、騒音で他人に迷惑を 与えない配慮が行き届く国民だった。 そういう国民性から考えて、このキルシェワインバーは、よほどの開 放感・解放感を与えていることが分かる。 私がボーイに手を上げ、コップのお代わりをしてからもメル ヒェン街道論議は尾を曵いているようだった。 だが周辺の人は食べ物らしいものを口に運ばない。 「じゃ、これで。アウフビーダーゼエーエン」私は彼らに唐突感を与え るのを承知の上で言った。 「(私たち、疲れた。)」 夫妻や無口男、それに話題には加わらなかったが関心を向け ていた男とも、七八人と握手して外へ出た。 外はまだ明るく、夕食をするには食料を買い込まねばならな い。ホテルまで十五分の道のりに何らかの店があるだろうから と、酔いの頬を涼ませながら、来た道を帰るのだった。 ☆ |
☆ ☆ メルヒェン街道とは ☆☆ ドイツには観光用に五つのルートが用意されてある。日本人 に最もよく知られ、しかも交通の便がよく整えられているのは 「ロマンチック街道」だろう。次いで「古城街道」と「ゲーテ 街道」、「エリカ街道」。そして「メルヒェン街道」の順だ。
注釈 Straße(シュトラーセ=街道)。
Romantische(ロマンティッシェ=ロマンチックな)。
Burgen(ブルゲン=城郭都市の)。
Goehte(「ゲーテ」と「グーテ」の間を発音=Johann Wolfgang von
Goethe、
"若きヴェルテルの悩み" や "ファウスト"などで有名な18cの文豪)。
Erika(エリカ=石楠の仲間、英語ではヒースheathと言う)。
Märchen(メルヒェン=童話)、Märchen Straße
は童話一般に関してではなく、グリム兄弟にまつわる史跡を
巡る街道である。
|
次章「ドイツ人の日本人像」へはここをクリック |