☆ ☆ はじめに
☆ 旅は不思議な魔力を持つ。
疲れきって帰り着いた旅でも、わずかに数日を隔ててもう
次の旅を夢見るのである。喉元を過ぎた熱さがどのくらい
ひどいものだったか、まだ如実に語れる状態の中で早くも
次の熱い茶の味を所望するのか。
「夏は畑があるから出られない。冬に出て長滞在するのだ」
とは半年前、パース滞在の後に決心したばかりだった。
たしかに夏の旅は後が大変で、十日間も手を抜いた畑に入
って除草を始めるとき「四面楚歌」とはこのことかと実感
するほどの夏草に立ち向かわねばならない。
その畑で作業しながら考えた。
(そうは言ってもだなあ、すると北半球の旅には出られな
いことになるではないか。スイスの山々やスカンジナビア
のフィヨルドを楽しむのはもうダメと言うことか)と片側
の半身がねじ込む。
残りの半身が反論する材料は畑事情以外にはない。
すると全身の「私」は、旅を否定する結論には組みし難
くなって、(そうさなあ、なんとか畑がやれる程度の、し
かし楽しみを損なわないような北半球の旅もしようじゃな
いか、人生、うまく行っても七十歳ぐらいまで。すると後
十回も悩めば終わりなんだから)と、前半生に自らに課し
てきた「我慢」「辛抱」「自粛」などという論理なんか、
今は精いっぱいに排除して人生を考えたくなるのだった。
五月のある日、結論を見出した思いになって妻に言った。
「おい、冬だけの旅って決めてしまうと、特に北ヨーロッ
パの旅はもうできやんやない? そやで、夏場も一回か
ーーー二回だけ、行くことにしょうか、帰ってからの畑、
えらいけど。」
私は、一回と言うつもりで話しながら、(一回に決める
のはまだ寂しいなあ)と結論をいっそう緩やかにしたのだ
った。
「うん、ええやないの。」と妻の意思表示があって、直ち
にドイツのメルヒェン・シュトラーセへと夢は膨らんでい
った。
「だいぶ田舎が多いでなあ、行程を急がずにゆっくり行こ?」
六月三十日発の航空券を申し込んだのは五月十八日で、
その時は取れる確信を私も旅行社員も持っていたのだが、
成り行きは危うかった。厳密に言えば、最後まで取れなか
った。帰路を成田着にすることで妥協して、やっと切符が
出来上がったのは六月二十六日。取り寄せるのに三日はか
かるというジャーマンレイル・ツインパスをその日に注文
した。
この日は水曜日。訳あって私たちは大分の娘宅にいたの
で、日に一度の電話連絡を旅行社ときわどく交わしながら、
三十日(日曜日)の朝の出発を準備したのだった。
日記には、旅行社への銀行払込みやシティバンク普通預
金への入金、大分からの帰路に下船して難波で近鉄に乗る
が、その僅かの時間を利用して保険に加入する、などなど
の記録があり、三日半の慌ただしさを思い起こさせるが、
記憶には全く「苦」として残ってはいない。
慌ただしくきわどい時間のすべてが、「充実」していた
ものとして記憶されている。
旅の途中でも、また帰ってきてからでも、この旅をどう
記録するかを思うことがあった。
帰ってからの畑は、案の定、丈夫な夏草が威張って天下
を取っていた。それと戦う私は炎熱に襲われ、滴る汗に眼
鏡を邪魔され、毒虫に腕の肌を刺されながらも、「楽あれ
ば苦あり」、「楽しんだ当然の報い」と割り切って労働に
励んだ。
そんな作業中に思いが定まって、今回は旅の行程を追っ
て語るよりも、テーマ別に旅をまとめてみることにした。
「クオリティー・オブ・ライフ」という言葉があるが、こ
れは死を意識する時だけの言葉ではあるまい。生命を大事
に、貴重に思って生きることなのだ。だから旅にも「クオ
リティ・オブ・ステイ」をあげつらおうと思った。
畑の労働のさなかに、ふと旅の「あの時」や「あの場所」
を想う。そしてその風景画を想念の中に文章化していると、
過酷な炎天からも煩わしい発汗からも、気がついたら脱け
だしていた、というような奇跡を経験するのだった。
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