背景は、ソールズベリーのストーン・ヘンジ
☆ ☆ 人を分類するとして ☆
☆ 一月十六日、まずパディントン駅へ出る。
ここは私にとって記念すべき場所である。1977年12月26日
から1978年1月6日まで最初のヨーロッパ旅行をした時、この
駅に接するパディントンに泊まったが、中世の旅篭の雰囲気
を残した食堂や六畳余りもあるバスとトイレの部屋に感じ入
ったのは、もう十六年も前のことになる。
いかにも大きなターミナル駅で、あの時と変わらぬ構内で
はあったが、どこか違う。人がいないのだ。
駅前の思い出のホテル側にも人気が少ない。
気にはなったが、それよりも用件を果たす方が先で、
「Information」の六角柱の部屋へ近づいて、駅員に私の日程
表を見せ、時刻を確かめた。
列車時刻はすべてが変わってしまっていた。駅員は新しい
時刻表をくれた。
時刻表は「Monday-Friday」と「Saturday」と「Sunday」と
の三つに分けて記されてある。驚いたことには、この駅からは
「Sunday」に該当する列車がないのだ。つまり今日、日曜日は
この駅で発着する列車は一本もない。だから人気がなくさびれ
た雰囲気を漂わせているのだった。
ペンキ屋が脚立を立て、仕事を準備していた。
啓子は「トイレ行きたいのやけど」と言い、脚立の近くにト
イレを発見した。その間私はその辺を見回して待つ。
女が一人近づいてきて、「Good Mornig !」と高らかに呼びか
けてきた。意外に思った私は警戒心を露わにして、じっと女に
視線を凝らしながら小声で「morninng」と返した。女は、くる
りくるりとやや舞うようにしながらホームの方へ去った。それ
を見送った視線を戻すとき、仕事前のペンキ屋と視線が合って、
笑いを送っている。
「どういう類の人?」と私が問うと、「さあ、知らないね?」
と言いながらもケタケタと笑った。
「はじめて?」
「いや、以前に一度」
「どう?」
「楽しんでる。が、ピカデリーサーカスでね、スリに遭ったん
だ」
「ジプシーだろう?」
「いや、白人の少年が三人」
「そう。多分、ここのおかしな人間なんだろう」と頭を指さし
た。
彼は弟子を待っていた。現代は何処も同じで、親方が先に出
勤して遅刻する弟子を待つ。仕事中も多分、あれこれ親方の方
が気をつかうのだろうが。
啓子が戻ってきて、ぼやいた。
「トイレに黒人のひとがおってさ、私の前に入ってった人が5
ペンス出して、中へ行ったの。それでわたしが5ペンス出した
ら、No,Noって言うの。おかしなこと言うと思て、これ、5ペン
スって見せてもだめ。もう一つって言うのやに。そして一つは
自分のポケットに入れて、二つ目の5ペンスだけ篭へ入れた。」
トイレ番の女は、日本人と見て金をせびったのだ。
ハイドパークには「スピーカーズ・コーナー」と言って、自
然発生的にだれでも自説を弁ずる場所がある。
朝日を受けて露の光る公園のその場所へと行っててみた。が、
だれもいない。弁士もいない。もはや廃れたのかと諦めて、そ
の旨をナレーションにして美しいが寒い公園の風景を写す。
ところが間もなく黒人男が現れて、ビール箱を二段積んだ上
に立ってスピーチを始めた。するとどこからともなく人が二十
人ほど集まった。聴衆の最前には黒人のハンチングの男が立っ
て、ときどき相槌や野次を挟んで聴く。それは次第に頻繁にな
っていく。他の聴衆はほとんどが白人だが、珍しげに「観光」
しているに過ぎない。ある者はカメラで撮る。
「この辺から撮るとええよ」と啓子が勧めるが、私は撮らなか
った。弁士に失礼だと思ったからだ。私は見知らぬ人に何を敢
えて訴えるのだろうかと聴き耳を立てた。理解力が乏しいから
かはっきりとは換言できないが、次のような要旨らしい。
<黒人にも知識人はいる。黒人と白人との差異を意識するとい
うこと、それは心理学的現象に過ぎない。人に差異があるとす
れば、白か黒かではなくて、文明人・知識人であるか否かだ>
最前の正面にひとり出てハンチングの黒人が茶茶を入れると、
弁士がまたストレートにやり返す。ヤジ男も負けてはいない。
現実を見ろ、色で差を付けられてるじゃないか、とか言ってい
る。
互いの主張の言葉が同時に発せられるほどにエキサイトして、
ヤジ男はひときわ大きな声でやり返した。
「お前のモンキーピースを外してみろ」
そのとき二人の声がはたと止まり、空気は緊張した。
私は険悪なものを感じとり、そっと後すざりをした。そして
振り返らずにその場を去った。単ににらみ合いが続いただけだ
ったのか、弁士がハンチングに飛びかかっていったか、知らな
い。
☆ |
☆ ☆ 衛兵交代式の宮殿内庭版 ☆
☆ 沈黙の後に何が起こるのか、気にはなったが私にはこれに関
わる資格はない。敢えて考えないことにしハイドパークの東端
のパスを南に下ると、最後はグリーンパークの西端に接する。
ここがハイドパーク・コーナーで、記念碑などあって一つの名
所を成す。さらにグリーンパークの西側のパスを下れば、あと
十分ばかりでバッキンガムの右側の門前に出る。交代式の行わ
れる日を尋ねたのもここの衛士にだった。
今回は庭の中を特に見物したい。空いている鉄柵に取り付い
て場所を確保した。ビデオカメラのファインダーも邪魔なく庭
じゅうが見渡せる。
やがて空に楽の音を響かせて近づく隊列の気配、それに続い
て正門が開き、歩調と音楽とが入ってきた。三隊が入り揃うと、
二百人ほどもの規模になって、音量もさすが名にし負うと思わ
せる。
号令でハタと楽がやんだ後は、「気をつけ」、「休め」、
「進め」、「右向け右」、「回れ右」などと、気合いの入った
号令と動作とがキビキビとなされていった。
<冷たい空気に稟と冴える号令、砂を踏む力強いリズムの足音>
などと表現するのは、私はイヤだ。戦争体験世代の不戦宣言憲
法保持精神に照らして、このような人間集団が作り出す「美」
に感じ入るわけはない。
それでも見物の多くが「美」にしびれて賛美しかつエンジョ
イするようだった。
今日は日曜日だからか、軍とも行進とも関係のない音楽を三
曲ほど演奏した。
昼飯は、またレスタースクエアーから中華街へと来た。一軒
の入りやすいのを見つけ、注文したのは次の通り、説明込みで
記すと、ラーメン風のもの(湯タンは卵が溶かされ、とろ味のあ
る、椎茸などの具の入ったもので、麺は長崎皿うどんに使われ
るような細く黄色いものだった。口に合った。)、八宝菜風の
もの(厚揚げ、いか、ニンジン、えび、肉などの炒めものがあ
んかけになっていた。)、汁掛けご飯(白飯にいか、えび、肉
などの具入りの汁がたっぷり掛けられていた。)それに青島
(チンタオ)ビール二本。支払いは、チップを含めて16.4£、3000
円とちょっとで、料理にも値段にも満足して、午後の計画に出
で立つのだった。
ここから地下鉄ピカデリー線の上の通りを十分ほど西に進む
と、王立美術院Royal Academy of Artsがある。入ると列を作っ
て入場しているので、入る「価値」を感じて催しを見ると、
「モジリアーニ展」とある。アドミッションが4£50pだったが、
さほど目新しくも面白くもなかった。それでも時間を掛けて見
る。
出るとすぐがボンドストリートだ。ここは高級衣料品店が軒
を競う。Saint Laurent,Celine,Luis Vuitton,Hermes,Cartier,
Maxwell's,Loewe,Chanel,Gucci,Ballentyne-Berk等々、この服
装でここを歩いていいものかって感じなのだが、今日は日曜日
のため、いずれも店を閉じている。それでも曇りとてない大き
なガラスのショーウインドーからは、 エレガントな、ゴージャ
スな商品をまとったマネキンが見える。私たちは勝手な品定め
をしながら、それらすべてを見て楽しんだ。時折、今日ばかり
は我が天下とばかり、ホームレスがダンボールを持ち込んで鉄
格子戸前に午睡をむさぼっていた。
Oxford通りに至る。右折してOxford Circusを過ぎ、例の八
百屋通りに入った。 昨日はここで景気よく1£呼ばわりをし
て果物を投げ売りしていた。
果物を積み上げた屋台の上に親父さんが立って、下の若い衆
に指示すると、若い衆は、手術場のソラマメ形の金属皿を五六
倍にしたような器に、果物を力いっぱいに入れてさしあげる。
果物の量はポリバケツに一杯ほどある。
親父は群れいる顧客にそれを示して、
「○○、○○、ワンnパウンド!(○○とは果物の名)」と叫
ぶ。例えば「Nice mandarin oranges, one pond !」と言った具
合である。するとすかさずおかみさんが「Anyone ? Anyone ?
(誰かありませんか)」と顧客群に問いかける。そのうちに
「ハイッ」とばかり手を上げた勇者が袋一杯の果物を受取り、
たったの1£(約170円)の硬貨を一つ手渡すのだ。
景気よく何度も繰り返されていた。折しも大きなオレンジが
容器に入って差し上げあられ,「One paund !, a pownd !」
「Anyone ? , anyone ?」と夫婦でせかす時、若夫婦が手を挙
げて前に進み出たところだった。夫は、背に子供を背負い、手
には既に二袋の野菜か果物かを豊富にぶら提げていた。顔は色
白の銀縁眼鏡で、ひ弱なインテリの相をしている。妻も金髪イ
ンテリふうだ。彼らが投げ売りのお値打ち果物を多量に買うの
を、私は好ましく見ていた。彼らのアパート生活をほほえまし
くイメージしていた。
それは土曜日の店仕舞い風景だったが、今日は日曜日で、露
店商は一つもない。ただ道路面に白いペンキで番号を記すのを
見るばかりだった。
その通りに一軒だけスーパーマーケットがある。そこで牛乳
のパックとサンドイッチとを買って帰った。
ホテルではおばさんと一時間ほど喋った。私がソールズベリ
ーのことを尋ねたので、部厚く詳しい観光案内書を貸してくれ
た。
☆ |
☆ ☆ ストーンヘンジの存在意義 ☆
☆ 一月十七日になった。いよいよ列車の旅を始める。朝は七時
に宿を出ると予定していた。すると眠られないのだ。五時より
は早くから、もう五時か、もう六時かなどと、灯火をつけては
時計を確認する有り様だった。
六時四十分、すでに身支度を整え終えて、そっと食堂に降り、
トーストと紅茶を自前で作り食事を済ませた。
ちょうど七時、まだ人気の少ない駅に入り地下鉄でWaterloo
駅に至る。
駅コンコース奥には、空港にあるような発列車時刻掲示板が、
ときおりガシャガシャと音を立てて更新されていた。私は近づ
いて私たちの列車を探した。が、ない。不安を感じて構内を歩
く職員らしい人に尋ねた。
「まだ時間が早いのでね、後で出ますよ。12番線のはずです、
変更がなければ」と言って、業務中なのだろう、すたすたと行っ
てしまった。
立ち食いのスナックがあったので、そこに入り、12番線を見
やることができる場所に陣取って、一杯のコーヒーを交互に飲
んだ。
ホームに列車が入ってきた。私たちは人のいない列車に近づ
いたが、どの車両に乗るべきか迷ってしまった。私たちの切符
はスタンダードクラスのもので、うっかりファーストクラスに
乗っていやな思いをしないともかぎらない。列車に沿って進行
方向へ歩く職員らしい服装の男に尋ねた。
「ここに(と車両の窓上に十五センチぐらいの幅の帯線が引か
れてあるのを指して)黄色の線があるのはファーストクラス、
赤の線はスタンダードクラスです。Are you OK ?」と教えてく
れた。
中は日本のグリーン並みだった。7:54、発車してもこの車両
に四人程しか乗っていない。外に架線のポールもないからディ
ーゼルエンジンのはずだが、その割には静かで滑るような走行
だった。
物売り嬢がワゴンを押してくる。乗客ひとりひとりをのぞき
込むようにして誘うのだが、「Have you any refrechments ?」
と言っているようだった。
9:22、Salisbury駅に定刻に到着。小さな駅だが構内にInfor-
mationがあり、Stonehengeへの切符を買って、10:55まで市内
観光をする。街のバスセンターから十分ほど歩いたところに、
高い尖塔を有する大きなカテードラルがある。門を入ると朝日
を受けた庭のグリーンが鮮やかだ。寺院の中や尖塔を見学する
には時間の持ち合わせもないし、またこの時刻では観光客を受
けるだけの準備がまだできていそうになかった。私のビデオは
この雰囲気を即席のナレーションで収めて記念にした。
地方都市は、落ち着いていた。
バスはワンマンカーで二階建て、つまりダブルデッカーだっ
た。私たちは二階の最前部に乗るのだが、降りそこなってはい
けないので、乗るときに「Can we go to Stonehenge ?」とわ
ざわざ運転手に尋ね、「Yes. No problem.」と言わせてから笑
顔の視線を交わし、二階へ上がった。
先ほどの駅前にも停車してまもなく街を離れて行った。展望
がいい。彼方に木立があったりするだけで、家の姿もない。冬
の野には麦もない。ただの草が淡い日差しを受けている。街道
はけっして直線ではなく、柵で囲った草地や両側に木を並べる
小川を越えて、なだらかな地表のうねりに沿って走っている。
多分、昔からの街道をバス道に広げたのだろう。
十八歳の大学初年に「トーマス・ハーディー」の「ダーバー
ヴィル家のテス」が英語購読のテキストだったが、私のイメー
ジした学生僧の徒歩の旅かピルグリムかは、こんな街道だった
のだろう。麦刈り作業の清純なテスが、あの少しなだらかな斜
面の上から「未知の不思議な好奇心」をもたらした若い学生を、
ウブにして無垢な心で見つめ降ろしていたに違いない。
途中に一箇所だけ街道の出会うところがあった。店などの数
軒が広場を取りまき、バスが一周した。それを過ぎると、いよ
いよ田舎になった。木立もない。なだらかに草地の地面が大き
な規模でうねるばかりだった。鉄の柵があって、入るものを禁
じている。その向こうに軍の練習機らしい。演習ができるほど
の過疎の田舎なのか、とも思ったりして、平穏、無変化に野を
走るうち、突然それが見えた。
緑の野と白い道、それ以外に何もない野に、いきなり石材ら
しいものの塊が見えた。「あれやぜ、おい」と私は思わず叫ん
だ。
次第に近づき、どの程度の石材がどう残っているのかもわかっ
てきた。が、あれほど期待と神秘感を秘めていたはずなのに、
ないのだ、感動が、驚きが。
何もない野の一本道を挟んで遺跡と駐車場とがある。バスは
一回りして客を降ろした。十人足らずが降りて、入場券売り場
の方へ歩く。外は車窓から見たよりはかなり寒く、風も強い。
施設めいた建物は、食い物と土産の売店の一軒があるだけで、
腹の足しにドーナツを二個買って、トイレを済ませてから廃虚
に近づいていった。
道路をくぐって現場に至るが、その間、この石が数十キロの
彼方から運ばれたことや三世紀ごろまで使われていたらしいこ
とが説明されてあった。
現場は、小径から見るように柵で遮り、最も近い場所でも五
十メートルは離れる。遺跡のほとんどは石柱で三十余りが垂直
に立つ。最も高いのは中心に立ち、十メートル程の矩形の四角
柱の先端には「ほぞ」のような突起が作られてあった。次に十
メートル余り離れて同心円上に八メートル程の柱が立つ。その
内のいくつかが対を成して、上に梁を成す横石柱を載せる。
「コ」の字を伏せた門状の三石だ。更にその外側に六メートル
程の高さの柱が立つが、かなり疎らすぎる嫌いがないでもない。
同じく上に梁を載せる二三ペアーの門状石がある。その他に、
礎石だったと思われる石が十数個、水平な地面に並行にチラホ
ラと横たわる。
取りまく地面が建造物を中心にほんの少し盛り上がっている
ものの、あまりに水平なのだ。すっきりしているのだ。門状石
は、四対が一直線に見通せて、何かの方向を示すようだ。また
他の門状石も九十度変えて方角を見せる。
上に屋根をかぶせればかなり大きな建造物にもなろうし、殿
堂にもなろう。そして回りの広場は千万の人の祈りの場にも踊
りの場にもなったろうし、異様に盛り上がる集団の熱気を有す
る意思表示の場所になったかも知れない。
しかしそれだけのものでしかあるまい。宇宙人が人知を越え
た不可思議な物を建造した、なんて大げさに宣伝した奇をてら
うエセ科学者どもの記述に当てはまる物はなに一つなかった。
石で作ったから残っただけの話だ。
角度を変え、これを撮影し終えると、寒さが身に染みる。お
よそ三十分程で暇を告げる気になった。
バスは往路に乗ったと同じバス、同じ運転手だった。覚えて
いて笑みを交わす。 Salisburys駅前のBarで、一口飲み食
べた。黒いビールを大ジョッキで飲むが、5%の薄さが喉に快く、
つまみとも昼飯ともつかぬチーズを挟んだトーストも乙な味だっ
た。
Londonは Waterloo駅に着く。陸橋でWaterloo East駅へ渡り、
そこからほんの一駅だがテームズを渡ってCharling Cross駅だ。
少々の時間を有効にと、コベントガーデンへ来た。ここの広
場には露店商が密集する。多くは小間物屋で装身具やがらくた
めいたブティックを並べる。食い物店もあった。奥には大声で
パフォーマンスする二人の若者が人を寄せていた。
中華街に出、食品店で明日の列車内のお菓子、ビスケットの
類を買い、例の八百屋通りまで来て八個1£のオレンジを買っ
た。
早めの夕食は中華食堂だ。チャーハンとラーメンを食べる。
今回はチャーハンが特に口によく合った。
宿に戻ってから激しいクシャミに襲われ、しばらく苦しむ。
風呂では、不便な姿勢で髪の毛を洗った。洗い場のない風呂
で汚れた石鹸水に浸って洗う不愉快さは、外国でなければ味わ
えないのだ。
テレビがカルフォルニア、ロスアンジェルスの大地震を報じ
ていた。
☆ |
☆ ☆知恵の行き届いたシェクスピアの時代☆
☆ 一月十八日。朝ゆっくりと英国式朝食を食べた。ハムエッグ、
バタートーストにミルク、紅茶。
8:30過ぎ、すぐそこのKing's Cross駅から地下鉄でPaddington
駅へ。9:18発は「Stratford-on-Avon」号、愛称を持った急行
列車だった。
物売り嬢が、座席の間の通路を通る。缶入りのリンゴジュー
スを買った。
列車がOxfordを過ぎてから、今度は男の押すワゴンがやって
来て、何か言うので、「No thank you.」と言うと、「Free
(無料です)」と言いながらオレンジジュースを置いていった。
Leamington Spa.からは本線と別れて単線の支線に入る。そ
して、ゆっくり走ってStratfordが終点だ。
降りた乗客はさして多くもないが、たいていが観光客と見た。
駅前の広場には観光バスが一台、客を待つ。同じくタクシーも
二三台、たむろする。
今降りた客は、すべてそのどちらかに向かった。
私たちは、自分でする旅、地図を確かめ、これなら街の中心
まで歩いて十分ほどと踏んで、道中も観光の値打ちはあるはず
とリュックは背中、カメラは腹のスタイルで行進を始めた。
駅を出て左に羊の市場があった。今しも取り引き中らしく幾
重にも仕切った柵の間に、羊を股倉に挟み付けて進む男を二人
見た。
道は曲がっているがそのまま進んで十分もかからずに街の中
心の記念塔の前に出た。
そこを左折すればすぐ右側の Shakespeare's Houseだ。
入場料を払い、「カメラはいい?」と問うと、「この辺りと
庭はいい。室内はいけない。」と答えた。
まず庭を映す。いわゆる芝生の庭園ではない。よく耕され草
木が植えてある。それらはすべて花木だが、地面は畑のように
黒ぐろとしていた。
生家が保存されている。分厚い木のドアーの金輪の取っ手を
引いて中に入った。
床は石で冷んやりする所と木の床の所とがあった。いずれも
すり減って滑らかで生活の便に供したことが実感される。
最初の展示室には、原稿や手紙の類があった。1616年に彼は
世を去っている。おおまかに400年前の人だ。無罫の紙に抑揚
の効いた筆跡で綴っている。こんなふうに言葉が、文字が表出
できること、それは作家たらんとする者の憧れだったに違いな
い。よく保存されてあった。
二階の第二室に入ると、係員が私たちに近づき、「Can you
understand English?」と問う。
「Yes, a little」と答えると、
「じゃ、ゆっくり話しますから」と前置きして、他の見学者を
さておいて説明を始めた。私にはぴったりの英語だった。
<ここにある家具は、ここの家族が使ったものではなく、400
年前のものばかりです。このベッドは、丈が短いでしょう。こ
れは当時の習慣で、足を伸ばして寝なかったのです。横向きに
縮まって寝ると息をするのが楽なのです。それに暖炉に対して
こういう位置関係になれるからです>
「この箱は?」と私。
<これは赤ん坊を入れる揺り篭ですよ、こうやって>
二人連れの婦人の一人が割り込んで来た。
「コンニチワ、we say for the first time ?」と婦人は友好的な
眼差しで私に言い寄る。
「We say ハジメマシテ. It means for the first time.」
「Oh,ハジ メ マ ??」
「ハジメマシテ、ハ ジメ マ シ テ ーー」 私は繰り返してあげた。
「And then ?」
「ワタシワ someone's name デス. ドウゾ ヨロシク」
「Oh, it's difficult.--I'm learning Japanese in the
class.」(文化教室でもあるのだろうか)
「It will be difficult. You can say only コンニチワ. And I'm
sorry I can't speak English well.」
「Oh,no. the same to my Japanese.」
これは多分、私への慰めで言ったのだろうが、私の自負心は
少々萎えてしまった。
階下に再び降りると、そこは台所で、木製の調理台の上に
鴨が、くったりと死んでいる。首の青光りする黒の部分が変
に生々しい。
「当時は、新鮮な肉を食べるためにこうして台所で解体しまし
た。」と係員が説明するが、本当の私は、こういうあり方を知
る人間なんだ。私の幼時には、姉の女学校の割烹のテキストな
んか、鶏の毛のむしり方や産毛の処理法、ワタのぬき方など図
入りで示してあったし、客を迎える前の農家が、鶏をツブすな
どは当然のことだったのだ。私には驚くに当たらないが、
「Oh, really ?」って表情で聴いてあげるのだ。
「今でもこの辺りではこうして食べるの?」
「ええ、ハンターが取って、それを食べることもありますが、
ドイツ人の影響で、最近は家庭では七面鳥を食べるようになり
ました。」
「で、これ、なに?」台所のほぼ真ん中、窯の焚き口から二メ
ートルほど離れて天井から床に細い柱とも棒ともつかぬものが
一本立ち、自在鈎を連想させるが、革の紐がついているのを、
私は尋ねてみた。
「ここのこの輪に、こうして赤ん坊を入れたのですよ。」
「ああ、歩行の練習になるのですね。」
「あ、それもありましょうが、火を焚くので、危険に近づけな
いためなんです。」
そうか。頭がいいなあ。
「Oh, Well-considered tool !」
安全も守り、そして自由を奪って拘束することもない。
「この小さな扉は?」壁の中に入るかのような扉を尋ねると、
「そこから地下に入ります。冷たいので食物を貯蔵するのにい
いのです。」
異国の旅先で、係員の説明がこんなに行き届いて心に染みた
のは初めてだった。嬉しかった。
売店で、絵葉書を買った。五枚差し出したのだが、小母さん
は代金を四枚分(40p)しか取らなかった。
すると私の内面で(やったぜ、儲けた)とほくそ笑む心と、
(ゴマカシはいけない)という良心とがカットウを始めた。出
口まで、だから足が進みにくい。でも、最後に「盗人根性」が
勝利して、私は返さなかった。
昼飯の店を二三選り好みしてから入った所は、いかにも地方
の旅篭のパブを思わせた。大きな握りのビール出しのカウンタ
ーもさることながら、粗い木造りの客席の真ん中には、アルコ
ールの蒸留器のような、胴製の円筒がしつらえてあった。
先客の一人は、料理を取らずに飲んでばかりいる。聞きもし
ないのに話掛けるようなそぶりをするが、発音が妙に内に篭も
って何を言うのか分からない。
私たちのご馳走は、大ジョッキの一つはハイネケン、も一つ
はビター、デッシュはFish & Potato(4.25£)、Chicken Roast
& Potato and Salad(4.50p)、しめて(11£74p)。こんなに美
味しく食べて2000円ちょっとだった。
駅へ急ぐ。13:55に乗れば、帰りは予定より少々早い。ロー
カル線を乗り継ぐがそれも旅の収穫になろう。Leamington Spa.
で14分、Wokerで26分の接続待ちをしたが、Woker駅内のマーケ
ットで夕食を買った。
ホテルの食堂で、買ったビールとクロワッサン、それと宿の
紅茶とで、夕食を済ませた。
☆ |
☆ ビートルズはいずこ ☆
☆ 一月十九日、8:40から行動開始、Euston駅へ行く。この駅で
は、珍しく改札があり、客を並ばせて乗車前に切符をチェック
した。
乗ってみると、この列車には不要なはずなのに、「Reserved」
と表示された席がところどころにあり、一般客は予約札のない
ところに座る。
車両内には四カ所ほどテーブルの付いた席があるのだが、私
たちはテーブルつきの席の、しかし進行方向に背を向けて座る
ことになった。列車はまっすぐ北上するから、南東から差し込
む朝の光が右前方にまぶしい。
ここEustonからLiverpoolまで約二時間四十分の旅で、列車
は快速に飛ばす。
テーブルを挟んで予約席を独占していたのは五十前の働き盛
りの男だった。角ばった分厚い黒のアタッシュケースに、書類
が詰まっている。移動携帯電話を出し、ときどき電話する。書
類と計算機や筆記用具で事務作業に余念がない。執務室ごと列
車に乗っているようなものだ。
朝日がまぶしい後部左隅にも先ほどから携帯電話する男が一
人居て、ひっきりなしに電話している。イギリスの現代ビジネ
ス事情を見た思いで興味深く観察していた。
向かい合う男が、仕事にちょっと切れ目ができたようで、私
たちが嘗めるアメを勧めたのをきっかけに、喋り始めた。彼と
て乗り合った異国人に関心がなかろうはずはない。生来は口数
の多くなさそうに見えたが、途切れるかと見えるが、話題を探
してはまた話しが続く、と言ったように、Liverpoolに着くまで
話しをした。
どんな話しだったかは再現できない。私は「会話」に真剣で、
いわば英語をひねりだそうと必死の努力を続け、また「ヒアリ
ング」に全神経を集中していたことは間違いない。そんな記憶
の隙間に話題になったことが思い出されるのだ。
彼はデザイナーだと言った。だがどんな類のデザイナーかと
言うことが、私にはなかなか理解できないでいた。質問を重ね
て、彼が展示場などの照明をデザインする専門家であることが
わかった。大は博覧会・見本市のようなものから会議、集会、
小は商品の陳列に至るまで、彼は絵や図面にデザインするのだ
そうだ。
この日、リバプールで「会議」がある。その会議場は、私た
ちが見物して見たいと思っている所にある。
携帯電話は「アイワ」の製品だし、計算機は「カシオ」だっ
たから、日本の電気製品から日本製品のあれこれへと話しは移
動する。彼には「反日」的な感情はみじんもない。むしろこん
な製品を生み出す日本を貴いとさえ感じている。
私は、彼には言わなかったが、性能の良い機器を見極め、効
率よく、しかも打ち込んで仕事するビジネスマンを、「美しい」
とも感じていた。
「忙しそうですね。疲れることはないの?」と、聞くと、
「この仕事は実におもしろいんです。夜遅くまでしたり、徹夜
したりすることもあるけど、全然疲れたことはありません。」
と答え、この仕事でフランス、イタリア、ドイツ、そしてアメ
リカまでも行ったりする、とも言った。
「ビートルズ?。そんなに記念になるものはないけど、やっぱ
りドック、私もその近くで会議だけど、ドックのあたりかなあ。
で、帰りの列車は?」
「14:45を、一応は予定しているけど、決めた訳ではないの。
ひととおり見て、今日中にロンドンに戻る」
「そう、また会うかもね」
彼は仕事だし、私たちは観光、いわば遊びだ。行く先がほぼ
同じにしても(いっしょに連れて行って)などとは言いたくな
い。ホームで分かれ、私たちは駅前の観光案内へ何かの情報を
得ようと向かった。
しかし地図もない。愛想もない。つまり何の足しにもならな
かった。手持ちの地図で何とかしようと街へ出ると、歩くにつ
れてこの地は観光客に便利であるように作られていることがわ
かった。それも最近、そうなったと感じられた。
表示板が通りの随所に立ち、それに従えばどこへも行けそう
だったし、駅から前方への広い通りが車を締め出した、いわゆ
る歩行者天国になっている。
「Dock」とか「Beatle's Story」と白く書いた表示に従えば
いいのだ。見えないが次第に海に近づくのがわかる。風に塩が
ある。冷たく暗い海だ。風が冷たい。 街を抜けると広い通り
があった。大型の、中型の自動車が左右する。道幅が広いから
十分に気をつけて横断した。するとそこは既にドックの広場で、
私たちはビートルズ、ストーリーを見るべく、左の方へ進んだ。
大きなプールが二つあって、それを六七階もあるビルが取り
囲む。その一階には、若者グッズなどを並べる店が何十も入り、
漫歩する雰囲気にしてある。これがBeatle's Storyだ。息子の
桂に何かビートルズにちなんだものを土産に買おうと、意識し
て見るが、これと言ったものがない。Tシャツに何かを書いた
り、描いたりしてある程度の記念グッズばかりで、世界を魅了
した新奇な音楽を記念するものはないのだ。
それでも一渡り見て回った。海側を歩くとき、寒い風にさら
された。ドックに面していかにもそれらしくマストの船が置か
れたりするが、海の先に見やられる岬には、冬の曇りが薄くか
かり寂しい。若者どもが売れない頃、こんな寂しい雰囲気の中
で切ないメロディーを編み、奏でていたのだろうか、などと敢
えてそれらしい気分を醸してみたりした。
ほとんど一周し終えたところに食堂があり、すでにランチタ
イムには遅いころおいなので、中の客が二人、三人と食べ終え
て出て行く。
黒板にチョークで記されてあるメニューには、数種があった。
Chicken & Chipsを二つとSalad、そしてコーヒーを注文した。
「ビールも二つ」と言うと、「すみません、ビールやスピリッ
トの類はおかないのです」と答えた。(そうか、ここは若者が
訪れる場所なんだ)と納得するものの、客には若者はいない。
いづれも高年、老年ばかりだった。およそ満足して食べ終え、
10£と30p(2000円弱)を支払う。出るとき店員にも店の相客
にも、有名人のように愛敬を振りまきながらバイバイした。
団体でパック旅行するより気分がいいのはこんなところにも
ある。日本人は彼らにとって珍しい人間であり、私の方は異質
のものに我が手で直に触れたい欲が満たされる。この条件で接
する異国人同士がいがみ合うことはない。いつも親切、常に友
好的である。
あたりの雰囲気だけを土産話にしようかと戻ってくる歩行者
天国の大通りで、標識の一つに「Cavern Walks」とあるのを見
つけた。その一つの横町が「Mathew St.」で、ガイドブックに
は、名を成しかけたビートルズがこの辺りで演奏を繰り返して
いたとあった。
やや胸をときめかせて横町に入ると、すぐショッピングセン
ターがあった。三階建ての円筒形のそれは、一階の平場の真ん
中はベンチを置いた憩いの場になっている。その一隅に、四人
の演奏像が作られてあった。
一人はスネアードラムを、三人はギターを、演奏している。
私はこれをビデオに収め、息子に義理を果たしたと思った。
だが、近づいてどう凝視しても、どの像が誰に当たるのか、
(背丈などからわかるのだろうが)私には容貌の差異が感じら
れないほどの技術水準だったので、彼らの評価が、その世界の
者と一般、特に生んだ郷土の人とは可なりかけ離れているので
はないかと思ったりした。
駅がそこに見えるほど近づいてから、「割引」の広告を大き
く外に出す店があり、入った。雑貨屋の類なのだろうが、香料
(ポプリ用のハーブ)一袋を土産に買った。
帰りの時間を意識しなかったが、駅の発車時刻掲示板には
「3:45 Euston」が間もなく発車しそうだった。終点で降りる
ときには前の方に乗るのがよい。列車に沿ってホームを進む時、
車内から盛んに手を振る者がいた。行きに一緒だったデザイナ
ーだった。
同じようにテーブルの座席に向かい合って座り、ときどき喋
りながらロンドンまで戻った。
名前は「Colin Cox」と言い、名刺をくれた。余すところ三日
と言うと、ぜひ見て置くがいいと、二箇所を勧めた。一つはグ
リニッチのオブザーバトリ(測候所、ここが東経・西経の起点
になっている。現在は旧測候所と呼ばれ、機器や資料を保存し、
見学に供している)、もう一つはロンドン塔をテームズ沿いに
少し遡ったところに雰囲気のいい界わいがある、そこがいいと
言った。
何故か列車は時刻表の時刻よりはかなり早めにEustonに着い
た。そこから十分も歩けばホテルだが、ちょっとKing's Cross
駅構内へ寄り道して、クロワッサン一個を買い、部屋で食べる
夕食にした。
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☆ ☆ エディンバラとチョーサー男 ☆
☆ 一月二十日。早朝の6:00に列車は出る。そのためにこそ駅と
目と鼻の先のこのホテルに宿をとっているのだが、夜通し時刻
が気になってよく眠れなかった。
5:40、ダイニングルームに降り、紅茶を一杯ずつすすった後、
すぐ前のKing's Cross駅へきた。朝飯用のハンバーガーをパッ
クさせて、持って乗り込んだ。
朝は次第に明けて行く。天気は意外に良好で、Edinburghま
で五時間の旅は、広い野を眺め低くなだらかな丘を見やって滑
るように進んで行く。
私たちは前日と同じくテーブルの座席を陣取っていた。する
と途中から乗ってきたアタッシュケースの女性が、私たちの向
かいに座り、書類を出して仕事を始めた。ときどき携帯電話を
いじくるが相手は出ない。
この三十ちょっとかなと思われる女性はどんな職業なのか、
今している仕事はどんなことなのか、私の好奇心は究めたくて
たまらない。景色と観察とを繰り返していた。
彼女の書類はいずれも分厚く、文章に番号が付されている。
法律の条文のようだった。見える端をよむと、合意だとか登録
とか判じ得る言葉が散見される。弁護士だろうか、いや弁護士
の助手のような仕事なのか、ともあれ私たちの向かい合わせに
いながら、目を通し鉛筆でコメントをときどき書き込み、相手
は出なかったが電話を掛けていた。
車窓の野原がちらほら海岸の景色をまじえる頃、彼女は書類
をしまい込んで立ち、細身をまっすぐ立てて大股に歩み降りて
行った。
Edinburghは大きな駅で、私は地図を開いたまま駅を出、あ
の辺りかと丘の上の建物を目指そうとした。二三歩を歩いて突
き当たりそうになったのが若者のアベック、歩きながらのキッ
スとも言えそうないかれようだった。なぜか私は彼らに声を掛
けてしまった。
「Is this the way to the Castle ?」
「No.This way. Go straight and at the second, turn to
the left.」浮かれ男は私の背中を示した。私たちは逆方向へ
進むところだったのだ。
「Thank you so much.」私は心からお礼を言った。
大きな記念塔があって、これを撮影し「もう一つ先の道やさ」
と左折の道を確認する頃、先ほどのアベックが、私たちの理解
度を気にしたのかそばまで来ていた。
その道は公園のような所を通り長い階段を登る。登り終えて
バス道路を横断すると一気にエディンバラに入城する。
私たちはタクシーにも乗らない。自分の足と自分の口で地面
と人とを確認しながら自分の旅をするのだ。
まず城壁から街を見おろす。こうして権力者は領民を睨みす
えたのだろうが、眺望はすこぶる良好だ。そしてどの方角にも
届くように砲眼、銃眼が備わっていた。往時の大砲など二十門
余りも置かれ、撃つ時のための反動止めの金具などの頑丈さも、
実に生々しく存在する。教会の尖塔、地下からうごめき出るよ
うな駅、そして暗く寒そうな海、彼方には北海が荒れているは
ずだ。
景色を見てひとしきり味わった後、城内見学をする。
いちいち話せば冗漫になるから、箇条書きの報告にする。
1、イギリス王家の王冠のいわれと歴史とが実物と絵とで丁
寧に解説されてあった。王剣も展示と説明とがあった。
2、実用だった武具の展示があった。
3、今世紀の捕虜収容所がここにあって、一部を完全に保存
していた。
ともあれイギリス王家を言うときには、ここにある歴史を知
らねばならぬのだろうが、私の関心は「中程度」でしかない。
私に最も興味を起こさせたのは、事実、3であった。
城を下って街に入った。よさそうなレストランが見つかって
入ったのが、既に二時になっていた。テーブルに着いて眺め回
すと、天井の高い木造建てで、何故か中世風のはたご(旅篭)
のように見える。いいとこへ来た。
ビールと、ラムなんとかとじゃがいも、ビーフなんとかと
じゃがいもを注文した。壁の小高い辺りに学校で言う小黒板に
黄色、青、白の三色チョークで書いてあったからだ。注文を終
えてカウンターからジョッキのビールを運んで飲む。異国の味
と今までに届いたことのない喉の感覚とが染み込んでいく。
ウエイトレスが料理を運んできた。見て私は小踊りせんばか
りに嬉しくなった。
料理の名を知らないから表現はぎごちなくなるが、お椀ぐら
いの鉢にパイ様の物で蓋をしそのまま蒸し焼きにしてある。そ
のかぶった焼き物を突き破りながら中の料理と共に食べる。中
はラム肉と野菜の煮込み、も一つは牛肉と野菜の煮込みだった。
椀に被り物があるからいつまでも熱い。肉汁の味が十分に出て、
その口腔内ないへ、大じゃがいもをふかっと丸ごとに蒸したの
を匙で割ってすくい入れる。両者の取り合わせが、こんな言葉
では届きようもない食事の満足感をもたらしていた。ビールは、
味は違うがコーラの口ざわり、それで「ごわさん」にした口に、
蓋を突き崩しては肉料理をすくい上げる。幸せ感が膨らむとこ
ろへさらにじゃがいも、土間が広い中世の旅篭ふうのレストラ
ンをぐるっと眺めて、これが旅の味なんだと我が感覚を確認し
ながら、再び口をビールで「ごわさん」にする。 終わりを告
げたら、12£32p(2095\)だった。しかもなぜなのか、誰もチッ
プを出していないので、「郷に入ら」ば従わない理由のあろう
はずがなく、言葉では「Nice taste. Thank you.」、態度では
笑顔で、好意を示して辞去した。
帰りの列車は速かった。往路に五時間かかったのに四時間で
走り切る。冬の夕べは早めにだそがれ、しばしは感傷的に外を
眺めていた。
ロンドンにあと一時間ぐらいになって、さきほどからやや気
になっていたのだが、通路を挟んで斜めに座る男と話し始めた。
彼の持っていた地図が、私の持つブリットパス用のと同じだっ
たからだ。同じだが私のは裏側が欠陥(裏に日本人向けの説明
があるため参照すべき都市別の小図がなかった)で、もとの現
物を見たかったから、私のを示して見せて貰ったのだ。
彼も私たちに関心を寄せていたに違いない。話しは深まって
いった。
彼はロンドン郊外に住む。チョーサーを愛し、チョーサーの
ことなら誰よりも詳しい。そして全国、頼まれればどこへでも
出かけて話しをする。話しは、時に通常ではない。チョーサー
になりきって、中世の英語で話したりする。
「本名よりチョーサー男(Chaucer Man)と呼ばれています。」
と言う。
「読んだことはあるか」と聞くので、
「カンタベリー物語(Canterbury Story)を読んだ」と答えると、
「いやCanterbury Talesといいます。」と訂正をしてくれたが、
その時の発音が「キャンタブリ、タイルス」と聞こえた。きれ
いな発音で、こんな人に若い頃、英語を習いたかったと感じた
が、「テイル」ではなく「タイル」と聞くと、音声がすぐさま
「物語」へ結びつかないで、しばしうろついてから、まごつい
てから「物語」だがちょっとこの辺「弁」なのかと認識される。
大英博物館の「アウカイ」や八百屋の「マインガウ」も、こ
んな戸惑いを私の引き起こさせたのだ。
彼は自らを紹介するパンフレットを三種、私にくれた。そし
て日本の古い言葉と発音について私がしゃべったら、面白そう
に聞いてくれた。
昨日はデザイナー、今日はチョーサー・マンと知識人に出合
い、知り合った。これも旅の良さの一つだろう。
書く順序が後になったが、エディンバラの城内のみやげ物売
り場で、「ウイスキー味のキャラメル」と書かれていたので、
それを二箱を買った。みやげ物らしい物を買うのはこれが初め
てだった。
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