背景は、ソールズベリーのストーン・ヘンジ                                             













 

☆  ☆ 残り少ない日を有効に ☆




☆ 一月二十一日。あと二日を残すだけになった。(今日こそは

 みやげを買おう)と、何だか切羽つまった思いになって、

 OxfordからRegentへと歩く。もはや街中は我が庭のごとく迷う

 心配などないから行きつ戻りつ、同じ店に二度三度入って比較

 研究する。けれども努力の甲斐なくなかなかそれらしいものが

 見つからない。



  最初私が探したのは、還暦用の「赤いもの」であった。本来

 なら赤いチャンチャンコだが、私にも粋がらせてもらえば、ス

 コットランド風の衣装の赤と緑や青で鮮やかなチェック地で仕

 立てられたベスト(チョッキ)を着たい、それをここで見つけ

 ようと願っていたのだった。もちろんここはイギリスの首都・

 ロンドンだから赤いチェックのチョッキなどいくらでもあった。

 おおげさに言えば、それらのいずれも私は気に入っていた。



  しかし困ったことに、服装と言うものは部分だけで我が身に

 フィットするものではない。私のイメージの中でカッコよく膨

 らんでいた「スコットランド・チャンチャンコ」姿の還暦の若

 じいちゃん姿は、気に入ったどれを試着しても、あるいは試着

 する以前に、帽子にはこんなのがいい、とか、半ズボンにこれ

 を着るといい、とか、さまざまの「要求」を付加させるのだっ

 た。もし単独に「チョッキ」だけを着るとすれば、「ケッタイ

 ナジジイ」になるはずだとは、啓子のアドバイスだった。



  私は還暦の「赤チャンチャンコ」をすでに諦め、それ以外で

 何か良さそうなものを買おうとしていた。バーバリーのカシミ

 ヤ・スカーフ(手先を暖める筒状の毛皮の防寒具をMuff,襟巻

 きをMufflerと称するが、ここロンドンではScarfと呼んでいた。

 すなわちCashmere Scarfと言えばその商品とわかる。)にする

 かとも思ったが、同じような柄(がら)でありながら、

 BurberryでもCashmereでもなければ安い。



  その観点で見つけたのが「スコットランド・ウール」の店で

 上質羊毛のチェック柄のマフラーで、それを買った。これが私

 が私に買った唯一のみやげだったが、バーバリのカシミヤが一

 本49£だったのに対して、私のは15£だった。(まだまだこれ

 が正価ではない。説明を省くが一定の条件と手続きとにより16%

 の税が後日返還される。)



  この冬、日本では「バーバリーのカシミヤ・スカーフ」が

 20,000円程度だったというから、本場では半額だし、私の「ス

 コットランド・ウール」なんか、ひょっとすると端切れの値段

  だったのではあるまいか。



  観光客は、一月の末の「クリスマス・セール」末日をねらっ

  て、買い占めた品物を帰ってから売って「儲ける」とか。



  外国の物価が安いからと旅行で買い物を楽しむのだが、実は

 物価がわけわからずに高い日本の問題性をもっとあげつらわね

 ばなるまい。今年は「白米」抱えて帰国する「観光」客も多か

 ったのだ。



  さて、昼は以前に入った中華料理店に入った。「また来たよ

 (I've come again.)」と言って注文したのが、「チャーハン」

 (口に合った)、「肉汁ご飯」(これも口に合った)、そして

 メニューに記載はなかったが「野菜炒め(Sot@ed Vegitables)」。

 「ビール」(青島チンタオビール)。



  この時、日本や東洋のレストランと同じように無料のお茶が

 出た。ジャスミンティーだった。支払は15£で、味も価格もサ

 ーヴィスも好感がもてた。



  食後もまたあの通りまで行って、のぞき、入り、触れ、尋ね

 てを繰り返す。私は「みやげ」欲を刺激されるものに出会わな

 いのだった。啓子は、セーターがほしいと白の厚手の品物を物

 色する。そしてそれらはあるのだ。いくらでもある。あるが、

 どうもぴたっとこない。体の質も量ももちろん異なるのだろう

 が、感覚や季節と生活の差異が、私たちの認識を越えたところ

 に存在するのではないか、と感じられた。華奢な品性を求める

 桜と清水の日本人の感性とどこにどんな違いを有する国民であ

 るかなどと言うには、ここに腰を据えて住んでみなければわか

 るまい。



  歩き疲れて喫茶店で休憩する。



  チョコレートケーキは一つ、カプチーノを二つ、それから水

 (エビアン)一つで6£(1082円)だから、そんなものか。ただ

 そのカプチーノが、エスプレッソふうに香ばしくかつ濃い熱液

 の海の上に、氷河の果てのように生クリームが浮く。決して溶

 けて海を汚さない。氷河はあくまで白く海はあくまで黒い。そ

 っと接吻するがごとく口付けして吸うと、その分だけ両者が溶

 けあって口腔内でミックスする。喉仏まで楽しんだら口を離す。

 海と氷河はきっちりとその分を守って決して溶け混じらないの

 だ。



  滅多に喫茶に入らぬ私が、喫茶に酔った。



  昼前にみやげ用として20,000円をポンドに替えたが、使い残

 しそうだった。もうひとしきり歩いたが、結局のところ何も買

 わないで、あの露天の八百屋さんが並ぶ通りへ来た。バケツに

 一杯を「1£」と誘うおじさんの勢いに乗って「苓枝(ライチー)」

 を買った。二人で食べきる見通しはなかったが、「ホテルの人

 にあげよまいか」とたっぷり手に提げる。帰るバスに乗る前に

 フライドチキン屋で、チキン6個を1£少々で買った。これが

 夕食となる。



  この夜日記の最後に「明日は最終日。グリニッチへ行く。そ

 してロンドン塔横のホテルでみやげを買う」と書いている。

                              ☆

☆  ☆ グリニッチのオブザーバトリ ☆




☆ 一月二十二日。朝ゆっくりと朝飯。九時、OneDayTravelを購

  入し、Leicester SQ.乗り換えでCharling Cross。国鉄駅に上が

 って9:44発の列車を待ってGreenwichへ行く。



  面白い列車に乗った。一度乗りたいと念じていた列車だ。車

 両には両側にびっしり扉がついている。だからどの座席もすぐ

 外側が扉だ。チャリング・クロスに着いた列車は、百足のよう

 にすべての扉を開け、乗客がホームへ出る。折り返し運転だか

 ら、私は鉄道博物館に遊ぶ少年のようにうれしく乗り込んで、

 扉を閉めた。頑丈で引けばがっちりとはまりこむ。取っ手を引

 き上げない限り開かない。当然だ、進行中に開いては大変だも

 の。



  発車には駅員が多数、ホームに出る。乗客が少ないと開け放

 たれたドアが多いので、バタバタ、バタンバタと短時間に全部

 を閉めて、それから出る。



  木製だが頑丈な車両で、年代ものを未だに使っているといっ

 たような古道具を利用する感覚は全くない。テームズの右岸を

 ゆるりと走る。



  Greenwichは、意外に垢抜けのしていないただの駅だ。通り

  を歩き始めたが不安になり道を尋ねると、犬の散歩らしいおば

  さんは(いい話し相手を見つけた)とばかりに、

 「そう、この方向、もっと向こうで右折ーーー、とてもいい街、

 その辺りでフリーマケット、まあ、日本からでしょう?」

 「ええ、ん、じゃ、ありがとう」と打ち切ってさらに進むもの

 のフリーマーケットの先は、右折と言うより三叉路なので、や

 やためらうとき、前方に立ち話をする二人のおばさんがいた。



  私は帽子を三つ指に品よくつまんで脱ぎ、胸のあたりにもっ

 て、('スキュースミー)と声をかけようとした。ところが<先手を取

 って>こちら向きのおばさんが「Yes !」と私に返事?をしたの

 だ。



  まだ何も言わないこの状況から相手の意図を察知してあるは

 ずの言葉に先だって言葉を発するということは、あり得る。



 (幼時、母がよくこうした。例えば、母「だめ!」。私「まだ

 言うとらせんやんか!」などと)。



  おばさんは向こうからキョロキョロしながら来る異国人夫婦

 にも、世間話と平行して関心をもっていたのだ。帽子を脱いで

 近づいてくるので、おしゃべりの都合からか(尋ねるなら、さ

 あ今この切りのいいところで)と感じたに違いない。



  スミマセンガ!を言わないのに返事をもらった幸せ男は、「この道

 を右に行けばオブザーバトリに行けるのでしょうか」と問い、

 「そう、もう五分もないわ」と安心させてもらった。「Thank

  you so much!」の言い終わらぬ時にもうおしゃべりが再開さ

 れていた。



  なるべく長くしゃべりたいおばさん、世間話に集注したい

 おばさん、よくある下町おばさん二人に道を尋ね、旅の目的

 を果たしながらも「異国」が「いずこも同じ」世界であると

 実感する。



  道はすぐ「Greenich Royal Park」と記した広いグリーンの

 門に達した。数百メートルの先に小高い丘、その上に建物がそ

 びえる。グリーンの中のパスを近づいて行くと、散歩する子ど

 も連れがいた。犬を連れる中年男がいたが、鎖を離しているの

 に大きいのだ、犬が。歩調を保てば彼らのパスと交わる辺りで

 接触しそうで、私は敢えて歩を緩めた。犬が「異物」を直感し

 て咬むかも知れない、そう思った。



  死んだが、わが家のポチは、モルモン教のアメリカ人が近所

 まで来ただけで、許しがたい意志を大声で表示した。それを思

 い出したのだ。



  大犬は、しかし「異国人」に特別な関心を示さなくて、坂の

 下の方の他の犬に関心を持ってか、そっちへ走って行った。



  急な坂を上がる。植えてある樹木は、葉がないので推測だが、

 いちじくのようだった。猫がいる。



  観測所の前に眺望のいい広場がある。二台の望遠鏡がセット

 してある。子どもがお金を入れたが見えない、と母が男に言い、

 男は調べていた。



  足元に広がるグリーンは快い。なだらかに広がって一キロほ

 ど先は、テームズの岸辺になるのだが、もう川べりと言うより

 海辺に見えるほどだ。岸辺に、きっちりと左右のシンメトリー

 を成す大きな建物がある。その姿と言い、場所柄といい、威厳

 がある。手すりの手前に眺望を説明する絵があって、「Royal

  Navigation College(直訳、王立航海大学)」とあった。



  私は、英王室の男子のお方がりりしい海軍士官姿でおられる

 のをイメージした。



  「Observatory」とは、「天文台、観測所、気象台、測候所、展

 望台」などを指すが、ここグリンニッチは東経、西経の起点で、

 東へは東経、西へは西経と角度を増し、地球の裏側、つまり東

 経、西経ともに180°に日付変更線が決められてある。人類が

 共通の認識を持ち得る時代の、一つの原点の役割を英国が果た

 しているわけだが、内部へ入ると、「天文観測」とか「測候」

 とか言うものの歴史が即物的によくわかる。



  現在はここで実測をしているわけではない。現代科学技術を

 集めた新施設で、より緻密な観測がなされていると聞いた。だ

 から今はここを正しくは「旧天文台」と呼び、内部に保存する

 観測機器を展示して博物館の役割を果たしている。



  私は魅せられて機器を観察し、解説を読んだ。 



  科学技術の歴史と言うものは面白い。何の歴史と特定できな

 いのだ。天文観測の歴史がよくわかる。しかしそれは天体を知

 るためだけの歴史ではなく、同時に航海の歴史でもある。しか

 もその両者にとどまるものではない。時間の計測や時間の特定

 の歴史でもある。星を見、時を知り、位置を知る、この三つが

 同時に必要な生活を創造するとき、私は孤独にも洋上の船に自

 分をイメージしていた。



  アルフレッド・テニスンが「イノック・アーデン」の悲恋を

 描き、読者は運命の皮肉を悲しむ。だが言葉で整理のつかない

 洋上の苦闘と全身全霊の駆使の結果があったはずだ。それでも

 やっとたどり着いた恋人が、自分を諦めざるを得ない俗世の縁

 (えにし)で、こともあろうに親友と結ばれた直後であること

 を知り、黙って身を引いて行く。



  スエーデン民謡に「むなしく老いぬ」という老婆の悲しみを

 歌った歌もある。



 <日毎磯に 沖見る嫗(オミナ)  波の彼方に 何をか 恋うる

  待てど待てど帰らぬ我が背 船か破(ヤ)れにし梶をか絶えし

  ああ 哀れや 背を待つ嫗   磯に年経て 空しく老いぬ>



   私は原詞を知らない。高野辰之さんという人が原詞に即して

 作詞したとしての話だが、寂しい老嫗もさることながら、北海

 にさまよう海の男の苦闘は、たぶん歌を越え、文学表現の届か

 ぬものだった違いない。



  黒人の女性解説員がいた。ビー玉遊びみたいな時計があって、

 50センチ幅ほどのジグザグを2分で降りる。すると再び最上段に玉

 が上がる。そして2分で降りる。遊びではない、真剣だ。振り

 子の等時性を知るまでは、水や砂を落として計ったのだ。私は

 解説員に質問した。



  きれいな英語だった。他の解説員が、今日は見学者がほとん

 どないからか、チラと顔を出すだけですぐどこかへ消えるのと

 異なり、そこに姿勢よく立って「Yes」から、最後の「Have a

  nice trip.」まできちんと話した。王室で使用した金きらの歯

 車と宝石の時計だったが、「本物のダイヤがはまっています」

 と答えたところで、私が「さあ?」という顔をすると、彼女は

 笑った。歯が白かった。



  1980年代には世界最大だったという反射望遠鏡が、当時のま

 まで保存してあった。今も観測できる。だれもいない施設を私

 たち二人が勝手に入って見ているようで、なぜか長居できない

 心理になる。



  いいものを見た。英国へ来て英国らしいものを見た。



  外には何か特別の庭園があるという。しかしもういい。帰る

 ことにした。



  駅へ戻る途中に、「ヴェトナム・レストラン(Vietnamese

  Restaurant)」があった。中に若い店員がいた。珍しいものを

 食べようかと、入った。



  表情が変なので、「まだ開かないの(You don't open yet ?)」

 と問うと「Yes」と答えた。



  それじゃ、と座ると、よけい変な顔してそばに立つ。

 「12 o'clock.」と言う。

 (なんだ、それじゃ、さっきの返事は何なんだ)時計はあと15

 分で12時だ。



  私たちは外へ出た。



 「おい、ベトナムも日本とおなじようにはいといいえとを返事

 するのやなあ」と啓子に言い、私は一つの発見をした手柄を誇

 る気分になって駅へ向かった。

 「昼、少々遅なっても、あのデザイナーの言うたところまで行

 ってからにしよか」と歩くとき、不動産屋があった。借家も安

 い。だが実物を見てからのことだ。



  チャリング・クロスに戻りバスでTower Hillへ来た。Tower

  Bridgeに通じる道路の下をくぐると、庭園風のところへ出た。

 大きなプールに大きな帆船が幾つも屯ろする。リバプールに似

 通う情景だった。



  そんな景色を背景にする一食堂は、サンドイッチ屋で、こぎ

 れいな雰囲気だった。豊富な具、材料がケースの中に並ぶ。太

 った母娘と思われる店員が、ビニール手袋で豪快にサンドイッ

 チを挟み仕上げる。



  席に着いてからじっくりと店内を見回した。ケースの右側に、

 サラダの種々があって、それをたっぷりと食べることにした。

 そこの大皿を持ち、数種のサラダを盛り合わせた。普段ならこ

 れで二人の昼飯になろうが、ポテトチップのフライ一つとソー

 セージ入りロールパン一つ、それに缶入りビール二つ、を取っ

 て豊かな心で食事をした。



  口によく合う。私は食事中ずうっと、調理するオバサンを見

 る。オバサンの視線も、ときどき私たちに向けられる。彼女は、

 多分好奇心に満ちていたであろう私の眼に、快い微笑を返して

 いた。



  午後の時間を再びみやげ物探しに当てるべく、盛り場に出た。

 がRegentを二度も歩いてダメだった。しかたなく「三越」を見

 る。ついで「そごう」にも入る。



   かなり疲れてしまった。三度めのRegentを遡り、私がマフラ

 ーを買ったあのScottland Woolの店に来た。そこで時間をかけ

 て白いウールのカーディガンを、啓子が買った。



 (これで終わりか)そう思うとそぞろに寂しく、何となくつま

 らなく、最後の夜の食事をあれこれと吟味した後で、スペイン

 料理を食べた。やや寂しげなOxford Circusの近くだった。

 ビール二つとスパゲッティ・トマト、チキンのブロックの玉ねぎ・

 にんにく味の空揚げ。やや薄暗いが雰囲気もよく落ち着きがあっ

 て、うまかった。



  ダブルデッカーの二階から夜の街を「どこをどう走るのやろ」

 と見る。頭の中の地図がほぼ完成して、今度来るときの安心感を

 保証する。                                         

                                                        ☆

☆ ☆ 同じ思考・同じ志向の異国人 ☆




☆  お茶を飲みに降りて、小母さんとおしゃべりになった。彼女は

 ダイエットをしていて、野菜以外はほとんど食べないのだと言っ

 た。そして、大根(厳密にはワサビダイコン=horse radish)が蓄膿に

 いいとか、何とかという野菜(植物名が私のVocabularyになかっ

 た)は腰や背骨にいいとか、どうも自然食品と医薬との知識に、

 いわば「かぶれ」ている。



  私が畑を作っていて、それは運動になるし、取れた無農薬のし

 かも加工しない食品を食べていること、さらには取れた野菜に

 「義理立て」して主食よりも野菜の方を食べることに相成ってい

 る、と話したら、話しの量はぐっと増し、また勢いもついた。



  彼女は畑(一部果樹園にしているところも私と同じ)を

 Stratfordの方に持っていて、リタイヤーしたらそっちの方に家

 を買うのだと言った。



 「今度イギリスへ来られる時には、私の畑をお見せしたい」と、

 別に望んだわけではなかったが、小母さんは約束した。



  長い話しの途中、ちょっと用があって一階に上がったら、小父

 さんと会った。



 「送って行くから」とまた言った。



  また、というのは、数日前に話しの中で、帰る日には九時ご

 ろ家を出て、Euston駅まで歩き、そこから Air Bus に乗る予定

 だと私が言ったら、小父さんは<いや、車で送る>と言うのだ。

 私は遠慮した。すると<そんなこと言うのなら土曜日でさよな

 らだ>と言ったなり引っ込んでしまった。



  多分これはいわゆる「ジョーク」なのだろうが、好意なり友

 情なりについて、英国人の処し方が我々とは随分違うというこ

 とを思い知った。好意を踏みにじるなら絶交だとまで言いそう

 に思えた。



  こんなことがあった後で、明日がお別れという日の夕べに、

 小父さんは私を送ることに決めているのだった。



  私は素直に「Thank you so much !」と受け入れた。



  下で残りのお茶をすすり、小母さんに手紙を約して部屋へ戻

 った。

                              ☆

☆  ☆ さようなら、ショート・ブーツ ☆




☆  一月二十三日。日曜日

  昨夜のうちに荷物をすべて整理し、大トランクとボストンの

 二つにしてある。朝、雨が降っていた。



  7:30をかなりすぎて食堂に降りたのだが、まだ誰も起きてこ

 ない。私たち二人は勝手に湯を沸かし、お茶とコーヒーを作り、

 冷蔵庫からjuiceとmilkを出して飲んだ。食パンはトースター

 で焼いて食べた。ほとんど食べ終わった頃、同宿の父娘の二人

 連れが降りてきて、「まだ起きてないの? のんびりしてるね」

 と起こしに行った。



  娘一人組、野球帽男一人組もそれぞれ食堂に降りてきたが、

 その頃はもう八時を過ぎていた。



  小母さんが慌てて台所に入り、続いて小父さんも入る。



  私たちは、もはやこの時間からいつものたっぷり朝食を頂く

 余裕がない。



 「We've finished our breackfast.」と、作ってもらってから

 食べない失礼をしないために台所でせわしく働く小母さんに告

 げると、

 「You have plemty time yet, ahn (まだ時間あるでしょ)?」

 と言っている。



 「We have to prepare(準備しなくちゃ).」と部屋へ戻るこ

 とにした。そしてその時、名刺に私の住所を書いて渡した。



  部屋で、まだ残っていた苓枝(ライチー)をすっかり食べた。

 部屋にはもう何も残ってはいない。冬の寒いときに愛好した短

 ブーツの底が痛んだので、ここに捨てて行く。スーツ掛けの見

 開き家具の中に揃え、(さよなら、世話になったな)と靴にさ

 さやく心情で残した。



  すっかり身支度を終えたのが9:00。



  外の玄関前にここの息子が車を出し、トランクに大スーツケ

 ースとボストンとを積むと、いつのまにか小母さんが着替えて

 いて、運転台に座った。



  雨はそぼ降っていた。



  Euston駅は、歩いても十分程度のところだから、車はすぐ

 Eusyon駅前にさしかかる。だが小母さんは、



 「右折できないの。だからもっと先の停留所へ停めるから、

 心配要らない。」と言って、構わずに車を進めた。 



  啓子は、「どこまで送ってくれる積もりやろ。しまいまでや

 ろか。」と声に出して気を揉んでいた。



  小母さんは日本語が分からないから、平然と別の話をする。

 「これ、プレゼントよ」と運転しながらリボンを掛けてちぢら

 した小箱を啓子に手渡した。



  車は十五分余りも走り、結局はハイドパーク・コーナーのバ

 ス停まで送ってもらって、別れた。おばさんも車を降り、手厚

 く辞去の意を表した。



  この停留所はVictoriaから空港へゆくAirBusが停まる。小母

 さんの黒い車が去ってうつろになった心が次第に静まると、や

 おらバスが気になってきた。



  バス停には背の高い男が一人だけ立っていた。



   日曜日のせいか通りには車が少ない。バスも少ない。Air Bus

 を五分十分と、待つうちに気がかりになって、柱に貼ってある

 バス関係諸案内を見ると、バスの時刻表様のもがあった。急に

 真剣な気持ちになり、凝視する。



  Hyde Park Cornerの欄は、9:05分、次のが12:05分となって

 いる。頭がカッとなり、私はうろたえた。(日曜日は、バスが

 少ないんだ)と混乱したままで、だができるだけ早く次の手を

 打たねばならないと、背高男に向かって帽子を脱りながら、

 「Excume me.」と時刻表へと誘って、

 「This, nine five. And next bus is twelve five. Between

  the two, no bus ?」とジェスチュアゲームのごとき質問をす

 る。



 「This side.」背高男は落ち着き払って、柱の左側、色付きの

 時刻表を私に読ませ、「9:35 is next. Don't worry(9:35が

 次です。心配は要りません).」とほほえんでから「私もヒー

 スローまで行くんですよ。」と言った。嬉しかった。



  それでもバスは10分程遅れてやってきた。一人5£をワンマ

 ン運転手のすぐ横で差し出し、空港バスらしく荷物用の場所が

 あるのでスーツケースだけを置き、いつものようの二階へ上が

 っていちばん前でSightseeingする。



  さっきから雨は晴れてもうむしろ快い天気になりつつあった。

  道路はすぐ市街地を抜け、なんと30分ほどの短時間で空港に

 着いてしまった。



  車内の放送なんてなんにもない国柄なのに、このバスのここ

 だけ、「Terminal 1」とか「Terminal 2」と大声でアナウンス

 するので、降り間違うはずはない。



  ヒースローのTerminal 3は、British Airway以外の国際線が

 発着する。私たちのVirgin Atlanticのカウンターは分かりやす

 かった。近づくと13:00のdepartureというのに、早くも二人の

 赤い制服の女子職員が待っていた。



  私は二人に苦笑いされながら、後ろを向いて上着をまくり上

 げ腹の中からパスポートと航空券とを取り出す。そしてチェッ

 クインした。



 「You smoke ?」

 「No smoking, please. And if possible, windouw side,

  please.」



   席は、41Aと41Bで、注文は聞き入れてもらってあった。



  出国の手続きに面倒は何もない。また慣れたからか緊張する

 こともない。すいすいと事が運ぶ。免税の手続きも、あっけな

 いほど簡単に済んで、搭乗までの時間がたっぷりと残った。



  ちょっとシャレた食堂があって、入った。だが食べたのはパ

 ンとコーヒーだけの軽い朝食だった。二回目の朝食だからそれ

 でいい。



  空港内の売店を全部見て回った。



  11:55。機は少々早めに出発した。私は機中で旅日記を書き

 添えたり、振り返って読んだりしながら、いわば「総括」めい

 た想念に浸るのだった。

                              ☆
 

☆ ☆機中で思うことを旅日記のままに記す ☆




☆  眠るもならず起きるもならず、今シベリアの上を飛ぶ。シベ

 リアは真夜中だ。



  映画を二本観た。一本は子供とイルカの物語、もう一本は不

 思議な運命の出会いの物語、いずれも男の子が絡んでいた。終

 わると私にはすることがない。



  こんなふうに個人旅を大胆にするのは、これで二回目だ。



  今回は英国だったから、言葉は何とか役に立った。細かいこ

 とはともかくとして、必要な用を足すには十分だった。観るべ

 きものも観た。この見聞は日を経て貴重な思い出の何ページか

 に加わるはずだ。



  さてと、今回気づいた難点を挙げれば、



  ◎季節、冬はダメだ。冬なら暖かい所がいい。



  ◎体力、やっぱり希望に胸膨らんで計画を立てても、そうは

 張り切り続けておられない。気力は持続しない。時差もあるし、

 年齢もある。ゆとりのある行動がいい。



  ◎持ち物。私たちはまだ団体ツアーふうの持ち物から脱皮で

 きていない。見るところ機内持ち込みのボストン一つの人もい

 る。ましてや文明国へ行くなら、必要とあらば下着でも何でも

 買えばいい。今回は現に靴が壊れて安い靴を買っている。そう

 いう積もりで荷を減らすこと。



  ※内蒙古へ行ったときに震える寒さだった体験が災いしてい

 るのだ。トランクの中には使わなかった衣料品も海外旅行をし

 ている。



  ◎もう子供たちもみんなひとり立ちした。だから退職した。

 憂いのない身なのに、こうして旅に出ると気になることがいっ

 ぱいある。



  畑のことだって、家のことだって、こどもや孫のことだって

 気になる。



  せめて誰の迷惑にもならぬようにしたい、なんて気になって

 しまう。 

                              ☆

☆ 我が友よ ☆ ☆ あとがきに代えて ☆




☆ 旅を楽しむ我が身のことばかりひとりよがりに書きつづりま

 したが、おつきあいを強いてしまいました。



  私のおみやげはこれしかありません。そして自分では最大の

 おみやげと信じています。ロンドンの、イギリスの数十箇所に

 私と妻との旅姿を交えた風景画が、おぼろげでも想像できてい

 ただけたら、私の願いは満たされます。



  ご存知のように私の日常は、自称「隠者」の生活で、毎日午

 前、畑に通い、「知足」をモットーとまではいきませんが消費・

 浪費を慎み戒めることを試みています。そして時あって旅に羽

 ばたくのが、私には至上の楽しみです。



  この間ハッと気づいたのですが、私は結局、通常の世間の通

 常の生活ができないのでしょうか。カッコよく「脱俗」と呼ぶ

 のがいいのか、傷ついたものの逃避生活のワンパターンと分類

 するのがふさわしいのか、ともあれ今私はここに我を見つけて

 ピンと生きています。



  次にまた地球のどこかのみやげ話しをお届けするときも、ま

 たおつきあいをくださいますように。

                           

  どこにでも飛び去るべきをブーメラン

                          やはりわが家の机に向かう

                             ☆

                            一九九四、六、十一 に脱稿する。

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