☆ ☆ はじめに
☆ 初めて自作の海外旅行を敢行したのは、一九九十年の夏だった。妻
と二人で、パリとフランス各地、イタリーのナポリ、ローマを十九日
間にわたって緊張感に満ちた旅をした。またその記録は、「幾枚かの
風景画」(「風景画」シリーズ 3)にまとめた。私には貴重な体験で、
大事な思い出となった。以来私は常にこれを開いて当時の情景をイメ
ージの世界に再現している。
私は少し早めに退職した。その理由のすべてではないが、体力を残
して老後を楽しみたいとも考えてのことだった。そして、今回のイギ
リス旅行を計画した。
個人で外国旅行を計画するには、まず的確な資料が要る。誰かの誘
いに乗って「浮き雲のごとくあくがれ行く」なんてことは、国内旅行
の場合ならともかく外国の場合は危なくてとてもできない。幸いなこ
とに現代は本屋さんにガイドブックがたくさん置かれてある。それを
「参考」にする。盲信してはいけない。
十一月のある日、いつもカタログを送ってくれる「新日本トラベル
社」から届いたカタログの中に「ヴァージンアトランティック航空で
行くロンドン8日間、108,000円より」というのがあった。 ホテルと
朝飯はついている。
他に二つ心を動かすものがあった。
一つはマレーシア航空のオープンチケット(90日まで滞在期間は自
由)で105,000円のものが月刊雑誌「AB-ROAD」に、も一つは「アズ・
ユー・ライク ヨーロッパ」なる手配旅行が、98,000円、七〜三十五
日のオープンチケットで、「月刊 地球の歩き方」に記載されたもの
が届けられていた。
しかし、私はこの二つを選ばなかった。欠陥があったからではなく、
異国に適応するに楽だと思えるものを選んだからだった。
新日本トラベルに電話をして、帰国便を八日後に変更できないか、
その分のホテルは自分で事を済ますから、と言うと、「一人一万円で
できます」との返事を得た。
格安航空券が競り合う中で、飛行機に乗ればなんとかなるかのよう
な「無責任主義」や「いい加減体制」は気に入らない。行って落ち着
く所の見通しがついているというのが外国旅行を決行するミニマム・
エッセンシャルだ。そう考えてこれを決めたのだが、それでもなお、
この値段で「日本ー英国」の航空券と六泊のホテル代をまかなうのだ
から、その内訳を思量するに物の値段は千差万別だとしても、想像し
かねる安価であった。
旅行保険は、必要最小限に努めた。領収書は、空港から息子に郵送
した。
ロンドンのヒースロー空港に着いても出迎えはない。ラッセル・ス
クエアー近くにホテルがあるのは予め地図上で確かめておいた。空港
での出国手続きや不安な道を訪ねるなどの際の、乏しい英語力に不安
があった。大きなミスをしないように気をつけようと自分に何度も言
い聞かせて、出発の日が迫っていった。その間、楽しみと恐れとが小
刻みに私をゆすぶり続けていた。
ところでロンドン市内には二週間やそこいらでは見切れない景物や
資料がある。もちろん貪欲に見物したいが、他の町や田舎をも訪れた
い。そこで「ブリット・パス」を日本で購入した。このパスに添えら
れた鉄道地図と時刻表とで、事前に幾晩も夢を楽しませてもらった。
海外旅行の場合毎度の事ながら、ひょっとして命に関わる事故があ
るかも知れないと不吉な連想が頭をよぎる。正月に帰省した息子に、
大事な書類のありかを示しておいた。
妻は母から「あんたらまたどこか外国へいくのやろなあ」と、こち
らから言う前に言われ、「私ももう永うはないけど、死んでもそばに
おってもらえんかわからん」と寂しがられたそうだ。
人生は、いずれにしても寂しいものである。未来に期待するものを
胸に持って楽しみを作らねばならないが、その底にはいつも寂しさが
根を降ろしている。 ☆ |
☆ ☆ ハイソサエティーに遊ぶ隠者 ☆
☆天気が良ければ畑に出る。雨が降れば読書と書き物をする。ノルマ
も義務もない仕事を飽きるまでする。自分に無理強いをしない。楽し
める範囲内で努力する。衣食住の生活には浪費をしない。いわば隠者
の生活である。
その傍ら文化の質が高い生活に憧れる。自分が生活する狭い範囲と
は異質の地理や自然、人や文化、歴史などを多彩に経験したい。いや
経験する。いわばハイソサエティーにして可能な事を、私もする。
退職する時にこう考えた。挨拶でもこのような心情を披瀝した。
事実、私の生活は考えた通りに進んで、小農園は日毎にそれらしい
変化を示しながら相応の夏野菜で食生活を潤した後、秋野菜はわが家
では消費し切れないほど収穫できるようになって、時には野菜の主食
に副食のご飯を添えるかのような食事さえするようになった。
家計簿をこまめにつけることにしているが、妻と二人の生活で例え
ば食費をみると、九月、40,934円、十月36,837円、十一月は24,669円
というように、現役時代の弁当代にも達しないほどの廉価な食生活で
ある。もちろん家計は計画的にやっているものではなく、己の欲する
ところに従って生きた結果を、後から数字で整理したに過ぎない。
そして「見たいなあ」と思ったところへ存分に行く。
四月は琴平、栗林公園、鳴門(同僚とのお別れ一泊旅行)、安土城
(日帰り)。永平寺と九頭竜湖(一泊)。五月は中国(廬山、景徳鎮、
黄山、杭州など十三日間)。七月は草津温泉(一泊)、釜山(四日)、
八月は別府、大分、阿蘇、熊本(次女の婚家訪問を兼ねて二泊)、土
肥と田子の浦(青春キップで日帰り)。 十月は黒部ダムと宇奈月
(二泊)と北海道(小樽、釧路、函館で五日のフルムーン・パス)。十
一月は若狭、天橋立(一泊)、と数え挙げてみると奔放な旅行をして
いる。
けれども「旅」というものについて私の本意とするところは、徹底
的に日常から脱却してすっかり異質の世界に遊んでみることだ。
かつてフランスとイタリーに十九日間を楽しんだが、どの瞬間を顧
みても緊張の連続であった経験を、二番煎じではなく再び新鮮な気持
ちで体験したいと、真剣に欲していた。
欲していても向こうからは何もやって来てくれない。私の方から気
兼ねも遠慮も拘りもなく求め、計画し、足を踏み出していかなければ、
私の願う境地は拓けないのだ。そう心を決めて英国行きに着手したの
だった。
いつものことながら旅は準備の過程が楽しい。次々と夢が湧く。
自分で創る旅なら、どの部分をとっても自分の工夫と創意のあるも
のにしたいと考え、週に一度、名古屋へ出かける土曜日の午前は、す
べて準備のために使っている。切符を手配する旅行社では、帰りの飛
行機が成田で名古屋へ乗り換えるのに十時間ほども待ち時間があった
のを、大阪乗り換えに変更して、日中に帰宅できるようにした。旅行
保険を買うに当たっては、一人あたりの保険金で死亡に1,000万円、病
気には300万円、賠償責任に1,000万円、持ち物には30万円、そして救
援野費用は500万円というふうに組んで掛け金を計算すると、5,610円
の保険料になった。これは通常のパックツアーの場合の約半分を少々
下回る料金で、私としては気分がよかった。
また、鉄道旅行をするには現地で買うより日本で買う方が得な種類
の切符がある。英国の場合、ブリット・レイル・パスがある。セーバ
ー・パスを持てば有効期間中の指定日数だけ任意に使える。私は一か
月有効で四日分のセーバー・パスを買った。名古屋のJTBで支払い
をするとき、予め示されていた値段より安かったので、現地で思いが
けない不便が起こってはまずいと思って、問いただした。応対の女子
の窓口係が電話を掛けて確かめていたが、有り難いことに値下がりし
たところだったのだ。
これらと並行して毎晩、ガイドブックを読み、旅程表を作成する。
携行するコンパクトなガイドブックには内容に限度があるので、本屋
に入る度に然るべきコーナーで本を開き確かめる。
こうして必要事項を自分なりに網羅して記載した四枚から成るパン
フレットを三部作り、一部は息子に預け、残りは妻と私とがそれぞれ
携行する。
出発の前々日に東京銀行で、五万円をポンドに換え、三十万円を円
建ての旅行小切手、二通に作って貰って、用心深く胸の肌に押しつけ
ると、心はもうイギリスへ飛び始めていた。 ☆ |
☆ ☆ 旅に関所はつきもの ☆
☆名古屋空港には6:40までに着かねばならないのだが、わが家からは
どう試みてもそれは不可能であった。家からでないとしても、空港バ
スもこの時刻に着けるものはない。
そこで名古屋駅付近のビジネス・ホテルに泊まって早朝のタクシー
をとばそうと計画を立てた。
一月一日に里帰りの次女と孫とを空港に出迎えるついでに、早朝の
タクシーも確かめた。そのとき息子が「ホテルとタクシーを利用する
より、家から直接タクシーを走らせたら」とアドバイスした。私の思
考の範囲外だったので「なあるほど」と思った。
この時バスの窓から、空港すぐ前に「ホテル」があるのに気がつい
た。それまで名古屋市内の案内所で尋ねても「ありませんねえ」とか
「さあ」とかの返答ばかりで、そんな近くにホテルがあろうとは思えな
かったのだ。
三日、娘と孫とを見送ったあと、そのホテルに予約をした。
電話の受け手嬢は「諾」したあと、変なことをつけ加えた。
「十時以降にしてくださいね、チェックインを。」
私は、単に翌朝が早いために一泊するのだから構わない、と答えた。
「それって、ラブホテルじゃない?」と息子はにやけて言った。
(あ、そうなのか。)私は、おそまきながら納得する。
一月八日の夕食を家でゆっくり済ませ、二株の白菜を新聞紙に丁寧
にくるんだ以外の生物はすべて始末をした。戸締まりのすべてをもう
一度確かめ、外のプロパンガスの栓を閉める。トイレの電源も元から
切る。
(このほかに何か忘れとらへんやろなあ)と意識の中を点検し終えて
家を離れたのが、日程表の通りの19:40だった。家を離れるときには
「万一」とか「これが見納め」だとか、不吉な考えがつと過ぎるもの
だ。それを強いて無視する努力をしながら来るべき夢多い旅を思う。
スーツケースにキャスターをつけて引きずって、近鉄は特急を使わ
ずに名古屋へ向かう。名鉄の西春を降り、空港バスの終車、21:17に
乗る。空港で少々時間を潰してからホテルに入った。
ラブホテルは風呂がいい。これから先の不便を思いやって、存分に
湯に浸かったばかりか、頭をよく洗い、体を二度も磨いて、ホカホカ
身ぼとりを感じながら床に着いた。いわずもがなだろうが、ベッドは
ビジネスホテルよりもはるかに広くて寝心地がいい。モーニングコー
ルを依頼して、直ちに快眠に陥った。
成田までは国際線を使う。しかし荷物はここから直接にヒースロー
に着けることができる。が二人の体は、成田でチェックインと出国手
続きをしなければならない。
名古屋空港は、いわば慣れっこになっていてさほどの感動も印象も
ないが、前日作ってきた海苔巻きのお結びを朝飯代りに食べてから搭
乗した。
きっちり一時間で成田に着く。快晴で富士山が美しい。雪をかぶっ
た全容をたっぷり眺めてビデオに収める。山や川、町や道路を頭の中
の地図と照らし合わせながら飛行する。三浦半島、横浜、羽田とはっ
きり分かる。そして海岸線がゆるいカーブを描いて、「九十九里浜や
ろ? 犬吠埼や、あれ」と見おろす景色を楽しむ内に、地面は次第に
近づいて、私たちは道路や鉄道のミニチュアーを緩やかに飛び越えて
行った。
南ウイングへは無料バスが通じている。
その場所にはまだ係りの受付体制ができていなかった。しかし私た
ちは一番乗りでチェックインしたいと思って待つ。10:00、やっと来
た係り嬢に「禁煙席、窓際」を要求した。すると搭乗券を手渡しなが
ら、「到着便が遅れていますので、フライトは四時間遅れです」と事
務的に告げた。おわびの印刷物が渡され、そこに食券ふうのカードが
一枚、挟まれていた。
私たちの乗るヴァージン・アトランティックの飛行機は、霧のニュ
ーヨーク空港を遅れて飛び立ち、14:20に成田に着いて16:00に発つと
いう。早朝から準備してここで無駄な時間を費やさねばならぬ。
私は動物園の猛獣のように空港内をうろつき始めた。そして食券に
記された五店舗の下見をする。食券には2,500円までの物を食べていい
と書いてある。三店舗をよく吟味の上、いちばん遠い和食の店の1,800
円程度の料理に酒、ビールとコーヒーをつけ、ほとんど完璧に食券を
完済して、最後の祖国の餐を楽しんだ。
それでも時間は余りにあまる。出国手続きのあとも根気よく免税店
を見る。買うためではない。外国で無駄な買い物をしないための物価
点検とでも言った方がいいのだろうか。前々日にも百貨店で衣類やバ
ッグ等を見て回ったのだったが、時間の余りを潰すにはこれしかない
のだった。最後に見たのが箱入りのチョコレートだった。
搭乗する。
禁煙で窓際の条件は満たされた席だったが、主翼の上だった。だか
ら下の景色は見にくい。右側に三列あり、私たちはJとKで、Iに女
性が座ったので、十三時間もの間、女性と肘を接するのは、私にも、
そして未知のその女性にも気詰まりだろうと、私と啓子とは入れ替わ
って、私が窓際のK席に収まった。
ジャンボ機で不満はないのだが、頭上の物入れには物の収まりよう
が悪く、私たちはショルダーバッグとキャスターとを持ち込んでいた
ので、二つとも足の下に横たえて、前後に滑らぬように足で抑えてい
ることにした。長時間にわたってそういう不自然な姿勢を続ける自信
はなかったが、その時はその時だと思った。
この機はノンストップでロンドンへ飛ぶ。定刻の12:00に飛び立てば
シベリアの午後を飛び続けて、夕方のヒースローに降りるはずだった。
私はハバロフスクからシベリアのタイガを、さらに中程にはウラルを
見おろし、やがてバルト海を通ってオランダの海岸を鳥瞰して楽しも
うと期待していたのだ。
だが暗い空中をひたすら飛ぶだけのロングフライトだった。遅れの
ために失ったものは大きかった。
座席には小型の液晶テレビが備わっていて、映画を観た。来るべき
「冒険」に備えて、英語のチャンネルでストーリーを追った。あるチャ
ンネルには、お笑いのトークショーが録画されていた。イギリスの世
論にはEC合同への反対の声が大きいらしく、各国のゲストがそれぞ
れのなまりや不自由さ加減でトークするという設定で爆笑を誘う。理
屈こきのドイツ人ゲスト、好き嫌いで論ずるフランス人、お世辞笑い
ばかりのスペイン人などと、ECにはどの国がどんな欲得で参加しよ
うとしているのかが、対岸の火事にも及ばぬ無関心の私にも理解でき
た。そのトークショーは、喧伝されているドーバートンネルにTGV
の一号列車がやってくるのをTV記者が待ちながら実況放送する。ト
ンネルの出口でお笑い実況をするマイクに彼方から列車の響きが近づ
いてくる。そして、いよいよその瞬間になるのだが、二本のレールの
通じるトンネルからではなく傍らの土手を突き破って列車がうねり出
てくるところが「オチ」となって番組を終わっている。これも制作者
の揶揄がおもしろい。
それにしても国際線で放映するのだから大胆だ。
バージンアトラティック社も経済の動向に強烈な意図を持っている
のだろうか。
こうしてさほどの苦痛も意識しないまま、眼下の闇に明かりの数が
次第に増え始めるところまで飛んできた。いわゆる西側諸国だ。海岸
の都会や高速道路などが分かる程度になってくると、いよいよイギリ
スへ降りるのだという意識が重みを帯びてくる。
機内食に一言触れておこう。
これまで食べたものとは基本的に違っていた。第一に量がこじんま
りして全部食べてもさほどの飽食感をもたらさなかった。第二に和洋
の選択が可能だった。胃に軽くしかも口に合う。サービスは昼食、ア
フタヌーンティー(または和風間食)、軽食の三度だった。スコッチ
の水割りも適度に飲んでくつろいだ。
イギリス上空から見おろすと、クリスマスの飾りの豆電球のように
高速道路の街灯が幾筋も丘や平野に掛けられている。天気が良くない
らしくときどきそれが途切れる。高度を下げて雲の下に出ると夜景が
寂しげに広がっていた。滑走路には雨が降っていた。
入国審査があるが、イギリスは他よりも丁寧で、普通は一人ずつ確
かめる。
「二人いっしょか」と尋ねた後「How many days ?」。
「16 days.」と答えてから、(まてよ、実質は14か15か)などと思う。
「☆○△ ?」と呟くように言って私の顔を観ている。私の聴力は、
特に右耳が貧弱で、通常よりは大きな声でないときは私の推定で意味
を補って理解する。
「Purpose ?」と聞き返した。「Yes.」「Sightseeing.」
「Enjoy your trip.」ちらっと笑顔を見せたので「Thank you.」愛想
を返す。
そして荷物の出るのを待ちに行く。
あの黒い回転ベルトコンベヤーの縁に立って、吐き出されてくるベ
ルトにきょとんと載るバッゲージを反らさずに見つめるうちにも、私
の心の姿勢は警戒を緩めない。スリ、泥棒、詐欺師その他の予想でき
ないワルが、金持ちカモをねらっているはずだ。ウエストバッグのパ
スポートと帰りの航空券、肌につけたトラベラーズチェックと現金。
肌と荷物コンベヤーと周囲の様子、三つの注意と警戒とを同時に持ち
続けようとひたすら努力する。
荷物を持ち、キャスターに結んで税関を出るとき、荷を開けて点検
されている男を見た。私たちには吏員の関心すら向けられない。外は
出迎えの人の混雑で、いよいよ警戒心は緩められないのだが、地下鉄
に乗るには案内板を探し確かめねばならぬ。しかしきょろきょろし過
ぎてはワルにカモられると、表情を崩さぬように黄色い看板を探し、
長い地下道に入って行った。時刻は現地時間で夜8:40ぐらいだったろ
うか。地下道は人通りが思いの他に少なく、不安を感じさせる。私た
ちと同じように荷物を持って地下鉄に向かうらしい人の群れと行動を
共にして駅についた。ヒースローのターミナル3駅である。
人のたむろが多い。その内の半分は切符を買うための列(キュー)
だった。三十人余りの順番を待って「Russell Square, 2 persons.」
と窓に顔を接して告げる。
「6 ponds」。十ポンド紙幣で払った釣りを握り取りながら、
「Is it necessary to change train ?(乗り換えるの?)」
「No, not necessary. Direct.(いえ、乗り換えなくていい)」
単純なことながら、私の緊張がぐーんと緩む。この言葉が異国で通
用する。
地下鉄のことをUndergroundとかTubeとか言い、MetroとかSubwayと
は言わない、Subwayは地下通路のこと、地下鉄は汚いが彼らは平気だ、
などと書いてあったガイドブックのことを思い出しながら意外に小さ
な車両に乗り込んで、トランクをそこに挟もうと股を大きく広げて座
った。
外は雨で樋を省いた曲面の扉が、停車して開く度に多量の雨水を落
とし、ドア付近のノッポ男が肩に水を受けてあわてて退いていた。
約五十分でRussell SQ駅に着いた。
私が頭の中に焼き付けていた地図では、降りて進行方向に進んだ一
本目の交差点を左折するとホテルがあるはずだった。夜は十時に近い。
外の様子は自分の目で探るべくもないのだ。注意と警戒とを失わない
ようにしてホームに降り立ったが、Exitの標識は、皮肉にも一番後ろ
の端にあった。通路には石段があって、キャスターごと抱えあげて運
ぶ。その間にも(いまここでワルにやられたら抵抗できまいな)など
と思う。
石段の上に人がたむろしていた。エレベーターで運ぶのだ。一瞬の
ことだが、アレルギー反応のように前回のドゴール空港でのエレベー
ターが思い起こされ、どんな人間と乗り合わせるのか気をつけなけれ
ばならないと思った。ところが大きな箱で、ほとんど四十人ぐらいの
人を一度に乗せる。そして難なく改札へ出たが、外が問題だった。雨
降る暗い町の中のどの方向へ向かえばいいのか、困ってしまった。
傘を出し、磁石と地図とを併せ持って地の理を窮めうようとする時、
若者二人が同じようにそばにいて、しかも彼らのトランクには私たち
のと同じタグが付いている。
「同じ旅だったんですねえ。東京で探したんですけど、分からなかっ
た」
と啓子が声を掛けた。彼らは柱に貼られた付近の地図を見ていた。
「よかった。気強いよ。」私は心からそう言った。
大学生だろうか。実直そうで理系の学生に見えた。
するとそこへ鉄道のベストを来た男が近寄ってきて、
「Where are you going?」
と援助の手を差し伸べた。
「Ah, Royal National Hotel.」と私が言うと、
「You see the light over there----」と手振りを添えて信号の通り
を示し、右折すぐだと教えた。
「Thank you.」
傘を広げ、雨の中を四人は進む。思った以上に大きなホテルは黒々
と通りを圧して建つ。フロントでバウチャー(VOUCHERS)を出して、
部屋番号1091の客に収まった。
チェックインを済ませた学生は、無事な到着を親元に報告するのか、
すぐさま電話に取り付いていた。しかし、私たちには報告する宛もな
い。
気楽とも言えようが、そのときはちょっと寂しい感じを味わった。
部屋の外は暗く広い通りで、大学の校舎風の大きな四階建てが雨の
中に姿を構えていた。 ☆ |
☆ ☆ スクエアーと博物館 ☆
☆四方形、つまり四角のことをスクエアーという。ここロンドンには、
○○スクエアーと呼ばれるところが五、六十もあろうか。通りに仕切
られた一角が、植え込みや公園風の緑の場所になっていて、日本なら
「公園」と呼ぶだろうが、ここではスクエアーと言っている。公園は
通りに囲まれたただの一角だけではなくて、広い場所を占めている。
もちろんパークと言う。
ホテルから数十メートルのところがラッセル・スクエアーで、だか
ら近くの地下鉄もバスも、駅名はいずれも「ラッセル・スクエアー」
と言う。一辺が約二百メートル、ほぼ正方形のラッセル・スクエアー
は、その西側には大きなホテルが場所を占め、東側から南東の方にロ
ンドン大学の建物が広がっていた。それに続くように大英博物館があ
る。
正門脇の通用門から次々に人が入って行く。時間がまだ早かったの
で、職員の出勤かなどと言いながら、立ち止まっていると、守衛が近
寄ってきて、「テンノクロック」と大声で言った。
開門まで三十分ほどの時間潰しにそこいらの街を歩く。昼飯を食べ
るのにどこかいいところはないかなどと考えながら散歩する。その時
間に開いているのは朝飯用のサンドイッチ屋ばかりで、ときどき立ち
止まって店員のしぐさや食パンに挟む「具」の類を観察する。開いて
はいないが印刷屋、靴屋や服屋など日本と同じで何でもある。角にワ
インを売る店があったが、紙に開店時刻が記されてあった。読むと曜
日ごとに時刻が異なる。不可解だった。普通は「月〜金、○○時〜△
△時」とか「月〜土、○○時〜△△時」などと張り出されてはいるの
だが、どんな根拠があるのだろうか。
大英博物館は無料で入れる。ただし入る前に持ち物のチェックがあ
る。係員が開けるのではなく、持ち主が自分の持ち物を開けて見せる。
私もビデオカメラを肩から外すうち、係りのおじいさんが「プリーズ」
と優しく声を掛けた。
中を見せる。「サンキュー」と手で中へどうぞをされた。
「アム。キャンナイ、テイク、キャメラ?」
「オッカイ」
(えっ)と一瞬、言いそうになった。(OK)のことをロンドン弁で
こう言う。
そのわずかなためらいを見つけたのか「ノープロブレム」と再び声
を掛けた。
エイをアイと発音するのが特徴で、ごく平易な単語を聞きまちがえ
ることがある。今回の旅行で記憶に残る発音「事件」が三度あって、
この旅行記の中にすべて記そうと思うが、これ以外のものは、果物の
「マインガウ」とチョーサーの作品の「カンタベリー・タイル」の二
つであった。
博物館の中に入る。左手に売店があって、ガイドブックやみやげ物
の類を並べている。見学の実を挙げるには場内案内をつけて陳列品を
解説するガイドブックを携えようと、売店の女性に近づいた。すぐそ
ばにガイドブックの棚があるのだが、各国語のによる解説書の中に日
本語のものが見つからない。
「スキュース、ミー。ドゥユーハヴ、ジャパニーズ、ワン?」と言う
と、
「オオ、イエス」と見かけに依らない身軽い動作でバーの中の高い椅
子から降りて書架に手を出した。そして空になった箇所を見いだし、
「ウェイト、アミニッツ」と私をとどめて、男の職員を呼んだ。
「日本語のガイドが切れてるじゃない? すぐ持ってきてよ」とでも
言ったのだろうか、男は奥へ走って行く。まもなく一抱えのブックレ
ットを男が持ってきて、私はその一冊を確かめて支払った。
「サンキュー」と受け取る私に、彼女は「アリガト、ゴザイマス」と
言った。ついこぼれる笑みを彼女に近づけて、「おじょうずですね」
とほめた。
一階は、エジプト、メソポタミヤ、ギリシャとローマの展示室にな
る。「一階」と書いたが、イギリスでは一階を「ground」と言い、二
階を「first floor」と呼ぶ。(地下はbasement) そのグランドの広
間には売店やクローク、トイレなど展示以外の役目の部署がある。右
手から奥へ進むと、そこは資料室が驚くべき量と種類のものを整理し
ている。左手へ進むと古へのエジプト時代から遺された諸物が、「大」
英「帝国」のパワーで「獲得」され、誇らしげに「展示」されている。
どこから見ようかと見回すとき、奇妙なブザーが鳴り響いた。
(火災か)と思ううち、資料室への入り口の大きく丈の高い木の扉が閉
ざされてしまった。押してもビクともしない。振り返ると先ほどの売
店へ行く方向も扉で閉ざされている。
二階(first floor)へ上がるしか見学の方法がないようなので、階
段を上るとすぐ左の展示が宝石で、「Modern European」とあった。す
ると男女の二人連れが私に近づいてきて、男が「○△ーーー?」と話
しかけたが、そんな流暢な英語を一度では聞き取れない。「ソリ、ア
イ、ドンノウ」(わるいが、私はわからん)と答えたつもりだが、男
は女に「どうしてだか分からないらしい」と、先ほどのブザーの理由
を言っているようだった。
(英語を聞くとき、言葉にしてはっきりとこれこれだと理解できなく
ても、また、その時の言葉を明瞭には再現できなくてもそこでこのよ
うなやりとりがあったと確認できるものだ。どうかすると異国に滞在
していると、このような状態で用を足していることの方が多い場合が
ある)
私たちは近代の展示よりも古代の方がはるかに興味があったので、
すぐまた下に降りた。が、高い扉はまだ締まっている。
「どうして締まっているの?」と係員に聞く。
「いや、よくは分からない。さっき警報が鳴ったから確認が済むまで
だ」
「どろぼう、なの?」
「いや、分からない」
十分以上も経ってから、また私は「スキュースミー。ザドーズドン
オープンイェット(ドアはまだ開かないの)?」と聞きに言った。
「ノー」と係員は一言いって視線を反らした。でもその直後に扉は開
いた。
近代以降の物なら見る機会は多い。しかし古代の、しかも「取って」
きたままの貴重な、かけがえのない資料はどうしても今見たいし、エ
ジプトやアッシリアの現地へ行ったとしても、もうそこには資料が乏
しくなっている。先進国はそのような貴重な物を奪って行ったという
罪を冒しもしたし、また逆に、放置すれば遺ることのなかったであろ
う歴史的資料を、結果論ながらこうして保存し得たという面もあるの
だった。だから私は「大」英「帝国」が力まかせに取ってきた貴重な
資料を、私の眼で私の解釈で観たいと熱望している。
さっきのブザーは、理由は分からなかったものの自動警報で、確認
が済んだので、扉は開かれた。直後に私たちは先ほどの売店の前を通
ってエジプトの資料室へ入った。
一昨年、ドイツ旅行の際にウィーンの自由行動が二日間あって、美
術史博物館を閲覧したが、あそこにもエジプトの「もの」が、おびた
だしく持ち込まれていた。しかし、そこには冷やい妖気が漂っていた。
この大英博物館も、さらに濃密な妖気か霊気を感じてしまう。エジ
プトの「資料」は、いずれも「墓」から取られている。もちろんそこ
には業績という歴史や文明、あるいは文化が記録されているのだけれ
ども、基本は誰かの「死」に関わってこのような物を作り記録を記し、
かつ飾りを施したのであろうから、観る私には避けがたいことに「霊」
への冒涜とか、作成者らの恨みなどが漂うように感じてしまう。
私は、こう丁寧に観察を続けたらとても滞在時間がそれを許さない
だろうと自分で自分の行為を意識しながら、しかしいい加減に見過ご
す訳には行かない気持ちで、その最初の部屋の一つ一つを観察してい
った。
エジプトの彫刻は、しかし写実的であった。時には鳥の「面」であ
ったり、オカッパから抽象したような「像」があったが、それはその
時代の「事実」であった。記録は、今から見れば、文字と言うよりは
絵に思えるが、その絵文字はいずれも事実を語っている。
私はエジプト文字を研究したことも学んだこともない。しかし見れ
ばわかる。あれは何も虚飾はない。あれを書く身になって考えれば分
かるというものだ。できるだけ簡潔に要点を記したい。そのとき、
「万葉集の序文」のように「知識人には、先進文化の文字というもの
でこんなことまでできるのだぞ」と言わんばかりの「おごり」はない。
もちろん「遊び」もない。石に刻むには修正も変更も許されない絵が、
可能な限り画一化を努めて描かれたのだ。
だから「鳥面」の人は、人のありようを抽象して「鳥」で表現した
などと悠長な解釈を挟む余地はない。人が当時、真面目に「鳥」を冠
って、それなりの役割を果たしていたのだった。
黒い石の美人像があった。首はすんなりと品良く伸び、後頭部はい
やしげなく後ろになびく。女性美の一つの追求なのではあろうが、自
然美を損なうものではなかった。大きさが等身で、二十歳の半ばくら
いの黒石の女性胸像は、笑みをたたえるでもなく悲しみを滲ませるで
もなく、しかし不思議に平静なやすらぎを伝えてくれていた。
石棺も壁画も、墓守にあたる石造りの建造物も私の心を強く引きつ
けたが、そのすべてを記す筆力を私は持たない。最初の部屋の半ばに
して、すでに一時間を経過していた。
大きな石像の並ぶ前で、私は女性に声を掛けられた。二十歳を一つ
か二つ越えたくらいの、色白の品ある少女だった。(いい子だ)と思
った。
「すみません。ここで写真を撮っていただけません?」
彼女は単独行動だった。こんな子と知り合いになってウチのヨメに
なってくれたらいだろうなあ、と瞬間、思った。
「はい、いいですよ。ーーここで?」
シャッターを聞いてから、石像の前でポーズをとる娘に、私はある
こと思いついた。
「ねえ、写真を撮るのにいい場所へ、私がお連れしましょ。私の一番
気に入った場所。ーーこっちですよ」と言いながら、部屋の脇の薄暗
い小部屋に誘う。誘いながら(変な男)と疑われるかな、などと思う。
「ーーあなたみたいな美しい女性にふさわしい女性像ですよ」と半ば
ひとりごとのように喋りながら、あの首伸び長後頭女性胸像の前に立
ってもらった。
三、四枚をフラッシュで撮る。
「私たちも、撮ってくれる?」
私はビデオカメラを渡して頼んだ。
この旅の中で、私たち夫婦が同時にビデオに収まったのは、この時
だけである。そして、この子との交流が終わった。
アッシリアの遺跡にも私は心を奪われた。チグリスやユーフラテス
の古代文明は、正直なところその名称を唱えた経験があるに過ぎない。
ここに展示されてあるのは、ほとんどが壁面のレリーフだ。時代の事
件や人の営みが、彫り出されている。そして、ここにはエジプトとは
違った恐ろしいものが浮き彫りにされていた。事件のほとんどが戦い
であった。弓矢や槍、刀や農業用具のようなもので人を切り、裂き、
あるいは分断していた。無機物の石のレリーフには血の生臭みがあふ
れていた。そして、さらに私は悲しいものを見た。
馬の下になり兵器の犠牲になっている「人間」の服装が、馬上の騎
士よりはるかに粗末で、だから容易にその「肉」が損なわれてしまい
やすいのだが、ときどきそんな「人」が川の中、つまり水中を潜って
いるのだ。一人や二人ではない。騎士や兵卒が存在すると同等に水中
に存在している場面があるのだ。
最初、私は(水に潜って攻める忍者のような兵士たちか)と思った。
しかしどうもそれは特殊な技能を持った兵士とは思えぬほどの存在で
あるし、また水中の人が、なぜか魚と親しく描かれている。私は、そ
のとき満ち潮を感じる時のように「悲しみ」に襲われた。アッシリア
の人々は、悲しいことに、死者が魚として蘇っていると信じているの
だ。
おびただしい死体が投げ込まれた水と、渇れかかった水のなかにひ
しめく白い腹の魚が重なった映像として私に意識されていた。
人の歴史の「匂い」がこの長い部屋に張り付けられていた。
こうして歴史の真実を想像しながらも、私の意識の中には「いいも
のを見たい」という気持ちが働いて、文字の歴史というテーマを追お
うと、絵文字、ヒエログラフ、くさび形文字と、丁寧に観察した。そ
してその気になればいくらでも資料はそこに存在する。民族の触れ合
いか攻めぎ合いか、ロゼッタ石のごときは、同時代に異言語を併記し
たもので、だから解読の礎になったものだが、この貴重な時代資料を
前にして、贅沢にも私たちは一瞥するだけで通り過ぎるのだった。
グレコ・ローマンの部屋に入る。おびただしい数の白い首が棚に並
ぶ。しかし何十首並ぼうがどれも同じではない。「写真」だった。こ
のころ現代の日本人と同じく卒業アルバムでも作るとしたら、それぞ
れ一冊ならぬ一室ずつのアルバムになっただろう。
部屋には、中学生か高校生か、写生をしていた。真面目に描く者や、
ふりだけしてさぼっている者、人気の少ないところでは一少女がスケ
ッチブックの上で手紙風の小紙に細かい字を連ねていた。
グレコとは、ギリシャの形容詞で、次第にローマ時代に移って行く。
すると石像は類型化して、大型化する。そしてこの時代は文字が絵か
ら独立したからか、絵物語はそこにはなかった。
私たちは疲れた。立ち詰めで歩く。啓子は、新しい部屋に入るとす
ぐ座る場所を探して休憩するようになり、私は足の痛みを好奇心で抑
えては歩く。
「ローマを見終わってから昼飯にしよに」と、大きな石の牛の傍らで
決めた。牛は、胴だけだったが、太股の付け根にはどんな英雄にも優
る感じの巨大睾丸が、私の頭の倍もの大きさでたくましく備わってい
た。 ☆ |
☆ ☆ 異国の食にまずいものなし ☆
☆「異味を嘗むる如し」と言う。未知の味わいに出会ったように珍しい
ことを言うのだが、外国旅行をして異国で食べる物の味を、私は溢れ
んばかりの好奇心で期待する。だが、旅の同行者はえてして日本食が
食べたいの、梅干しがほしいのと訴える。私はそれを表だって批判し
たり私との考えの違いを強調したりはしないが、内心では(外国旅行
を楽しむ「資質」に欠陥がありはしないか)などと思うのである。日
常の現実から脱出して異質の体験を楽しもうと言うのに、食だけが例
外であるはずはない。
例えば一時間だけ水中の遊びをするとしてプールにはいったとしよ
うか。水に適応すべく水着姿になりながら、俺はこの鳥打帽を手離し
たくないんだ、とプールサイドへ未練がましく持って行ってもそぐわ
ないこと甚だしい。私にはいわばそう見えるのだ。
異国で見聞する物に興味と感心を寄せると同じ程度に異国の料理を
好奇の舌で迎えるのが理の当然だ。
古代資料の味わいの感情の深いひだが私の内奥にうねるものの、足
は疲れの限界であった。腰を伸ばして正門から外の通りへ出ると、食
べ物店の多そうな通りへと歩き始めた。
KING'S WAYという通りが近い。先に進めば地下鉄のHOLBORN駅前を
過ぎ、五分足らずでALDWYCHからテームズの河畔の通りに合流し、す
ぐ WATERLOO BRIDGEの下をくぐる。
が、その方向へは進まなかった。いつもの悪い癖が出て食堂を選り
好みしたり入るのに気後れしたりして、限りなく食事時間が遅れるの
を恐れたからだ。だからKING'S WAYをホテルに戻る方向に進む。数軒
のレストランを覗き見したり、外のメニューを吟味した挙げ句に、や
や古風な感じの界わいがあって、そこのイタリアン・レストランの外
のメニューを読んでいるときに、中から男が半身を出して誘いの表情
をした。それが決断になったと言えば大げさだろうか。とにかく異国
の食堂に入るには、私にはある種の「踏ん切り」が要るのだ。しかも
今回の旅の初めての試みだからなおさらだった。愛想と世辞のうまい
イタリア人が身振りと雰囲気で私を誘ったことが、そのときの「初心
(うぶ)」な私に活力をもたらしたのだろう。
「入ろうか」と妻に言って、テーブルの間を奥に進む。数組の客が向
き合っている部屋の奥の間に壁を後ろにして座ろうと思った。
「Can we sit here ?」
「Oh,yes,please」
私にはこのやりとりが自然な会話なのか、それとも場にそぐわぬガ
イジンのカタコト会話なのか、さっぱり分からない。でも私の気持ち
と相手の接待の気持ちとが何の障りもなく往復している。私は、こう
いうことが嬉しいのだ。
男はメニューを二冊持ってきて、二度愛想しながらテーブルに置く。
一度ざっと見たが理解が行き届くはずもなく、
「Ahm, wait a munite ?(ちょっと待ってね)」と言う。
「Yes, yes. Ok」といったん下がった。
「このマカロニ、あ、トマトかけってな感じ、これにしよに」と決め
てボーイに合図を送る。
「Potage, one. Yes, one. Makaloni, two--,yes.」
「Ah, drink ?」
「Yes, two wines.--- Yes, red wine.」
「And -- desert ?」
「Yes, -- this one ,two.(とメニューの中を指す)」
「Is that all ?」
「Yes, that's all.」と注文を終えるのだが、単純極まりないこの英
会話でも私には緊張の密度が高い。事後にほっと安堵感の緩みがあっ
て、心が愉快にさえなる。
日本で見るよりかなり大きめのシェルマカロニでトマトケチャップ
で炒めたものがたっぷりプレイトに盛ってあった。本場イタリアより
あっさりしと仕上げてあった。
「ええやないか。おいしいわ」と私は気に入っていた。
「ほんと? あんまりおいしないわ」と啓子は言う。
「そうお? 変やな。こっちはおいしいけど。いっぺん、替えてみる
か」と皿を交換して食べる。
「ちょっと、味が薄いかなあ。そやけど、うまいなあ」
「そうお」と同意は得がかたい。要するにさほど旨まい、旨まいと言
うほどでないないと言う。でも私には「異味を嘗める」感じがしてい
るのだ。
私はすっかり平らげ、啓子は少々を残した。
そばに居なかったはずのボーイが、さすがにどこかで見ていたらし
く、頃良く現れて、にこやかに「Finish ?」と問い、「Yes.」と聞き
届けてから、皿を下げた。そしてメニューを見せながら、「Which
sweet ?」などと聞いた。「This kind of fruits cake」に対応する
ものを期待して待つ内に、小皿に盛られた苺と木苺の上にクリームが
大雪の翌朝のように載せてあった。それを、カプチーノとアメリカン
のコーヒーそれぞれ一杯でゆっくりと食べた。カプチーノはその隙間
から濃い熱液をたしなむと、ほどよい分量だけ溶け出して味を添え、
最後までふさわしい量のコーヒーの池に浮かんでいた。会計は、20.5
£でそれに1.5£のチップを添える。日本円に換算して約三千円になる。
「Thank you」と受け取るボーイに、「Nice taste. See you !」とオ
ーバーの上に帽子を被りながら愛想する。
「さあ、と。どこへ行くかなあ」と気分良く歩きだした私に、
「なんでそんなに愛想ばっかせんならんの ?」と妻は非難する。
「ええやないか。気分のええときはそのように気持ち良くつき合うの」
やや速くなった足で、King's Wayを下る。向かいに地下鉄のマーク
が見え、Holbornと読めた。最近に火事があったらしいビルの前の空
き地に、段ボールがあった。単純な空箱とは感じが異なるなと見ると、
ホームレスだった。
私は見ない。異国人だから、敢えてそれを見ない。やがて通りは半
円形の道の弧の頂点に達したので、それを左に取ると、すぐテームズ
の河畔の通りだった。よくそこには観光バスがたむろする「Cleopa-
tra's Needles(クレオパトラの方尖塔)」に出た。碑に記されたい
われを読みビデオに撮影して、また進む。地図で場所を確かめながら
進む。
「その橋がなあ、ウオータールー橋やろ。えっ、違うか。そや鉄道が
渡っとるで、Hungerford Bridgeや。渡ったそこがEnbankment。無理
に訳すと[築堤]とでも言うのやろか」このテームズの曲がり角を、
かつて治水したのが地名に、そして駅名になっているのだろうか。私
たちの歩く間に幾本もの列車が川向こうへ速度を上げながら渡り去り、
また逆の列車がほとんど停まろうとしながら渡ってきた。渡りきらな
いうちに列車の頭はCharling Cross駅のホームにかかっている。
大きな鉄橋の下をくぐると、前方にはウエストミンスター橋が行く
手を遮るように横たわる。そしてこの河畔の道路も車はT字形の行き
止まりになるし、歩行者は川岸に沿った散歩道だけになる。しかし、
その辺りが観光すべき名所の一つになっている。橋の袂から道を隔て
てすぐ前が「ビッグ・ベン」なのだ。国会議事堂の北の端にある尖塔
で、時計台になっている。十五分ごとに音を鳴らして時を告げる。も
ちろん私はビデオを向けた。十五分に近く、その音を収めたが、芸術
性の薄い鐘の音が、がらんと一つだけ鳴っていた。
ビッグ・ベンの前を左折するとすぐ国会の正門になる。
正門の衛視は、警察官のあのいでたちをしている。黒いヘルメット
は、中世の騎士のかぶった鉄製のものと形は同じだが、しかし布製で
現代性と厳めしさとを表現している。時には消防士のようにも見える
が、白人の鼻筋のとおったりりしい顔に顎紐つきで深くかぶって姿勢
よく立つ姿は、それだけで権威と品性とを伝える。そんな二人が、あ
たりの世俗を見おろすように手を後ろに組んだまま立つ。 私は近づ
いて「スキュースミー」と声を掛けた。
「写真を撮ってもいいでしょうか(Can I take photo ?)」
「ああ、いいですよ。でも、ここまで、ですよ。」と、地面に掘られ
た鉄扉のほぞのぎりぎりまで、あたかも定規で計って立たせるかのよ
うに私を誘った。(ありがとう)と言おうと、カメラを議事堂の建物
に向かわせながら衛視を見ると、すでに次の婦人観光客に対して愛想
をふりまき、被写体になるべく二人は婦人に混じってポーズを取ろう
としていた。姿に似合わず中身は世俗的らしい。
国会の風景は観光案内の写真によく紹介されているが、日本の国会
もどこかこれが参考になっているなと、素人ながら思える。しかしそ
う長時間、鑑賞に耐える物でもない。カメラに収めればそれで十分な
観光記念だ。私たちは時を惜しんですぐ右方向の「ウエスタミンスタ
ー寺院」へと歩を進めた。
ここは英国王室と関わりが最も深い寺院で、堂々たる風格のカテド
ラル内をゆっくり歩きながら、彫刻物や置かれてあるものに好奇の眼
をやる。でもいつものことながら私の内部には若干のやましさがある
のだった。私はこれらを「観光」つまり「Sight See ing」する。好奇
の眼で観察する。けれども「これら」がここに存在する理由は、英国
の王族や市民が自分の中の良心や信頼感を寄せる対象として、つまり
信仰の対象としてあるわけで、彼ら自身の存在よりも清らかで気高い
ものとしているはずだ。
観光者のこちらはともすればその尊さを意識しないで見つめたりす
る。だから私は、自分の行動を彼から「冒涜」と疑われないように心
掛ける。例えて言えば、海浜で砂遊びする子供の作品を、子供の心を
慮って踏まないのと同じだ。禁じられてはいないが、写真は撮らない。
走るが如くに歩を進めない。仮に私は何も感じないとしても(それを
尊ぶ人ならそこにひざまづくだろう)と敢えて理解し、時間をかけて
見る。またそこにたたずむ人の前をよぎったりして対象に向かう人の
精神を乱さない。
さて、堂内には信仰に貢献があった人と言う意味だろうか、棺(ひ
つぎ)が幾つも安置され、上に石像の「聖人」が永眠する。側面に彫
られた記録には眠る人の享年やその業績を伝える。私の真実はドーム
の造りに関心の多くを持ちながらも、敢えて静かに棺像をみつめる
「姿勢」で堂の奥へ進んでいった。祭壇のほぼ脇まで進むと、そこから
先は「有料(この言葉は信仰する人に失礼だが、他にないのでこれに
する)」で、そこに拝観料を受け取る僧侶が机を置いて座っていた。
私たちには身銭を切って「観る」ほどの積極性を残念ながら持ち合
わせない。
「ここまでにしとこ」私は妻に言って、きびすを返そうとした。
静かに歩く向きを変える時、床に一畳よりやや大きい囲みが金属で
作られ、記述があった。つまりそこに埋葬されて眠る人について記さ
れているのだった。私は読んでみた。そして(えっ?)と思った。堂
内に置かれた棺やそのすぐ床下に埋葬されている金属の囲みと記述は、
四、五十もあろう。そして私が読んだ記述はいづれもこの寺院の僧正
や宗教上の功績者らしかった。しかし今読んだそれは違う。しかもこ
んなに奥まった場所なので、今まで読んだ人よりは重要視されている
はずである。
チャールス・ダーウィンだった。宗教人よりも大事にされているよ
うで意外だったのだが、ほかにもないかとその名前だけを観て回ると、
あった。リビングストンだ。彼は「アフリカの父」と呼ばれる。それ
まで謎の大陸で未知の世界だった魔のアフリカ大陸へ分け入って、コ
ネをつけてきた。それはそれで「偉い」人に違いない。私の見たとこ
ろ、異質なのはこの二人だけだった。
国家と宗教とがどんな関係にあるのかは、これではっきりしたと思
った。ポルトガルやスペイン、そしてオランダに時代のひけをとりな
がら、世界に大きく覇を得ようと試みるこの海洋国が、その後、イン
ドにカナダにオーストラリアに、そしてアフリカに支配権と権益の手
を伸ばす。そして「大英帝国」になるのだ。 まだ中学生の少年だっ
たころ、リビングストンに関する文章を教科書で読んだ。熱病や毒蛇、
毒草と害虫など過酷な自然の中での苦闘ばかりか迷信に凝り固まった
未開の人種が、「人道主義」とは無縁の野蛮な社会を営む。彼は怯ま
ず、恐れず諦めずに果敢な冒険を重ねる。とまあ、こんな主旨の記述
だったように記憶する。
しかし今私は、ここに「国家の貢献者」として、日本流に言えば祀
(まつ)られているのを見て、彼を単純に「偉大な冒険家」とは言えな
くなった。ダーウィンは、なぜかさほどでもなかったが、リビングス
トンはここに大事にされていることを知らない方がよかったとさえ思
った。
「出よう」私の足は歩を速めて、落ちついた芝生の間の道を、バス通
りへ向かう。折しも敷石をはがす工事をしていたが、この人夫に意外
なほど白人が多い。現場監督が黒人だった。
「どうする? まだ一か所ぐらいはどこか観てもええけど」と妻をみ
る。
「これ、右は?」
「これ、地図ではピカデリーサーカスもレスタースクエアーへも十分
ぐらいやな。左へ行くと、やっぱ十分ぐらいでバッキンガム宮殿や」
「ほんならバッキンガムに行ってみよ」
衛兵交代式の見物に先だって、まず隔日のどの日がそうなのかとい
うことや場所取りに参考になることを下見すればいいと思った。
道はセントジェームズパークを通る。早くも桜らしい花が木に着い
ていて、手に取って確認するとそうだった。池には水鳥が多い。大は
白鳥から小は鴛(おしどり)まで賑やかに泳ぎ潜る。グリーンは清い。
ベンチに一少女が絵を描く。近づくとクレヨンで自由な絵を形作って
いた。
バッキンガムの門衛は男女各一人の当番だった。
そばへ行って尋ねようとしながら「衛兵交代式」なんてどう言えば
いいのかと思った。
「スキュースミー」と帽子を脱いで敬意を表す。ここは紳士の国で、
私も異国の紳士である。
「イエース」
「Ahm, tomorrow, can we see the march ?」
「No, you can't see tomorrow. You can see next ウエンズダイ. And
then on フライダイ、and サンダイ.」そしてよほど理解の行き届かない人
間に見えたのだろうか、and andと幾つも曜日を挙げて、果ては(今週
はウエンズダイとフライダイだが、来週はテュースダイとサースダイだ)とくどくどとや
って下さった。
「Thank you. You're so kind」とその場を離れた。すかさず次の観光
客(何人かは知らないが白人)が質問をしていた。
宮殿に向かって左からここへ来たのだが、こんどは右方向へ行くと
すぐグリーンパークで、矩形の対角線を通る小徑は地下鉄のグリーン
パーク駅に直行する。そして公園を楽しみながら散歩のつもりで駅に
出た。
「地下鉄の駅を確かめながら歩いたら、ホテルへ戻れるやないか」と、
歩くことにして、ピカデリーサーカス、レスタースクエアー、コベン
トガーデンとたどると思ったよりははるかにたやすくキングズロード
に出てきた。
「あれ、もうはいホルボーン(駅)やぜ」ならばもう地図をポケット
に収めても迷わない。そして日は昏れ、時刻は五時になる。
「少々早いけど、ええとこあったら食事に入ろ」と、行き当たる食堂
はすべてのぞき込みなら、しかしどこもぴったりとは納得できずに歩
く内にラッセルスクエアーまで来てしまった。
夕食を食べないでホテルに入るわけにも行かず、前を通り越してさ
らに探す。
小さな中華料理屋があった。
メニューを要求し、丁寧に読む。野菜ともやしの炒め物、麻婆豆腐、
それから餃子を注文した。ビールも瓶でとつけ加えた。しかし出てき
た物は、シューマイとグラスのビールだった。私の言葉が下手なのか、
あるいは中国人がいけないのか、そのどちらかだが、ここは異国なの
で文句を吐かない。素直に食べて二千円ほどを支払った。
朝から大変な行動だった。疲れてしまった。はやく風呂に入ろうと、
見るとタオルが一枚もない。電話でクレームする。
「There's no towel in the bathroom. Room No.1091.」と、クレイ
ム用の持ち場があって、そこへ電話する。男が出た。そのとき私は
「タウエル」と発音したが、相手の発音は「タオル」だった。何のこ
とはない。「タ、オ、ル」と発音すれば、ルを除いて英語と少しも変
わらないのだ。
係りに言いつけると言うので待ったが一時間ほど待っても届かない
ので、もう一度電話した。言ってあるから行くはずだ、と他人事のよ
うに言った。そしてすぐ黒人の女が現れて腕に掛けたタオルをよこし
た。
入浴の仕方は、なるべく日本のそれに近いようにする。タブの半分
を越えるほどの湯を溜めて入るのだが、温まったあとで洗おうとして
も外の床に湯が流せないから不自由だ。石鹸で濁った湯を捨てもう一
度湯を満たすこともあるが、首と手首とを特に洗って、薄濁りの湯で
体を流し、それで終わりにすることもある。清潔感はともかくとして
風呂というものはゆっくりと湯に浸かって体を温めれば心身のやすら
ぎが得られるものだ。
ツィンベッドの片方は、脚がコロになっていて、枕元の何かのスイ
ッチに手を伸ばした拍子にともすると動く。別に動いてもどうという
ことはないのだが、気になる。妻が入浴する間にも日記をつけようと
したが、集中できずにいて、妻の就寝後のなんでもない会話の時間の
中ですぐ寝入ってしまった。
(ああ、よく寝た)そう言った気分で目覚めたが、まだ十一時半だっ
た。日本の朝八時だから仕方がない。私は外国旅行にはいつも携行す
る日記帳と地図とをもって風呂場に入った。そこに明かりを灯して一
月十日づけの日記を書いた。八ページを書いてやや疲れを感じたので、
再びベッドへ戻った。
☆ |