「国語表現」の実践報告

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○次の文章を読んで、後の設問を完成させなさい。
 一年ほど前に、ぼくはH島に行った。百人足らずの生徒のいるその島の小学校の分校には、立派なプールがあった。ぼくは、先生にたずねた。 「島の生徒は、みんな泳ぎが上手でしょうね。」 「いいえ、それが、そうではないのです。」  ぼくは、おどろいた。勉強が多くて、島に住んでいながら、泳ぐひまもないのか、と思ったからだ。 「へえ、そうですか。」 「ま、相対評価という原則もありますけれど、3の子供も、2の子供もいますよ。」 「へえ、島に住んでいながら、ほとんど泳げない子供もいるんですか。」 ぼくは、目をまるくした。そして続けた。 「じゃ、先生たちも心配でしょう。海で遊んで、おぼれるような子供もいるでしょうからね。しかし、海に囲まれたこの島で、海で遊ぶなといっても無理だし…。」  すると、先生は笑っていった。 「おぼれるような子供はいませんよ。そりゃ、子供の頃から、海の中で生きているみたいなもんですからね。一時間でも浮いていられるし、もぐって貝や魚を突くのは、ぼくらよりずっとうまいくらいだし。ほら、このプールも、子供たちが海にもぐってとってきた天草を売って、つくったもんですよ。」 「それが、2や3の子供ですか、評価が。」  ぼくは、びっくりして、たずねた。 「ええ、でも、彼らの泳ぎは、自己流でしてね、形がわるいんです。正式な泳ぎを知らないんです。」 「と、いうと…。」 「つまり、正しいクロールとか、正しい平泳ぎとか、背泳ぎとか、バタフライとか。」 「つまり、国の方から、教えろときめられている泳ぎができない、というわけですね。」  そうだ、と先生はうなづいた。  島の子供は、島で生きていくために大切な泳ぎは、生活の中で、自然と学んでいる。漁船に乗っていて、船が沈んでも、たやすくおぼれることはないだろう。貝や魚や天草などを、生活のためにとってくるにも、不自由しないだろう。そういうものは、自然に身についている。だが、小学校では、そういう子供にとって大切な泳ぎは教えないのだ。  では、いったい、どんな泳ぎを、なんのために教えるのだろうか。クロール、平泳ぎ、バタフライ、背泳、それはオリンピック用の泳ぎだ。正式の泳ぎというものは、そういう泳ぎなのである。いかにして速く、いい記録をつくり、外国の選手と競争に勝てるか、という泳ぎなのである。それが、たまたま、都会の子供には、いざという時に役に立つこともあるかも知れない。だから、ぜんぜん子供個人に、大切でない、とはぼくもいうつもりはない。  しかし、それは、子供のためというよりは、国のため、といった泳ぎではないだろうか。オリンピックで、子供の一人が優勝すれば、国が喜ぶのだから。もちろん、それも、本人のためにはなるだろう。勲章をもらえるかも知れないし、オリンピック選手といえば尊敬される。それが生活に役立つこともあるだろう。しかし、本人一人のためだ。オリンピック用の泳ぎが何百万の他の生徒の生活のために、自己流のおぼれないための泳ぎよりも必要だとはいえない。そして、子供たちは、ほかならぬ、その国のための泳ぎが、どれだけうまいかで、2とか3とか、評価されるのだ。                         (なだ いなだ『教育問答』による)
設問一、この文章を80字程度で要約しなさい。
設問二、この文章の言いたいことについて、あなたは賛成ですか、 反対ですか答えなさい。
設問三、賛成・反対について、はっきりさせながら、400字程度 で自分の意見を書きなさい。


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