T ち ゃ ん の 思 い 出 
uejima children's clinic


 某月某日、母親に抱きかかえられるようにしてTちゃん(6歳) が来院。顔面、四肢に著名な浮腫を認め、腹水のサインも陽性で ある。意識もぼんやりしており、腎不全の疑いで直ちに入院を勧 める。かなりの重症感があるが、母親は自宅からの通院治療を希 望し、この事態を十分に理解しきれない様子である。午前の診療 中であったが、M病院まで救急車に同乗しTちゃんを送り届けた。
 翌日、主治医より電話でTちゃんの病状、診断について詳しい説 明を受けた。困ったことには、病室には全く両親の姿が見られず 再三自宅にも電話をかけるが連絡がとれないとのことであった。 もちろん、当院からの電話にも応答がなく、不在宅に押しかけて 行くわけにもいかない。さて、どうしたものかと思い悩んでいる とき、カルテに「生」の小さな印が目に付いた。早速、市の福祉 課の方に事情を伝え協力をお願いした。係りの職員はすでにTち ゃんの家庭の状況を把握しているようである。
 両親とも夜間の仕事のつごうで不在のことが多く、昼間も留守に することが多いとのことであった。しかし、「なんとかしてみまし ょう」と心強い返事をもらった。数日して、ようやく両親が病室に 現れた。幸い主治医の先生はじめ病院の看護スタッフの献身的な 治療を受け、Tちゃんの病状は順調な経過で改善が見られた。
 時々、病室を訪ねたが、Tちゃんの姉かと思うほどの若い娘さ んが付き添いをしていた。数ヶ月の入院生活の後、無事に退院し た。毎月1回の定期検査ために、再び当院を受診するようになった。
 最初の頃、Tちゃんは、父親とその若い娘さんと3人で来院してい た。父親には、現在のところ検尿結所見に異常が見られないが、 再発予防のために、日常生活の管理を十分するように繰り返し説 明した。その後、Tちゃんと若い娘さんの2人だけで来院するよ いつも待合室で、姉妹のようにはしゃいでいる2人の楽しそうな 声がドア越しに聞かれた。間もなく、この娘さんがTちゃんの新 しいお母さんになったことを知らされた。入院時に付き添ってきた 実の母親は、Tちゃんの入院している間に、すでに離婚していた。
 ある日、何げなく目にした某新聞の三面記事に、暴走族のグル ープ間で抗争があり、1人が死亡するという事件が載っていた。 そのリーダー格の1人が、実はTちゃんの父親であった。
 その事件の後、しばらくして若いお母さんから電話があり、Tち ゃんを連れて実家のほうに帰りたいので、近くの医師へ紹介状を 書いてほしいとの依頼を受けた。それ以来、2人の姿を診察室に 見ることはなかった。だが、最近になり、Tちゃんの前のお母さ んがお姉さんを連れて、時々来院するようになった。今のところ、 Tちゃんのことはお互い触れないようにしている。
 医院を訪れるこどもの中には、小児科医と患児の関係だけにと どまらないケースがある。病気のこどもを中心に、両親、家族、 友だち、地域の人々など、さまざまな人間関係が、実際の医療の 場で大きな影を投げかける。あたかも静かな池の中に小石が投げ 込まれたように、その波紋が大きく広がっていく。
 日常診療の中で、こどもを取り巻く多様な人間模様に触れ、小 児医療のもつ枠組の広さと深さに驚かされる。ときには、医療そ れ自体にも「深淵なる業」のようなものを感じる。
 小さな診察室の中で、こどもたちからいろいろ教えられ、また、 考えさせられる毎日である。
            (こども No・14, 診察室だより )


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