「忘れ得ぬ症例」


   

と よ み ち ゃ ん か ら の 手 紙
 奈良の法隆寺を訪れるときには、大宝蔵殿に陳列されている『玉虫厨子』を眺めるのを楽しみの一つにしている。子供の頃、初めて七色に輝く玉虫を裏山で捕まえた時、踊り上がるほどに嬉しかった想い出。その玉虫の翅を敷き詰めて造られた厨子があることを教えられた時の驚き。『タマムシノズシ』の持つ不思議な言葉の響き。まだ見ぬ玉虫厨子に対して、その宮殿はどんなにすばらしい輝きを放っているのか子供心にも大いに好奇心をくすぐられた。
 厨子の宮殿正面扉には二躯の天王像、須弥座の正面上方には、虚空に飛翔する五弁の花を中心に左右に飛天が見られる。その左側面には『捨身飼虎』、右側面には『施身聞半偈』の図がある。陳列室のガラスごしに、最近買い求めたミニ望遠鏡でそれらを眺める。敦煌莫高窟にもある『捨身飼虎』の図、釈迦の前世であ
る薩錘王子が自分の身体を犠牲にして崖から飛び込み、崖下の虎の親子に自らを食べさす一連の絵図。それをのぞき込んでいた時のことである。
 「テンオウ(天王)?」
 「これはテンオウでなく、テンノウと言うのよ」と、子どもに教える母親の背中ごしに聞こえる。それとなく振り返ると、母親と姉妹の三人連れのようである。みつ編みに結った髪、大きな目にポッチャリとしたまぁーるいホッペの妹の方が突然、 「お母さん、テンニョ(天女)っているの?」 「・・・・・・・・・・・」
 「テンニョは本当にいるの?」
小型単眼鏡を構える手の下から黄色い声が聞こえてきた。母親がどのように返答するだろうかと目の前の『捨身飼虎』よりも、そちらの方に興味が移る。耳をそばだたせて隣の親子の様子を伺う。
 「・・・・・・・・・・・・」
無言のまま、この母親は二人の子どもを連れて隣の陳列室に足ばやに行ってしまった。
 なぜかこの女の子のうしろ姿を見た時、「先生、わたしは天使になりたい」と言って、天国に旅立って逝った一人の女児の事を想いだしていた。
 K病院に赴任した頃、整形外科のY先生が数枚の大腿部のレントゲン写真を携えて、小児科外来に現れた。数ヶ月前から左大腿部に痛みを訴え、血液所見でCRPのみ陽性であったが、同部に異常所見がなく経過を追っていた。最近になり骨皮質部に異常がみられ、プローベではユーイング肉腫の診断であったので、小児科の方でよろしくとの事であった。大腿部以外には、はっきりしとした病巣は見つけられず、さっそく抗癌剤を使用した。数ヶ月後、レントゲン写真で見られた所見は警戒し、ひょっとしたら誤診だったかと思われる程に緩解の状態が長く続いた。その頃、お母さんと一緒に外来に通ってくる、まぁーるいホッペをした元気なとよみちゃんの姿が時々見られた。
 その後、二年数ヶ月経って、腰痛を訴え再入院した。レントゲン像では骨盤骨にパンチド・アウトの陰影が見られた。再度、色々な抗癌剤を使用したが、初回ほどの反応は見られなかった。とよみちゃんは、昼間は比較的元気にベットの上でお遊びしていても夜になると「痛いようぉー、痛いようぉー」と、背中に走る激痛をこらえきれずに泣き叫び、付き添いのお母さんやお父さんを困らせた。鎮痛剤も効果なく、激痛を抑えるために麻薬を使い始めた頃、とよみちゃんからこの手紙をもらった。

 ウエジマ先生はげんきですか。わたしもげんきです。きのうはばあちゃんがきていましたがあそびすぎたのでこしがいたみました。しっぷをしましたがよるになるとまたいたみました。せですを2かいのみましたがなおりませんでした。しっぷがきかないのでとりかえました。
 せんせいがきたときわたしはうそねをしていました。きのうばあちゃんはかにを5つかってきてくれました。わたしはかにが大すきです。きょうパパとよそのおじちゃんがきてくれます。なつパンダをみにいっていいですか?わたしはおおきくなったらかみさまのこになります。

                        とよみより、せんせいへ



 とよみちゃんは蟹、海老、さしみなどの海の物が大好物であった。病院から汽車で一時間程の漁場に住むおじいちゃんとおばあちゃんは、とよみちゃんの好物を携えて足繁くお見舞いに来てくれた。クリスマスには、背中や腰に走る痛みをこらえながら、入院中のお友達や看護婦さんたちと一緒に手品を見たり、歌をうたったり、ゲームをしたり、楽しいひと時を過ごした。パーティの終わりに、ささやかなプレゼントが皆に贈られた。ストレッチャーの上で、そのプレゼントの包みを両手に抱え、嬉しそうにしていたとよみちゃんの姿を忘れることができない。
 その頃、回診中に突然、「先生、わたし天使になるんやに」とベットに寝たまま、その大きな目で主治医を見上げながらつぶやくように言った。咄嗟のことで主治医は返す言葉もなかった。外来通院の頃のふっくらとしていた頬にも、すっかりやつれが目立つようになっていた。長かった頭髪の毛も透けて見え、お腹だけがめだって大きくなり、痩せ衰えた手足の皮膚はたるみ、その下にある骨までもはっきりと見えた。毎晩の激しい痛みとその忌まわしい腫瘍との戦いで、一日一日と衰えが目立ってきた。
間近にせまっている死というものに対して、とよみちゃんがどのように理解していたのか定かでない。この手紙は、その時のとよみちゃんの気持ちを子どもの直感から、それとなく主治医に伝えてくれたのかもしれない。
 死にいく子どもが自分の死に対して、どの様に考え、また、どの様に対処しているのか?母親や父親、家族に対するケアの仕方は?現在行っているケアが本当に充分であるのかどうか?主治医として治療上の知識と技術には限界のある事実など、その頃小児科医としてひどく悩まされることが常であった。
 とよみちゃんの病室に至る入院病棟の廊下は、私にとって長い長い出口を塞がれた真っ暗なトンネルのようでもあった。その中をまるで手探りで歩いていくような、どうしようもない気持ちにかられた。このような罪もないかわいい子どもに過酷な死の試練を与えるなんて!神も仏もこの世にいるものか!と、 なんともいいようのない腹立たしさに大声で叫びたくなる衝動にかられた。そんな時、小児科医として自分自身の未熟さに気づき恥ずかしい思いをした。もう本当に治療の手だてがないものなのか?だとすれば死に行くために苦しみの時間を長引かせてしまったのではないか?安らかに死に逝くにはどうすればよいのか?死に行く子どもに対する対症療法の限界について、なにか割り切ることのできないもやもやしたものがあった。
 不惑の年もとっくに過ぎ、知命も半ば近くになり、天国や極楽といったものとは全く無縁の小児科医ではあるが、今では玉虫厨子に描かれた『捨身飼虎』を見て、その薩錘王子の捨身行に、とよみちゃんの姿を重ねて見ることが出来るようになった。とよみちゃんが悪性腫瘍に冒されることがなかったら、同じような年頃の子どもを持つ母親となって、きっと幸せな家庭を築いていたことだろう。今日も診察室には、いつも整理をしようと思いながら医学雑誌や新薬のパンフレットなどが乱雑に診察テーブルの上に積み重ねられている。とよみちゃんからの手紙は、そのテーブルの一番上の引き出しの奥に大事にしまっている。
 昨今の小児科開業医をとりまく医療情勢はまことに厳しいものがあるが、この『忘れえぬ症例』は、私が小児科医になって本当によかったと、その  『Quallity of Life』を教えてくれた症例の一つでもある。小児科医として診療を続けるかぎり、この手紙は今後もそばにそっと置いておきたいと思っている。パンダを見る事なく幼くして天国に旅立って行ったとよみちゃんへの鎮魂歌として、ささやかではあるがこの拙文を捧げたい。

                  (三重県小児科医会会報・第25号投稿)

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