今年七月に沖縄で開催された牧師会で、同室になったK氏よりあることについての情報を受けた。名古屋に帰って間もなく、一冊の文集がK氏より送付された。私は一気に読んだ。神学校の同窓の沁tがアルツハイマーになっている事実を夫人の介護体験の文章から生々しく知った。
宣告されてから十年も経験して初めて実感したこの私。その冷酷さ、無関心さ、いやこれはまさに聖書でいうところの「罪」であった。パウロの言葉のごとく、私は「罪のかしら」であった。私は懺悔の心を抱きしめつつ、沁tの魂の叫ぴと、懸命に支えている夫人の苦闘の一端を綴ろうと思った。
彼は教会牧師と幼稚園園長をしていた。私も同じ働きにあったので、共働したことがある。彼のオルガニストとして、合唱の指揮者としての実力は多くの人が認めていた。私が東京で保育連盟の教師研修会を企画、推進していたとき、彼は協力してくれた。北九州から車で夫人と子供たちを同行して。その後、私が名古屋に移住し、幼稚園の働きを持たなかったので、交流は希薄になった。しかし、牧師会などで会うと、彼は私に目配せをし、私はうなずいて答え、互いを確認し合った。言葉を直接交わさなくても私はそれで満足した。
彼に一つの兆候があらわれるようになったのは一九八四年、五十一歳ごろ。頭痛を訴え始めた。このとき、彼は川崎市の教会と幼稚園で活動していた。市販の鎮痛剤を連用したがよくならず、聖マリアンナ病院で診てもらった。病名はつけられなかった。翌年、体力に見合った教会に替わることを考え、九州の大分教会に転任した。聖マリアンナ病院の医師は「軽鬱病(軽いうつ病)」として大分医大に紹介状を書いてくれた。
大分医大で診察してもらったところ、「若年性アルツハイマー病」と言われた。このころからおかしいと思うことが次々と起こった。時間の感覚がズレる。手元のメモを見ることを忘れる。賛美歌の練習中、自分がどこを弾いているのか分からなくなる。「僕はこのころ、頭がバカになって・・・」と彼が言うとみんなは冗談と思って笑った。しかし、彼はいつもと違う行動の変化に気付き、恐怖に耐えるのに必死であった。
このような状態では、教会に迷惑を掛ける、夫の人格に傷がつくと考え、夫人は彼に辞任を提案した。引っ越しの荷物を整理しているとき、五線紙に走り書きした文字に目が触れたが、夫人はそのまましまい込んだ。夫人は夫が病人であるとは思いもしなかった、大分のそのころは・・・。
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「いろんなメロディーが、ごっちやになって、気が狂い相だ、苦しい、頭が痛い/僕にはメロティーがない/和音がない/響鳴がない/頭の中にいろんな音が秩序を失って騒音をたてる/メロディーがほしい/愛のハーモニーがほしい/響鳴するものは/もう僕から去ってしまったのか/力がなくなってしまった僕は/もう再び立上がれないのか/再び帰って来てくれ/あの美しい心の高鳴りは、もう永遠に与へられないのだろうか(原文のまま)」
破壊されていく自分自身への心配と恐怖。病の中に崩れ落ちていく悲哀。帰って来てくれ!と叫ぶ、彼の魂の孤独はだれも知らなかった。
夫人は「あとにも先にも夫が自分の心の中の苦しさを表現した言葉はこれのみです。八年ぶりにこれを見つけたとき、この夫の叫ぴにもっと早く気付いてあげていたらと、取り返しのつかない自分の愚かさを悔いるばかりです」と自戒する。
人間はだれしも叫んでいる。それを聞き取れない人間の限界に、人間の原罪があること示される。人間の原罪を提示するところに宗教の奥義がある。
彼、沁tが「アルツハイマー病」と宣告されたのは五十五歳のときである。
(たまき・いさお=日本ペンクラプ会員、名古屋・東山キリスト教会牧師)
「時間の感覚がズレる。手元のメモを見ることを忘れる。賛美歌の練習中、自分がどこを弾いているのか分からなくなる。『僕はこのころ、頭がバカになって・・・』と彼が言うとみんなは冗談と思って笑った。」この部分の記述はすばらしい表現力です。まさにアルツハイマー病初期の病状を如実に表現しております。
また、「みんなは冗談と思って笑った」の部分に、初期診断が遅れる現状が如実に表現されております。