彼女にとって個室は快適だったが、共同生活は初めての体験なので毎日が緊張の連続だった。新しい洗濯機は機能が複雑でなかなか覚えられない。使い方を何回も隣人に聞いてうるさがられ、時々洗濯物を取り忘れたりしてひんしゅくを買った。また、自分が矢敗をして皆さんに御迷惑をかけないようにと気にし過ぎて、かえって食事時間を忘れることもあった。
最近も、女学校時代の友人と会う約束をしたのをつい忘れ、友人から確認の電話がかかってきて、びっくりして我に返った。物忘れがひどくなったのは、ぼけてきたからではないかと思い込むようになった。そして、ある日、とうとう大失敗をしてしまった。トイレに入った後、水を流すのを忘れ、他の住人から苦情が出る始末となった。
近年、高齢化社会の到来により痴ほう性老人の処遇が社会的問題となっている。マスコミが盛んに取り扱うせいか、「ぼけるのではないか」ということが老後の不安のトップにあげられることが多い。私たちも正常老化である「物忘れ」をぽけの前兆と心配する「アルツハイマー・ノイローゼ」のような高齢者に会う機会が増えている。私たちは記憶と加齢の関係についての正しい知識や、記憶力の維持向上を啓もうするため、高齢者のための記憶力改善プログラムを作成した。このメモリ、・トレーニングは週一回定刻に会合して、物忘れと痴ほうの違い、記憶に悪影響を及ぼす要因、加齢による 記憶力の変化などの講義をしたうえで記憶力を維持する様々な方法を勉強し、それらを実際に生活の中で実行してもらっている。
R子さんは、このトレーニングにさっそく申し込んできた。講義を受けるうちに、入居当初にいろいろ失敗したのは、慣れない共同生活で緊張し、ストレスがあったためと分かった。また、たれもが年を取ると新しいことを覚えるのにも思い出すのにも時間がかかること、同時に起きる二つのことに注意を払うのが難しくなることを学んだ。洗濯機の使い方が覚えられないのは“ぼけ出した”せいではなかった。R子さんは、自分が若いころから整理下手で、部屋の中がいつも散らかってい は自分の生活態度が原因と知り、眼鏡、財布などの置き場所を決め、カレンダーに約束日の印をつけるようにした。今も物忘れは時々あるものの、笑顔のやさしいいつもの彼女に戻っている。
(東京都老人総合研究所心理学部門研究部長 下仲 順子)
仮に素因が陽性であっても、アルツハイマー病を実際に発症するかどうかは「神のみぞ知る!」というところが正直なところです。「発症しないと信じて頑張ろう!」というのが一番大事な心の持ち方なんでしょうね。