アルツハイマー病の治療目標は,l)痴呆(抑うつ,焦燥,精神症状を含む)に伴う行動異常(随伴症状)の改善,2)記憶,言語,注意,見当識などの,認知障害(中核症状)の改善,3)病状進行の阻止,クオリティ・オプ・ライフと自立性の維持,4)発症の遅延に大別できる。中核症状である認知障害に対する治療法も考案されている。後述するようにコリンエステラーゼ阻害薬はすでに実用化しており,そのほかの新しい治療楽の開発も進んでいる。
異常行動のコントロールは可能
異常行動のコンーロールは,重要な目標である。焦燥,精神症状,抑うつ,不安,無気力,睡眠障告,食欲不振などが痴呆による行動障害に含まれる。向精神薬(抗精神病薬,抗うつ薬,抗せん妄薬)の処方によってほとんどの患者の異常行動がコンーロール可能である。しかし中核症状である認知障害や記憶異常を改善することはなお困難である。
神経伝連物質アセチルコリンが作働するコリン作動系の機能低下が,アルツハイマー病の初期の代表的な病像である。コリン作動系を活性化する方法にはアセチルコリンの前駆体やアセチルコリンを分解するコリンエステラーゼの阻害薬.さらに向レセプター作動薬を投与する方法が考案されている。コリンやホスファチジルコリン(レシチン)等のアセチルコリン前駆体が,アセチルコリン合成を増大させる目的で使用されてきたが,臨床試験では効果の碓認できなかった。
薬物治療に道を開いたタクリン
コリンエステラーゼ阻害薬はシナプス間隙のアセチルコリンの分解を遅らせ,アセチルコリンの機能を延長させる働きがある。アルツハイマー病に対し,唯一その効果が認められた治療法である。
フィゾスチグミンは,記憶機能の改善効果が確認されているコリンエステラーゼ阻害薬の一つだ。短期投与では改善しない例でも,長期投与例では認知機能の低下を遅らせるという結果が出ている。しかし,効果の発現が遅く,コリン作動性物質の蓄積による副作用(悪心,嘔吐,下痢,紅湖,発汗,徐脈)が高率に生じるという欠点がある。タクリン(商品名:Cognex)は中枢性,可逆性で非特異的コリンエステラーゼ阻害剤だ。発症の初期段階にあるアルツハイマー病患者に対して,タクリンを処方したところ劇的に改善効果が碓認された。その後の多施設試験でも全般的臨床スコアと認知機能,日常機能においてタクリンの効果が証明された。
タクリン投与群の3分のlは,プラセボ投与群よりも有意に効果が認められた。その一方で,コリン性副作用,特に消化器症状が出現して,使い続けることができなかった患者は全体の20%に達した。50%の患者には無症候性のトランスアミナーゼ(肝機能障害)の上昇が見られた。
副作用があり満足のいく治療薬ではなかったもののタクリンの開発は、抗痴呆薬の標準的な臨床評価法を確立するという点で大きな貢献があった。コリン作動性副作用や肝毒性はあっても,適切に使用すれぱ安全な治療を続けられることもまた,タクリンは証明した。
副作用が少ないドネパジル
ドネパジル(商品名:Aricept)は可逆性アセチルコリン・エステラーゼ阻害剤であるいアセチルコリン・エステラーゼに特異的に作用する阻害剤だ。阻害効果はタクリンやフィゾスチグミンよりも持続的。用量依存的に効果を発揮することも確認できた。
多施設でドネパジル5mg/日と10mg/日と,プラセボ(偽薬)とを15〜30週間投与して比較したところ,30週の治験を行った欧州諸国の結果と同様,統計学的に有意に中核・随伴症状共に改善を見た。この結果では,とりわけ10mg/日以上の投与で,認知機能と全般的臨床スコアの双方で,統計学的に有意な改善効果が出た。
消化管系に対する副作用の面で,ドネパジルはタクリンよりも安全で耐容量が大きい。ドネパジルは米国食品医薬品局(FDA)によって1996年1l月に承認された。タクリンとほぼ同等の効果で,肝障害或いは血清トランスアミナーゼの上昇を見ず,タクリンよりもコリン性副作用が少ない点が評価された。
1日l回の服用で十分量を確保できる点は思者のコンプライアンスも改善させた。加えて既存薬で問題となった薬物相互作用や薬と食事の「食べ合わせ」の懸念も軽減させた。ドネパジルはタクリンよりも高い治療効果が期待される。
他のコリン作動性物質と比ベ,早期治療によって得られる改善が持続することも示唆されている。長期的効果と,より重度の痴呆例,易感染性を有する患者を対象にした臨床評価が現在進行中である。
ENA713(Exelon)は不可逆性のコリンエステラーゼ阻害剤である。3000例近く治験が行われており,効果と安全性に関する詳細は近く公表される見通しである。
メトリフォネート(元来は殺虫剤)はリン化合物で,体内で代謝を受けて活性型となりコリンエステラーゼとなる,いわゆる長時間作用型のプロドラッグとして働く。半減期は約2カ月と,効果は持続的である。典型的なコリン性副作用,全般的臨床スコア,認知機能ともに改善しているという結果が出ている。
他の神経伝達物質での治療
セレギリンはモノアミンオキシダ ーゼ(MAO)阻害剤であり,特にMAO‐B型を阻害することでアセチルコリンとは別の神経伝達物質であるドーパミンの量を増やす。一連の研究では,数週から半年の期間ではセレギリン投与例はプラセボよりも緩やかながら認知機能の向上が見られ,行動症状も改善した。さらに,2年間の多施設でのプラセボ比較臨床試験によってこの薬の有効性が証明されており,他の薬が認知機能に対してはごくわずか或いは全く無効の結果を示したのに対し,非常に良く行動症状,認知障害の改善を示した。
神経系の生育の促進
神経細胞の生存を維持する神経成長因子の分泌系が障害されると,神経細胞の機能不全をもたらす。脳細胞の脱落を伴うアルツハイマー病において,この点は注目に値するが,現在のところアルツハイマー病の病因に神経成長因子が関与するという決定的な証拠は何もない。しかし,神経成長因子を体外から投与することによって記憶の改善効果があることを支持する動物実験の結果が報告されている。
脳一血液関門を通過しない神経成長因子を患者脳に投与するには血管内カテーテル,もしくは担体分子による供給が必要である。欧州で行われたいくつかの臨床試験では神経成長因子血管内投与治療で,一部改善効果が認められたが,それはきわめて限定的なものだった。他の治療法として,実質内投与,組織移植,追伝子操作済み細胞の注入が検討されている。
エストロゲン補充療法を受けている患者ではアルツハイマー病を発症しにくいという報告がある。エストロゲン製剤を用いた臨床試験でもアルツハイマー病の患者に対する認知機能改善作用が示唆された。現在,エストロゲンに痴呆を遅らせる効果があるのかどうか,女性患者の認知機能の改善やアルツハイマー病の発症時期を遅らせる可能性があるのかどうかについて検討されている。
脳内の炎症の制御に期待
アルツハイマー病患者においては免疫反応の亢進が見られる。カルテを検討したレトロスペクティプ・スタディ(以前の治療を振り返って何が有効であったのかを検討する)によって抗炎症薬の効果に期待が持てそうなことがわかってきた。慢性関節リウマチのため,長期間の抗炎症療法を受けてきた患者は,ア ルツハイマー病罹患の発症率が低下していた。この結果は,インドメタシンのプラセボとの比較試験においても,裏付けられている。さらに,現在10mg/日のプレドニゾロンを投与し発症の予防効果を調べる大規模臨床試験が進行中である。
治療薬の選択肢は増える
過去のアルッハイマー病の治療は,行動異常を改善する目的から,精神病薬を経験的に使用してきたに過ぎなかった。現在,FDAが認可している抗痴呆薬はタクリンとドネペジルの2種だけだ。しかし,ごく近い将来,ENA713,メトリフォネート,長時間作用型フィゾスチグミンなどのコリンエステラーゼ阻害薬の臨床応用が可能になると予想されている。それら薬剤について,すでに有意な効果と長期にわたる好成績が得られている。
長期的なフォローアップによって,こうした治療薬が持つ行動障害の改善効果,病状進行の遅延効果,養護施設への入所割合,死亡率への影響などが明らかにされつつある。これらの薬剤にはまだ問題も多い。確かに,薬の安全性は向上した。しかし,治療効果はわずかであり,十分とは言えない。それでも薬物療法には期待が持てる。病因の解明が進めぱ,この悲劇的な疾患に対して有望な治療薬が登場する日もそう遠くはないだろう。
(Postgraduate MedicineンMcGraw-HillInc.,1997)
(ロチェスター大学:ピエール・N・タイロット&ロン・シュナイダー)
(南カリフォルニア大学:アントン・P・ポルスティンソン)
メトリフォネートの情報は私も知りませんでした。