アルツハイマー病・ヒューマンドキュメント

 明暗を分けた介護方法の違い!


無理心中を図った八十七歳の夫

 十二月半ば、長野市を囲む山々にまだ雪はなかったが、犀川の鉄橋からは北アルプスの白い蜂が垣間見えた。篠ノ井駅で降り、田園の中をタクシーで松代町へ向かう。オリンピッグ開会式会場の近くを過ぎ、千曲川を渡る。

 畦川邦夫さん(43)宅の、こたつのある八畳の居間に通されると、額に飾られたご両親の金婚式の写真が目にとまった。洋服で盛装した老夫婦が、おだやかな表情をたたえている。金婚式の日付は昭和六十三年三月十五日である。

 しかし、二人はもうこの世の人ではない。九七年三月四日の夜、夫の畦川三郎さ(87)は妻のくにさん(78)を絞殺し、百メートルも離れていない小川の橋の欄干 に紐で首を吊って自殺した。痴呆症の妻の 介護に行き詰まった末の無理心中であった。

 「仕事からもどったら、線香の煙とにおいが立ち込めてるんです。おかしいなあと思ってみると、母がこたつの横に寝てました。まさか死んでるとは思いません。こたつの上の広告の裏に走り書きがあって、父ちやん十時十分家出、という文字が目に入りました。びっくりして近くを探し回りましたが、見つからないので帰ってきて、お袋さんにきいてみようと体をゆすると、様子がおかしいんですよ。脈もありません。あわてて姉に電話して救急車を呼びました。走り書きをもう一度見ると、『僕は荒町ばし近くでいる』、とあります。飛んでゆくと、親父さんが首を吊ってたわけです…。いったいどうしたんだろうって…、何も言葉が浮かんできませんでしたね」

 邦夫さんは目をしばたたかせながら、両親を一度に失った夜のことを振り返る。

 くにさんが痴呆症になり始めたのは、金婚式を終えたその年で、タ食を食べた直後に、「まだ食事をしてない」と言いだしたのが兆候だった。尿失禁や徘徊も始まった。娘二人が市内に住んでいるが、家庭があり生活も大変なため、介護の負担は三郎さんと数年前に離婚して家にいた次男の邦夫さんにかかった。高速道路のサービスエリアで調理師をしている邦夫さんは勤務が不規則で、くにさんと一緒にいる時間は三郎さんの方が長かった。三郎さんは妻の面倒を自宅で見られるところまで見ようと決意して、介護の講習会にも積極的に参加し、精一杯介護した。

 三郎さんは明治四十二年、福島県の農村に生まれ、昭和の初めに上京して板前になった。くにさんは大正七年、松代町生まれ。三郎さんとは同じ料亨で仲居をしていたときに知り合い、昭和十三年に結婚した。昭和十六年、三郎さんは陸軍歩兵として東南アジアに出征。終戦後は、妻の疎開先の松代に居を定めた。三郎さんはダムの工事、材木の伐採、煎餅焼き職人、土木作業などの仕事をし、くにさんは近くの工場で働いたり保倹外交員をして家計を助け、二男二女を育て上げた。老後は二人で温泉旅行などを楽しんでいた。「父親は七十歳過ぎるまで働いてました。愚痴をこばすこともなく、几帳面で、頼まれたらいやとは言えない性分でしたね。母は勝ち気で頑張り屋という感じです。両親からは、みんなには迷惑をかけるなって、よく言われましたよ」

 九二年十一月から市のホームヘルプサーピスを週に一回、翌年四月からは特養老人ホームでのデイサービスを週に一度、利用しはじめた。くにさんは夫を慕い、素直に言うことをきいていた。デイサービスに行っても、早く家に帰りたがった。しかし、 症状はひどくなり、トイレや着替えを嫌がって抵抗したり、夜も眠らずに歌ったり、鏡に映った自分の顔もわからずに話しかけたりしはじめた。汚れ物も、毎日山のように出た。

 「洗濯はほとんど私がしてましたが、居間でお袋さんと寝起きしていた親父さんは、睡眠不足で疲れ果ててましたね。子供みたいに抗うのをうまく宥めればいいのに、どうしてもむきになってしまうんですよ。自分の妻を子供あつかいできず、真っ正面からしか接しられなかったんでしょうね。

 九五年十一月、束京にいた長男が脳腫瘍で急死した。くにさんは息子の死もわからず、葬式の場で歌いだした。やがて、夫の顔えもわからなくなり、「私の家に寝てるあの人は誰?」と言いだした。三郎さんの悲嘆と心痛は積み重なった。

  老人が老人を看る老老介護の日々。九七年二月十四日、三郎さんは風邪をこじらせて肺炎になり入院した。くにさんは特養老人ホームや老人保健施設にショートステイであずけざるをえなかった。しかし、どこも常に満床状態で、やっと入れた所も一週 間と十一日間の期限つきだった。

 二月二十三日、三郎さんは退院した。めっきり哀えて、日のあたる縁側で寝てばかりいた。しかし、愚痴をこばすようなことはなかった。

 「介護の悩みを人に言っても、もうどうしようもないという気持ちだったと思うんで すよ…」

 三月四日、くにさんが帰宅した。三郎さんは、明日からのデイサーピス再開を申し込み、米の配達も注文した。夜の十時、邦夫さんの職場に三郎さんから電話があった。「心配かけてすまないなあ、とか言うんで、何言ってるんだい、もうすぐ帰るから、と答えました。そして、家にもビったわけです」

 走り書きの文字はふるえる筆跡で記されていた。

 『邦夫すまぬ事をしたが、しかたないのよ。二人ですから本当にどうにもならないから。母を先に。僕は荒町ばし近くでいるとおもうから見てくれ。本当に本当にわるい父と思ってくれ。後はたのみます。母は午後九時○分頃です。私のゆうこときかないから、きかせてやった。父も後から行くと。夜めしはかゆをたべました。父ちやん十時十分家出』

 発作的な無理心中だったと推測される。ただ、三郎さんは自らの老身に限界を感じ、思い詰めていたのではなかろうか。「もし自分が先に死んだら、介護の負担が息子にだけかかると考えて、夫婦一緒に死のうと思ったんじやないでしょうか…。でも、痴呆症のお袋さんは自分で判断できる状態じやなかったわけで、心中とは言えませんよね。まだ死にたくないという死に顔をしてましたよ。逆に、親父さんは安心 して寝てるみたいな表情でした。その晩何が起きたか知ってるのは、家にいたうちの犬だけですよ。両親とも生きられるだけ生きてほしかったですけど、そこまで思い詰めていたとは…」と、邦夫さんは宙の一点を見つめる。

 数週間後、遺書が見つかった。いつ書かれたのかはわからないが、その時は一人で自殺するつもりだったようだ。

 『私も今少し元気ならまだまだと思っていました。かあちゃんに手かかるので本当にこまり、邦夫は毎日一生懸命働きながら精一ばい自分の仕事、朝早くから晩はおそくまで、本当本当働いても次々とこまる事ばかりになり、私と母二人なんともならず、母はまだまだ元気ですから世話をかける事が沢山ありうると思い、父ちやんは胸が一ぱいです』

 『父はさきに、母は私もみる事が出来ません。本当にどうする事も出来ませんから、邦夫一人になるが、たのむよりしかたありませんです。私は行く所に行ったら、まもります。私たち夫婦はなぜこのような時に生きてぎたのかわかりません』

 仏壇のある座敷に、三郎さんとくにさんの遺影が並んでいる。緑側には、いまも時おり夫妻のにおいをかいで回るという成犬が首をかしげて座っていた。

 三郎さんは、人に迷惑をかけたくないという考え方にこだわって、悩みを一身に背負い込んだ。『私たち夫婦はなぜこのような時に生きてきたのかわかりません』。この言葉は、金婚式まで迎えた夫婦の道のりの最終段階でつきあたった、介護という険しい峠で途方に暮れる三郎さんの姿と、夫婦が陥った悲劇を映し出している。と同時に、三郎さんが肺炎で倒れて在宅介護が無理になったときに、くにさんを安心して託せる施設がなかったことに表される、福祉の貸困な時代を浮き彫りにもしている

 『高齢社会白書』によれば、九五年の時点で、六十五歳以上の在宅の要介護者数は八十六万人、人口千人当たり四十九・三人の割合である。また介護者の平均年齢は六十・四歳だ。介護される方もする方も増大し、高齢化する一方である。こうした現実に、福祉の施設も人員も予算もはるかに遅れをとっている。

 在宅介護の重圧により、無理心中や心中に追い込まれる老夫姉は後を絶たない。警察や厚生省も統計をとっていないので、新聞記事データぺ−スで全国紙と地方祇、計 十二紙を調べた。九○年〜九八年一月、老夫婦の無理心中が二十六件、合意の上と思われる心中が十九件、無理心中を図って一方が生ぎ残った場合が十四件である。しかし、これらはあくまで一部にすぎない。無理心中のうち夫が妻を道連れにした例が二十二件、未遂の場合は十一件と、圧倒的に多い。男性の方が、介護の手助けを他者に求めるのを潔しとせず、悩みを抱え込んで、肉親にもう迷惑をかけられないと思い詰める傾向が強いからではなかろうか

 

夫のありのままを受け入れる

 配偶者の介護に行き詰まって無理心中にいたる危機を、紙一重の差でくぐり抜けたという人に会った。

 琵琶湖の東岸、滋賀県長浜市の郊外に住む宮部つよ子さん(72)は、痴呆症になった夫の正雄さんが八十二歳で亡くなるまで六年間介護したが、一時は夫と一緒に死のうとまで思い詰めたことがある-。

 「主人が脳梗塞で倒れたのは八七年の八月でした。三カ月の入院で、幸い後遺症も残さずに退院できましたが、二年ほどして、テレビがつかないと言ってしざりにチャンネルをいじりだしたんでオ。テレビはちゃんとついているのに。それから、京都に三泊の予定で行ったら、途中で二泊だと言い張り、明日帰ると言ってききません。どうも辻褄が合わないことが増えたので神経内科に行ったら、アルツハイマー病と診断されました。脳が萎縮しはじめていて、現代医学でも治せないと言われ、目の前が真っ暗になりましたね」

 つよ子さんは、物忘れがひどくなった、計算ができなくなった」とぽやく夫にショックを与えたくなかったため、事実を告げなかった。子供はいないので、自分が見守るしかないと思い決めた。

 二人が結婚したのは六八年。埼玉県で農協に勤めていた正雄さんと、山梨県から上京し線維会社に勤めていたつよ子さんは、親戚の紹介で見合い結婚をした。離婚経験のある正雄さんが五十六歳。四十二歳のつよ子さんは初めての結婚だった。七四年、定年退職していた正雄さんは、父親の故郷で、自らも少年時代を過ごしたことのある長浜に土地を買って引っ越した。先祖の墓守に帰ってきたのである。夫婦で自転車に乗り、小谷城跡などへよく歴史探訪をした。

 正雄さんは痴呆症の進行とともに、子供みたいにお菓子をむさばり、尿や便をもらすようになった。紙おむつを替えようとすると、嫌がって全力で抗う。つよ子さんは、痴呆症で思考力も失せた夫に腹を立ててもしようがないと思いながらも、苛立ちを抑えきれず、庭石に小石を投げつけては何とか気を鎮めていた。親戚や隣人にも、夫の恥ずかしい姿を知られたくないと考え、徘徊しないように目を離さず、夜は扉や窓に外からつっかえ棒をした。

 「ある日、おむつ替えのとき、主人に突き倒されてタンスで頭を打ち、気が遠くなりかけたんです。主人は仏間に放心状態でいました。几帳面で責任感が強く、思いやりもあった夫の変わり呆てた姿に、胸がしめつけられて涙がこみ上げました。なぜ自分たち夫婦がこんな苦し入を受けなくてはいけないのか、神様も仏様もあまりにひどい、と仏前に泣き伏しました…。それから、こんな姿になってしまった夫とこの先、生き永らえるよりも、いっそ二人で死んだ方がいい、と思いはじめたんです。主人は山が好きだったから、一緒に北アルプズの雪山に埋もれて白骨化したい、と。明日こそは行こう、明日こそは、と夜な夜な思い詰めましたね…」と、つよ子さんは語りながら、テープルに視線を落とした。

 しかし、なかなか実行に踏み切れないでいたとき、正雄さんが肺炎で入院した。そこで、保健所に勤める二十代半ばの医師と出会ったことが、つよ子さんを無理心中の危機から救うことになった。その若い医師は、「痴呆は病気ではなくて、誰もが通る道なのだから決して恥ずかしいことではない」と、つよ子さんを男気づけたのだ

 退院後も、医師は保健婦と交代で毎週訪ねてきては親身になって話を聞き、「介護の悩みを一人で背負い込まずにオープンにした方がいい」と助言した。閉じこもるのはよくないからと、正雄さんを車でデパー トや公園にも連れてゆき、デイサービスや ショートステイの利用ち勧めてくれた。

 「それまで四年間、主人の痴呆症を隠してきたんです。でも、介護の悩みを理解してくれる人がいたおかげて、オープンにしてからは孤立感が薄れました。まるで幼児にもどったような主人には、妻ではなく母親の心で接するのがいいとわかりました。例えば、洗顔の仕方を忘れた主人の前で、こうやるのよ、と根気よくやってみせて、うまくできたら手をたたいてほめます。すると、主人ははにかみながら得意顔になるんですよ。何か不安そうなときは、肩を抱き寄せて、大丈夫よ私がいるから、と語りかけました。子供がなくて、本当の母親としての体験がありませんから、十九歳のときに亡くした私の母の記憶を呼び起こしては、きっとこんな風にしてくれたにちがいないと思い描いて介護したんです。どこま でできたかはわかりませんけれど…」

 つよ子さんは時には苛立つ心を抑えながら、夫のありのままを受け入れられるようになったという。しかし、正雄さんは年々衰えてゆき、九五年三月十七日、肺炎を起こして帰らぬ人となった。

 「救急車で運ぱれてまもなく息をひきとったんです。頭の中が空っぽになりました。お骨を拾ってるときに初めて、ああ、いなくなったんだなあと感じましたね…。別れは悲しいけれど、主人も痴呆症になってから、どうして自分がこうなってしまったのかと、時には悩んでつらかったにちがいなくて、その苦しみからやっと解放されたのかもしれないな、とも思いました。考えてみると、あのはにかんだような笑顔で、主人も私を受け入れてくれてたんでしょうね。愛憎こもごもの介護はつらい体験でしたけど、夫婦の一体感が深まった面もあるように思えて、今度は亡くなった主人が私を支えてくれているような気がします」

 つよ子さんはいま、介護の悩みや苛立ちなどを書き込むことで結果的に心が鎮められた、当時の日記を読み返しながら清書しているという。それが夫婦の歴史の一部であるからだ。アルパムのなかで、晩年の正雄さんは頬を薄く染めて微笑みながら、あるいは遠くを見るような目をして、写っ ていた。

 厚生省の推計では、痴呆症の老人は九五年の時点で百二十五万人おり、二OO五年には百八十八万人、二○一五年には二百六十二万人に増える見込みである。

(夫婦が死と向かい合うとき・・・吉田敏浩より) 

(参考文献:平成10年4月号 文芸春秋 P334〜341)

 

私の感想

 まさにヒューマン・ドキュメントですね。このドキュメントを読んで頂ければ、痴呆症ではどんな介護方法が望ましいかは一目瞭然ですね。決して隠さずに福祉行政・医療機関にご相談ください。

 

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