おそらくは、それに気づいたものは、一人とていまい。街はすっかりと寝静まっていたし、当直兵やいわゆる『よくない』店の店子など、よしんば起きているものがいたところで、それはすっかりと気配を絶ったまま、ごく静かに目的の"それ"を探していたからだ。魔法という、一般の生活からはかけ離れた力に敏感な妖精たちや、あるいはその力を極めた者――例えば、先の大戦で生き残った七勇将の一人、大導師エルデグランド――であれば、なにか違和感を憶えるくらいのことはあったかもしれない。だが――残念なことに、ここヴァンには、楽しげに舞うフェアリーも、歴史に名を残すような術師もおらぬ。
 それは、街の上空を漂いながら、なにか、残り香でも追うように、ゆっくり、ねっとりと移動していた。そう――なにかを、追っているのは、間違いがなかった。時折、まるでヒトが立ち止まるかのように、一カ所にしばらくとどまり、その"気配"を、求めるそれの残存思念とでもいうものをさぐったあと、再びある方向に動き出す――それがなにか目的を持ち、それのために活動していることは目に見えて――いや、それは、目には映らぬが――明らかであった。
 それは、次第にあるところへ忍び寄る。あたりを探りながら、一歩ずつ、一歩ずつ――確実に、目的に向かって進んでいく。
 そう――見たことのある通り、酒場、食堂、八百屋――それは、もう、いつもの通りまでたどり着いていたのだ。そして、その石畳にそって、それは、若干速度を増し、今やもう確信を持って近づいてゆく。
 もうそれは、目指す目的のすぐ上空まで来ていた。そこから石造りの屋根を、――いや、それさえまるでそこにはなにもないかのように見透かして、部屋の中の様子を窺う。
 「――――!!」
 異様な雰囲気を感じ取り、がばっとアルフェルムは飛び起きて枕元の小剣をつかみ、鞘を走らせた。
 室内は、彼らが床についた時と同じく、静寂に包まれたままである。そこに誰かいる気配があるわけでもなく、机も、その上の水差しも、全く元通りのまま、彼らがベッドに入ったときにあった場所にある。荒らされた形跡もないし、むろん窓や、扉が破られているわけでもない。
 ――だが、アルフェルムは依然緊張状態にいた。そこには、なにもない――だが、確かに、同じくらい確かに、"なにかが、いる"のだ。彼のこれまでの、多くの戦いを生き抜いた経験と、戦士としての勘が、それが、よくないものだと――危険だと、告げているのだ。
 「……ン……?――アル……どうしたの……?」
 横にいるあるじを求めて何度かベッドをまさぐったあと、いるべき所にいない彼に気づき、フィムがぼんやりと目を覚ました。彼女は目をこすり、頭を起こし、とりあえずアルフェルムがそこにいることはぼうっとしたままなりにも理解したが、しかし返事が返ってこない彼に、もう一度問いかける。
 「――ねえ、アル――」
 「シッ!!」
 叱咤の声が飛んで、ようやくフィムはなにかただならぬことが起こっているらしいことに気づいて、身を固くする。その間にアルフェルムはベッドを降り、用心深く窓にすり寄ってそこから外の様子を窺う。
 「――あ、アル――!!」
 フィムが不安そうな声を出す。アルフェルムは『そこにいろ』と手で制し、油断なく右手に剣を持ったまま、しばらく窓の外を鋭い目で調べる。
 「…………!!」
 フィムは彼がそうして何が起こっているのかを調べている間、毛布の中で小さくなってうずくまっていたが、ふいに寒気でも感じたか、ぶるぶるっと小さく震えた。
 (……なんだろ……ヤな、カンジ……!!)
 おそらくは、フィムもそれに気づいたのだろう、布団を頭からかぶり、小さく丸まった。その、誰かに、身体の内部まで見透かされるような、嫌悪感――それは、フィムがその日の昼、郊外の家で感じたそれと同じものだったのだ。だが、今のフィムに、それに気づく余裕はなかった。代わりに、彼女はいっそう身体を固くする。その間にアルフェルムは、足音を忍ばせて扉の方へと近づき、その向こうにいるかもしれない実体を探る。
 「…………。」
 アルフェルムは、扉のノブ側の壁に張り付いた。そしてしばらくそこで自らの気配を殺し、外の様子を窺う。と、右手の剣をいつでも振れる位置に構えたまま、彼はゆっくりと左手を伸ばした。そして扉に付けられている、かんぬき式の錠を、音を立てぬよう、ごくゆっくりと引き抜きにかかる。ゆっくり、ゆっくり、1ミムずつ――まるでそこだけ、刻の流れが遅められているとでも云うかのごとく、スローモーションのように、ゆっくりと――彼は、焦る自らの心を抑えつけ、それを横にスライドさせていく。やがてようやく半分を過ぎても、彼はその速度を速めるでもなく――その様子は、それをそばで眺めている者がいたら、さぞかしもどかしげであったに違いない。だが――それでも彼は、それを、全く音の一つさえたてることなく抜き終わった。そしてそのノブに手をかけて、一呼吸置くと――それを、一気に開いた!!
 「――!!」
 ――だが、その外の通路はひっそりと静まりかえっており、そこに彼が想像しているような賊だのといったやからは見あたらなかった。彼はそれでも、その緊張を解くことなく左右を見渡し、いくつかある他の部屋の、内部の気配さえ窺い、そして間違いなく何事もないのを確信してから、ようやく再度部屋に戻って先と同じように扉の錠をかけた。
 「…………。」
 アルフェルムはふうっと息を吐いた。いつのまにやら、――いや、おそらくは彼がそうして緊張の中で扉を開けようとしている間に――彼が感じていた邪気は消え失せていた。もはや、先まで満たされていた室内の息苦しい感覚は跡形もなく消え失せ、そこにはしばらく前までと同じ、ただただ静かで穏やかな、街の夜があるだけであった。
 「…………。」
 彼は窓際に歩み寄り、先に投げ捨てた鞘を拾い上げて剣をそこに納めると、窓の錠を外し、それを左右に押し広げた。冷たい春先の空気が、先までの重苦しいそれと入れ替わりに室内に流れ込む。月は上空で冷たく光り輝いており、それはいつもの姿と寸分違わず同じであった。今となっては、ほんの一瞬前にそのような異様な感覚があったなどとはとても信じられぬほど街はひっそりとしていて、静寂と平穏とに包まれていた。
 「……ア、アル……?」
 フィムが布団から顔を出し、不安げに尋ねる。アルフェルムは彼女を安心させるかのようにそちらを向き、穏やかに笑った。
 「――すまんな。何か、居ると思ったんだが……俺の勘違いだったようだ。」
 「ウウンッ……!!」
 フィムはがばっと布団をはねのけて飛び起き、そしてそのまま床に降りて、彼に飛びついた。
 「とっ……!!」
 そして、彼の存在を確かめるかのように彼の胸に顔をすりつける。アルフェルムは彼女のそんな態度に、しばしの間とはいえど彼女をそうして放っておいたことにやや罪悪感を感じでもしたのだろう、軽めにその身体を抱きしめてやり、その緊張を解いてやる。
 「――ほれ……ベッドに、戻れ。もう、何もないだろう。」
 彼はそう云ってフィムを促した。フィムはアルフェルムの身体から離れ、彼がちゃんとついてくることをちらちらと確認しながらベッドによじ登って、さっきまで自分がいたところに身体を横たえる。アルフェルムの方は、窓をもう一度きちんと閉めた後、彼女がそうして不安げに何度も振り返るのを見て苦笑いしながら、こちらもベッドに乗ると、手にしていた小剣を再び枕元に置き、もう一度眠りの世界へ戻るべく布団の中に潜り込んだ。
 「……アルぅ……!!」
 すぐにしがみついてくるフィム。だが、アルフェルムはやめろとは云わなかった。一つには、彼女も恐かったのだろうということを彼も気づいていたからである。得体の知れぬ悪寒と恐怖――フィムがもし、彼が感じていたそれと同じものを感じ取ることが出来ていたのなら、それは、彼女にとっては、耐え難い、つらいものであっただろう。そしてそれは、彼女がよく、冒険中に見せる感覚の鋭さでもあったのだ。
 ――そして、もう一つは――
 「…………。」
 アルフェルムは、軽めに彼女の身体を抱きしめてやりながら、考えていた。
 (――なんだったんだ、今のは……。――あんなのは、あまり、感じたことはないが――だが、)
 (だが、とにかく云えることは……相当邪気を含むものであった、ということだ……。)
 「――アル?」
 アルフェルムが黙り込んだままだったので、フィムは違う意味で不安になって、顔を上げた。
 「…ああ、なんだ。」
 「んと……さっきの……。」
 「――やはり、気づいていたのか。」
 「……ン……。」
 フィムはちょっと顔を伏せるようにして応えた。
 「…なんか……なんかね、ヘンな……イヤな、感じだったの……。なんていうか、んと、その――よく、わかんないんだケド、すっごく、ねっとりしてるっていうか……なんか、全部、見られてるみたいっていうか……。」
 「――そうだな。」
 アルフェルムは、彼女の感覚の鋭さに少し驚きの表情を見せながら、そう応えた。
 「……あれは……良くないなにかだ。それが何かは、判らなかったが……だが、とにかく云えるのは、邪なものだった、ということだ……。――俺もこれまでに、ああいう感じのものは…経験したことがなかったな……。」
 「――あたし……どっかで、なんか、感じたコトがある気がする……。」
 「…なに?」
 アルフェルムは、腕の中の小さな天使の言葉に、少し眉をひそめた。
 「んとね…エト、よ、よく――憶えてないんだケド……なんか、同じようなのを、感じたコトがある気がするの……。えとんと、どこだったかな……。」
 その昼過ぎに感じた、違和感と悪寒――だが彼女は、それを思い出すことが出来なかった。無理はない――彼女にとってみれば、それはよく感じる不安と畏れ、この世に自分がいていいのかといういつもさいなまれる感覚とそう変わらない、一つのマイナスのフィーリングに過ぎなかったのだ。確かにその昼のそれは、かなり強い邪気ではあったけれど――だが、そういうのは、彼女がこれまでそうして感じてきたものと、本質的にはさほど変わりなかったのだから。
 「…………。」
 「――ゴメン……よく、憶えてない……。」
 フィムは申し訳なさそうに云った。
 「…まあ、そういうこともあるさ…。――とにかく、今のところ、すぐにどうこう、というわけでもなさそうだ…。…俺はもうしばらく起きて、様子を見てみるが…お前は、もう眠っていいぞ。」
 「…でも……あたしだけ、寝ちゃうのも……。」
 「いつものことだろうが。」
 アルフェルムは、おかしそうに噴きだした。
 「――そんなコト、ないもんっ……!!」
 「そう云ってお前はいつも先に眠ってしまうだろうが。」
 「…でも、だケドっ……!!」
 「いいから、寝ろ。」
 アルフェルムはまだ笑いながら、彼女の身体を、彼女を安心させるために抱きしめた。フィムはまだなにがしか、云うことはあったに違いないが、そうしてアルフェルムに包み込まれてしまうと、そんなことはどうでもよくなってしまったとみえて、黙って彼に抱きついた。
 「――アル……。」
 フィムの身体からふっと力が抜ける。ようするに、たとえ世界が滅亡するその瞬間にあってさえ、こうして彼の腕の中にさえいれば大丈夫――そんな、アルフェルムに対する絶対的な信頼が、彼女の中にはあったのだ。そして、これまでの間、それは確かに彼女にとって真実だった。いつでも、どんなときでも、それがどれほど窮地であっても、彼は、いつでも、彼女をそうして大きく包み込んで、護ってくれたのだ。そう、フォードやセプター、ヴェリアスからはぐれて迷宮の奥深くに二人だけで閉じこめられてしまったときも、得体の知れぬ、剣の通じぬアストラル体に取り囲まれ、絶体絶命であったときも、――そして――
 (『くそったれッ――――!!』)
 (『アルフェルム〜〜〜〜ッ……!!』)
 (『――がァァァッ……!!』)
 (『アルッ!?アルッ、アルぅぅッ……!!しっかりしてっ、アルゥゥッ……!!』)
 (『馬鹿野郎ッ!!てめェさえ、てめェさえいなけりゃッ……アルフェルムが、こんなケガするこたァなかったんだッ……この、くそガキッ……!!』)
 (『だって、だってぇっ……!!』)
 (『……よせ……ヴェリアス……フィムは……、悪く…ない……俺が、油断…し……のが、悪かったん……。』)
 あの、遺跡の中での、一連の出来事――
 彼が、彼女に飛びつき、その大きな背中で、鮮血を辺りに飛び散らせながらボーンゴーレムの刃をうけとめ、彼女を護った、その瞬間――
 いつだって、彼は、そうして彼女を、あらゆるものから護ってきてくれたのだ。

 「…………!!」
 そしてフィムは、その時のことを思い出し、少し目元を潤ませた。自分の不注意のために、愛する人を傷つけたこと――何度も云うが、実際にはそうではなかった。だが、彼女は自分の責任だと、…彼を傷つけたのは、自分が悪いのだと、頑として譲らず、そしてそのことが話題としてのぼるたびに、彼女は瞳を濡らすこととなり、アルフェルムは彼女をなだめるのに頭を悩ませる結果になるのだった――それが、彼女を、幾度となくさいなませてきた。その事件の後しばらくは、彼女は同じシーンを毎晩何度も夢に見てうなされたのだ。しかもその物語の中では、彼女の想い人は、なんとか街へ戻る代わりにその場で絶命する…という、最悪のシナリオをたどり、だから夜中に何度も彼女は『ハアッ、ハアッ、アルっ…ああ、アル、アル…ぐすっ、死んじゃ…ダメぇ……!!』などと大きな声で叫んでアルフェルムを叩き起こす、ということが珍しくなかった。今でこそそんなふうに悪夢(ナイトメア)に悩まされることはなくなったものの、それでもまだそれは彼女の心の中では少なくない場所を占めているとみえる。
 「…………?」
 さすがというか、アルフェルムは、そんな腕の中での、小さな天使の微妙な変化にめざとく気づいたようだった。
 「――どうした?」
 「…………。」
 フィムは、なにも答えないで、ただ小さく首を横に振っただけだった。そして彼女はアルフェルムのシャツをぎゅっと握る。
 「…………?」
 アルフェルムは不審に思ったようだったが、なんでもないのならと、彼女をそのままにしておくことにしたようだった。そしてこれは結果として正しい選択になった。フィムは、しばらくは身体を固くしたままであったが、アルフェルムが気づいたときにはもう、彼女の手から力は抜けていて、いつものように規則正しく肩と翼を上下させながら寝息を立てていたのだった。
 「…………。」
 アルフェルムはそんなフィムの様子を見て、かすかに笑った。そしてこちらも大きく一つ深呼吸をした。先のおかしな感覚も、もうこれ以上は襲ってはこないようであった。依然、彼の心の中には(いったいあれは、なんだったのだろう)という疑問は残っていたのだが、そのことについて考えてみても答えが出るわけでなし、彼の方ももう一度寝ると決め込んでしまったようで、彼の方も、それから十数ロスもすると、静かな呼吸音をたてていた。
 そして、すべては元に戻る――。
 ――いや――
 そうでは、なかった。
 (――みつけたぞ)
 闇の中で、ひとりごちる者がいた。
 時間は、ややさかのぼる。
 彼は、先ほどからずっと、ある術に集中していた。集中力を高めるため、持ってきていた燭台の火は消されており、部屋を照らし出す明かりは今はない。いや、正確には、なくはない。彼の目の前に置かれている、直径四〇セムはあろうかという大きな水晶球――遠視の媒体として用いられるそれが、魔法力の作用を受け、青白くぼんやりと光っている。だがその光はあまりに弱く、彼の姿を、ましてや部屋全体を浮かび上がらせることはできはせぬ。
 だが――それよりも、注目すべきは、その水晶球に映し出された内容であった。
 そこに映る、特徴のある人物――
 白い翼が幻想的に背後で揺れる、金の髪の少女――
 それは、まぎれもなく、フィムだったのだ。
 視点は、彼女とアルフェルムが横たわるベッドの真上に位置していた。そう――それは空中に浮かびながら眼下の獲物を狙う猛禽類であるかのように宙の一点にとどまり、そして彼の目の前には、その見下ろされる視点に映し出されている彼らの姿があったのだ。
 しばらく前に、『視点の力場』とでもいうものを作り出した彼は、それを空に放ち、そして特殊な方法――通常、学問的には、あるいは一般的レベルの魔術師たちでは知り得ぬであろう特別な方法でもって、フィムの残留思念、あるいは残り香――とでもいったものを追ったのだ。
 そして、彼はいよいよ強まるその思念を感知し、ついには彼らがとどまる宿を突き止めた。彼は視点を宿の外から、一点、はっきりと周囲より強いフィムの意識を感じる部分に移動させる。それは、あたかもそこにはなにもない――とでもいったように、屋根を、天井を突き抜け、そして彼らの――アルフェルムとフィムが、安らかに眠りについているその部屋に侵入したのである。
 (…………?)
 と、彼はいつのまにやらフィムが起き出しており、それと同時に、今まで映っていたアルフェルムの姿が水晶球から消え去っていることに気づいた。彼は視点をコントロールし、室内を探る。そしてそれは、窓際にいた彼をとらえた。水晶球の中の彼は、剣を手にし、油断なく気を配りながら窓の外の気配を探る。と、今度は扉の方へと滑るように移動し、そこから室外の様子を窺う。
 (……気づいた……?)
 彼は小さな印を胸の前で切った。ヴ…とその景色が揺れたかと思うと、次の瞬間、それはフッと消え去った。同時に、水晶球から発されていた青白い光も消える。彼のいた室内は文字通り、漆黒の闇に包まれる。
 (――あれに、気づくか。こちらも、特に隠蔽のための術はほどこしていなかったとはいえ…あれに、気づくか。)
 (あの、男……手練れ、だな……。注意は、したほうがよさそうだ……。)
 (――しかし――)
 (――みつけたぞ。)
 暗闇の中、声もなくたたずむ彼の瞼には、ふたたびフィムの姿が映っていたであろう。昼間、偶然から見かけた彼女の姿――角度によってはオレンジの混じる金の髪、くりくりとよく動く青い目、人形のような顔立ち、――そしてなにより印象的な、神話の世界を彷彿とさせる白い翼――。
 彼は、暗闇の中、手探りで机の上を探り、そしてマッチを手にすると、シュッと一本に火を着けた。それを燭台の上の蝋燭に移す。蝋の焦げる独特の臭いが鼻に届き、ゆらゆらと揺れ動く小さな炎が、狭い室内と、そして彼の姿とを映し出す。
 その、薄暗い、赤い光に映し出された、男の姿――
 それは、昼間、フィムが郊外の屋敷を見に行ったときに、窓の脇にたたずみ、彼女の行動をじっと観察していた男だったのだ。まるでエルフのような顔だち、線の細さ――それらは、まぎれもなく彼がその時の彼と同一人物であることを窺わせる。
 ああ――だがしかし、そうであるにもかかわらず、今の彼の、なんと、あの時の彼と違っていたことだろう!!
 何が違うのか――と問われれば、それに、即答することは出来なかったかもしれない。面長の顔、切れ長の目、まるで女性のように赤い、薄いくちびる――容姿に、とりたてて妙なところはない。
 だが――彼が今見せるその雰囲気は、かつて彼がフィムを諦観していたときのそれとは、全く異なるものであった。そう、表面上、彼の姿形からは、あの時と異なるものはまったく見いだせない――しかし、今彼がまとうそれ――その、身体から発する気というか、オーラとでも云うべきものは、昼間のものとは全く異質であったのだ。もしそのような気を像として映し出せる双眸を備えていたならば、闇色の炎が彼の身体からたちのぼるのを目にすることが出来ていたかもしれない。
 だが――いずれにせよ、それを知る者はおらぬ。
 彼は、つい、と立ち上がり、燭台を手に持った。
 (――あちらの方も、やや急がなければならないけれど――)
 (『飛翼族』)
 (――必ず、手に、入れる――。)
 彼は、扉を開けて、静かに部屋を出ていった。



 その、人々、――あるいはそうでない者たちの、それぞれの思いや、営みが、どうであれ――
 ときは刻み続けられ、そして朝が訪れる。
 この、たった数ガロスの一晩にさえ、多くの出来事があったのであろう。それを知る者、知らぬ者――ひとに知られてはならぬ行いを、ひっそりと、あるいはどうどうと行っていた者――
 だが、それでも、朝は必ず訪れる。
 ――そしてそれは、彼女にとっては、つらい時間の始まりであったのに違いない。
 「むゥ……。」
 フィムが、ふと気づいてそのねぼけまなこを持ち上げた時、アルフェルムは既に目を覚ましていた。彼は、いつものように、半時ほど前に目覚めて、そして残り少ない朝のひとときを、窓の外を眺めつつ、傍らの天使の髪を撫でてやりながら楽しんでいたのだ。
 「――起きたか。」
 「……もう……朝なんだ……。」
 「ああ。まだ、外は暗いがな。」
 「……起きたくないよゥ……。」
 フィムはぎゅっとアルフェルムにしがみついてくる。アルフェルムには、フィムの気持ちは痛いほどよく解っていたに違いない。だが、そういうわけにはゆかぬ。仕事は仕事――それを、放り出すことは許されぬ。そしてそれは、早く取りかかろうが遅く取りかかろうが、きっちり一五ガロス――あるいは、それ以上――かかる。あと一ガロスもすれば、鳥たちの騒がしいさえずりが始まる。そうなってから出たのでは、帰りが遅くなってしまう。
 「……起きよう、フィム。」
 「ええっ……!?…もう少しだけ、こうしてたい……!!」
 フィムは予想通り、だだをこねて顔を彼の胸に埋めた。
 「そう云うな。俺だって、出来るものならもう少し眠っていたんだ。」
 「…………。」
 「…それに、出発が遅れれば遅れるほど、帰りも遅くなるんだぞ。今夜、一人で寝たくはないだろう?」
 「……むゥッ……!!」
 「さあ、フィム。」
 その『帰りが遅くなる』という一言に説得されて、フィムはしぶしぶ彼の身体を離した。彼は身体を起こしてベッドから降り、一つ大きな伸びをしてたんすまで移動するとそれを開け、冒険用の、生地の厚い上着を手に取り、それに腕を通す。
 「…ホントに、行っちゃうんだ……。」
 フィムはまだ横たわって枕に抱きついたまま、目をこすりこすり、呟いた。
 「――なに?」
 「……なんでも、ないっ……。」
 「…眠たければ、もう少し寝ていろ。まだ日が昇るまでは一ガロスやそこらあるだろう。無理に一緒に起きる必要はない。」
 「…ううん、起きる……。――見送りたいもん……。」
 それで、彼女もごそごそと起き出して、シャツに着替え始める。
 アルフェルムがすべての準備を終え、つまりすべての鎧を身につけ、マントをはおり、食料だの薬だのを入れた鞄を手にし、そして愛用のバスタード・ソードを腰に吊して外へ出たとき、あたりは依然まだ真っ暗で、ようやく東の空が白みかけている、というくらいであった。通りもまだ静かで、起き出している者はほとんどいない。彼のパーツ・アーマーが触れ合ってガシャガシャとたてる音が、静かな通りにやけに大きく響き渡る。
 「――アル……。」
 普段着に着替えたフィムは、宿の入り口前で、アルフェルムを見上げた。
 「……なんだ。」
 「…………。」
 フィムは、しかし、黙ったまま、うつむいてしまった。
 アルフェルムは黙ったまま、彼女をみつめる。――彼とて、彼女のものうい様子を解っていたには違いない。たった一日とはいえ、彼と別れて過ごさねばならぬ今日という日が、彼女にとってどれほど辛いものか――それが、解っているから、彼はリスクを背負ってでも、彼女を一緒に連れて行くことにしたのであるから。
 ――それに――
 (昨夜の、あの邪気――)
 それが、ずっと、彼を煩悶させていたにもまた、違いないのだ。
 アルフェルムとて、出来れば、あんなことのあとで、彼女を一人で放っておきたくはない。だが――今更、この仕事を断るわけにはゆかぬ。いくらボーンや他の幹部たちと懇意だからとはいっても、そこへ私情をはさんで勝手を云うことは許されぬのだ。
 「ちゃんと、おとなしくして、待っていろよ。」
 「…………。」

 「…それと今日は、絶対に一人で街へ出るな。部屋の中にずっといるのは退屈だとは思うが……一日だけの辛抱なのだから、我慢していろ。…まあ、お前が襲われたりすることはないと思うが……昨夜のこともあるし、用心するにこしたことは――」
 「――アルっ!!」
 今度は、彼女は、大きな声で叫んで、アルフェルムを遮った。――はげしくしばたたかれるまぶたと小刻みに震えるくちびる――そんな様子から、おそらくは、アルフェルムの言葉など耳に入っていなかったと思われた。
 「…だから、なんだというのに。」
 「――ぜったいぜったいっ、ちゃんと、帰ってきてねっ……!!」
 「…当たり前だ。帰ってこないわけが――」
 「あたし……あたし、アルと別れたくないよッ……!!」
 「…………。」
 「イヤだよっ、ぜったいにッ……帰ってきてくれなきゃっ……!!」
 「――心配するな。」
 アルフェルムは、瞳を潤ませて彼を見上げるフィムの頭を優しく撫でた。
 「…なるべく、早く帰るようにする。――約束する。」
 「ぜったいだからねっ……遅くなったら、許さないんだからッ……!!」
 叫ぶように云って、フィムは思わず彼の首に飛びついて、その頬にキスをした。アルフェルムはなだめるように彼女の背中を二度、三度叩くと、彼女を地面の上に降ろした。
 「気をつけてねっ……!!」
 「ああ。」
 アルフェルムは、もう一度彼女の頭を撫でて、そして彼自身の後顧の憂いを振り切り、ギルドに向かって歩き出した。
 フィムは、そんな愛する人の背中を、いつまでも見送り続けていた。



 アルフェルムは、ギルドへとその足を急がせた。
 彼らは、一旦ギルドへ集まることになっていた。そしてそこから、既に準備されている手はずとなっている馬を駆り、北西の、目的の山、俗に南アルカトと呼ばれる一連の山々へと向かう。距離にして約40キム――馬をやや速めに歩かせて、約五ガロス程度の距離である。
 南アルカトとは、ヴァンとバルザを結ぶ街道の北西に位置する山脈の、南へと張り出している部分の俗称である。その山々はヴァンの北およそ180キムほどのところで北東へ伸びる北アルカトと北西へ伸びる西アルカトに分かれ、結果としてYの字を描くような山脈群を形成している。
 今回の仕事は、その山の中で幾つかの薬草を採取し持ち帰ってくることである。依頼者は街の中のとある学院である。仕事内容それ自体はよくあるもので、アルフェルム自身、以前にほぼ同じ内容の仕事をこなしたことがあり、勝手は知っている。そういった意味では、難易度の低い、簡単な仕事であるといえよう。――とはいうものの、油断することは出来ぬ。賊だの魔物だのに襲われる危険性はどんな仕事にも等しく存在するわけであるし、こういう稼業は、その内容がどんなであれ、生命を落とすことを常に考えていなければならない。それは、アルフェルムが述べたとおりである。
 彼は、ほぼ真っ暗な通りをギルドへ向かって歩いていく。ところどころ、ぽつぽつと灯りのともる家もある。それらは朝早くから起きて仕事をせねばならぬパン屋だのなんだのといった者たちである。そんな灯りに鎧を鈍くきらめかせ、彼は大股にギルドへ向かう。
 彼がギルドへ到着したとき、入り口を護る金属製の頑丈な雨戸は半開きになっていて、中から灯りが漏れていた。アルフェルムは内側の両開き扉を押し開けて中へ入る。
 「――おっ、きなすった。」
 「よう、アル公。ちゃんと目は覚めてるか?」
 「…早いな、フォード、セプター。もう来とったのか。」
 机の上にランプを置き、椅子に腰掛けてなにやら飲み物――色から判断するに、ジュースの類であろう――を飲んでいた二人組は、フォードとセプターの両名であった。…今日のクエストに、ヴェリアスは入らぬ。特に理由があるわけではなく、たまたまこの話が入ったときにその場に彼女が居合わせなかっただけの話であるが、とにかくこの三人がパーティを組むこととなる。
 「今日はなんだか朝早くに目がさめちまってよ。それで――」
 「――それで、俺も被害を被って叩き起こされたってわけだ。」
 セプターが苦笑して云う。
 「…叩き起こされた、ってな響きが悪いな。やさしくモーニングコールしてやったじゃねぇか。」
 「枕で人の頭をどついておいて、何が優しくだ
 「――アルフェルム。」
 フォードとセプターが横でこっけいなやりとりを始めたときに、アルフェルムの背後から声がかけられた。いつの間にかカウンターに出てきていたボーンであった。
 「ああ。」
 「今回は、おめェらにこういう仕事を頼むことになっちまって、悪かったな。」
 「――別に、それは構わんが。」
 『ヴァンの切り札』と称される彼らとて、毎回毎回死と隣り合わせの仕事をばかり引き受けるわけではない。時にはこのような雑務を請け負うこともある。それは時には他に適当な者がいないからであったり、あるいは至極単純に明日食う金が無くなったからであったりするのだが、いずれにせよ、このような『誰でも出来る仕事』に彼らを割りあてるということは、彼らの技量を考えれば、いささか勿体ないことであると云わねばならぬ。
 「おめェには以前にも行ってもらったから、特に問題はないだろう。道中と山ン中さえ気を付ければ、モノを見つけるのには苦労しねェ筈だ。」
 「ああ。群生地を見つけているから、大丈夫だろう。遅くなるとは思うが、日帰りで戻る予定だ。アール、…いや、ランザックの三あたりまで開けておいてくれると助かる。それより遅くなるようなら、報告とモノの手渡しを明日にする。」
 「いつも誰かしら飲んだくれてるヤツがいるからな、ランザックの四や五までは開いとるさ。」
 ボーンは歯をむき出して笑った。
 「…よう。それじゃこれ以上ここでこうしてだべってたってしょうがねぇし、そろそろ出ねぇか?」
 フォードが残っていたグラスを開け、立ち上がった。セプターも同様に椅子を引く。ガシャ、という金属音が室内に大きく響いた。
 「そうだな。」
 三人は奥の扉を順にくぐっていく。三人のまとう鎧の金属パーツがガシャガシャという騒々しい音をたてる。そうは云うものの、今日はフォードもセプターも割と軽装だ。ソフトレザー製の上着、ズボン、スカートといった上から、小さめで重量も軽いショルダー、チェスト、ヴァンブレイス、ロインガードあたりを適宜選んで身につけている程度である。フォードの方はそれに加えて、いつものように、頭に巻いたベルトにダガーを挿し、その刀身が右の頬を護るような位置に着け、セプターは直径約五十セム程度の小さくて軽いラウンドシールドを左腕に装備している。もちろんそれら一式に加えて武器、フォードの方はショートソードを背と右腰に軽二本、セプターの方はロングソードを腰に着けていたが、そういったえものと、それら以外にマント、毛布やランプを初めとする野営道具、携帯食、ダガーや幾つかの薬などを、そしてフォードは開錠・罠外しのためのいわゆるシーヴズ・キットを携行してきている。アルフェルムの装備も似たようなものではあるが、こちらは二人に比べて各パーツが一回り大きく、重量も重い。武器も、セプターの持つロングソードよりさらに一回り長いバスタードソードを帯剣している。代わりに、彼はシールドを持たぬ。刀身一メム以上になるバスタードソードを振り回すには、シールドはかえって邪魔になることが多いからだ。また、重量の問題もあるだろう。頑丈で大きなものになれば、それ一枚だけで十キオラにもなるシールドもあるのである。敵の攻撃を受け止めるだけでへばってしまったのでは戦いになどなりはしない。――もっとも彼の場合、総重量二〇キオラ以上はあるかという部分鎧を身につけたまま、その長く重いバスタードソードを棒きれのように振り回して敵をなぎ倒すのだから、それにシールドの一枚や二枚分の重さが加わったところで、大したことはなかったかもしれないが、とにかく彼は通常楯を持たない。代わりに左のヴァンブレイスを、右のそれよりやや大きく、頑丈に、そして形も翼状の突起物を持つように加工してあり、それをシールド代わりに使っている。ただしこれは受け止めるというよりは、敵の攻撃を受け流す(パリィ)ためのものであり、いわばラウンドシールドを手首にくくりつけているようなものである。もっとも、通常のラウンドシールドよりも一回り小さく、かつ直接腕に装備されているために自由度が制限されるそれは、使いこなすことはかなり難しい防具であるといえよう。技量のある彼ならではの選択肢である。
 彼らは通路を通り、練習場へ出た。この練習場の一角に厩があり、そこで遠出用の馬を何頭か世話しているのだ。基本的にはそれはギルドの資産であるから冒険者にそれらを貸し出すようなことはないが、今回はそれらを借りて出ていく手はずになっている。
 「――よう。誰か足りねぇと思ってたがよ、そう云えば今日は嬢ちゃんの姿が見えねぇじゃねぇか。どうしたよ?」
 厩へ向かう途中でフォードがアルフェルムの横に並んで彼に話しかけた。
 「フィムは、今日は宿で留守番だ。日帰りなのだし、行軍がきつくなりそうだったから、置いてくることにした。」
 「なんでぇ、来ねぇのか。ちぇっ…嬢ちゃんがいねぇと、張り合いが出ねぇな。」
 フォードが心底がっかりした様子で呟くので、アルフェルムは苦笑いして云った。
 「…なんだ、フィムのために働くわけでもなかろうに。」
 「このパーティの時は主に嬢ちゃんのためでぃ。」
 「いいのか?そんなことを云って。…酒場の女性にぞっこんだと聞いていたが?」
 「おおっとぅ…痛いところ突かれっちまったねこりゃ
 「ふられたんだよな。」
 セプターが後ろからぼそっと呟いた。
 「云うなってのに
 「ふられたのか。」
 「ああ、ああ、ものの見事に玉砕だったさっ。まぁったくっ…オレ様の魅力が解らねぇとはな。」
 フォードがやけになったように叫ぶのを見て、アルフェルムとセプターが笑う。
 そんな話をしながら彼らは練習場を建物に沿って進み、厩に着いた。開け放たれていた扉をくぐり抜けて中にはいると、薄暗い中、藁と飼料の、独特の匂いが鼻を突く。
 「おはよう。」
 厩舎の中に響くブーツの音に気づいて、すでに起きだし、馬の世話を行っていたギルドの一員が彼らに声をかけた。
 「おはよう。」
 「よう。朝早くからごくろうなこったな。」
 「なぁに…あんたらの仕事に比べれば、コイツらの世話なんざ、屁ほどのもんでもないさ。」
 彼がぱんぱんと一頭の馬の首筋を叩くと、馬の方も彼の云いたいことを解っているのだろう、ブルルル、と鼻を鳴らした。彼はこのヴァンのギルドで何年も馬の世話をしているのだ。そして、こうして世話をしている馬たちは、彼がずっと面倒を見てきた相手である。彼にとって世話をするということは、仕事というより毎日の楽しみ、家族との語らいのようなものなのであった。
 「今日は誰を借りていけばいいんだ?重たいアルフェルムには、やっぱり、『走る鋼鉄』インプレス号か?」
 セプターが笑いながら、厩の奥を覗き込んだ。
 「まあ、アイツ以外にアルフェルムを乗せられるヤツぁいねぇだろうよ。――丁度いいじゃねぇか、似たもの同士、どっちもガンコでカタブツと来てらぁ。」
 「ガンコでカタブツは余計だ、フォード。…それで?」
 アルフェルムがややムッとした顔で話を元に戻す。
 「そうだな、あんたにゃどのみちインプレス以外の選択肢はないだろう。おまえさんらは――と、彼はフォードとセプターの装備を吟味するように彼らを交互に頭の先から足の先まで見て、馬の方を向き直った。
 「それくらいの装備なら…セナと、キンドリーがいいだろう。調子もいい。」
 彼は何頭かいる愛馬たちを一通り見てそう云った。両馬とも、フォードもセプターもなんどか乗ったことのある馬である。大型馬の中では平均的な大きさで、共に気性もおとなしく、扱いやすいタイプである。一方でインプレスの方は、その肩書きが示すとおり、このヴァンのギルドが保持している馬の中でもっとも大型の馬である。他の馬たちと比べて一回り、へたをすれば二回りも大きな、骨太でがっしりとした身体は、フル装備のアルフェルムを乗せてもびくともせず、背に何も乗せていない時とまったく変わらぬ風に戦場を縦横無尽に走ることが出来る。ただし、こちらはやや性格に難ありで、自分が認めた者以外は絶対に乗せようとはせず、もし無理矢理にでも乗せようものなら最後、火でもついたように大暴れし、騎乗者がぶざまに振り落とされ腰をしたたかに打ち付けるまで暴れ続ける悍馬であった。かつてとある流れの豪腕剣士がこのギルドへ寄った時、ちょっとしたいさかいからギルド員の制止を振り切って無理にインプレス号を駆ろうとし、飛び乗ったはよいがそのまま振り落とされて医者送りになったのはここヴァンのギルドでは有名な話で、だからこのギルドで彼に乗れる者はアルフェルムを含めてもほんの数名しかいないのだ。かつてフォードが『ガンコな鋼鉄』と呼んだのも無理はない話であった。
 「あいつらならこちらも楽でいい。借りていくよ。」

 彼らはそれでおのおの与えられた馬に荷物をくくりつける。もっとも今回は日帰りを見込んでいるから、念のために野営道具は持ってきているとはいえ、その量はいつもに比べればやや少ない。ついで、フォードが、そしてセプターが、鐙に足をかけて騎乗した。
 「頼むぞ、インプレス。」
 そしてアルフェルムはインプレスの首筋を軽く叩いて話しかけた。インプレスの方はそれでとりたてて何かの感銘をうけた、というようなことはなかったようであったが、そうやっておとなしくしていること自体が、騎手に対しての静かなる返事と云えなくもなかったかもしれない。とにかく、アルフェルムも横に回り込んで、おおきくごついブーツを鐙にかけ、そして一気に巨体とその重い鎧とを持ち上げて、インプレスの背にまたがった。そうして彼が騎上の人となってもやはりびくともせぬあたりは、確かにこの馬は彼にぴったりであったのだといえよう。
 「あんたらならおおごとはないと思うが…気をつけてな。ラーズの幸運を。」
 世話係の言葉とラーズの印に手で軽く返事をして、彼らは厩を離れた。そして彼らは訓練場の壁に何ヶ所か備え付けられている、荷物搬入や出入りに使われる大扉の一つを、その近くにいた別のギルド員に開けてもらい、そこから通りへと出た。
 「さて…ここからは、ひたすら山に向かって進軍、ですか。」
 「そうだな。退屈ではあるが…『退屈でない』のも、困りものだしな。」
 彼らは蹄の音を通りに響かせながら、街の外れを目指す。通りに沿って街の外まで出たら、あとは道なき道を目的地へ向かって進むだけである。そろそろ東の空は白み始め、街は少しずつ活動を始めつつある。朝早くから響き渡る三騎の馬の歩む音に何事かとわざわざ外へ出て来る者もおり、中には顔を知った者と二言三言挨拶を交わしながら、彼らは騎を進める。
 彼らがヴァンの外れにたどり着き、少しずつ閑散としてくる外れを突っ切ってそして最後の家の姿が彼らの背後に小さく消えてしまう頃には、もう空はすっかり明るくなっていた。もう半ガロスもすればラーズの戦車(チャリオット)――太陽が昇り、世界を、ヒトならぬものたちの支配するそれから、ヒトの統治するそれへと移す。
 「さて…ここからだな。」
 セプターが誰に話しかけるともなくそう云った。
 「そうだな。」
 フォードが、まじめな表情で応えた。――そう――彼も、解っているのだ。ここから先は、要するに、無法地帯――力のみが支配する、あらゆる人間界の法が否定される世界である。そこに、ニンゲンの常識は通用せぬ。あるのはただ、強い者が生き延び、弱い者が息絶える、そのシンプルなルールだけ――一般の市民であれば理解できぬかもしれぬその外側の世界、その『力と自由のみが支配する領域』へ、アルフェルムたちは足を踏み入れようとしているのである。
 ヴァンから南アルカトまでは、広大な草原地帯が続く。この間には特に大きな街はなく、また開拓されているわけでもないので畑もなければ農業を営む者たちの家もない。文字通り、ひろびろとした草原が続くのみである。それを開拓すればこの周辺ももっと賑わうのであろうが、しかし外領域に対してヒトの支配する領域を広げるのはなかなか簡単なことではない。そこには様々なファクターが存在する――ヒト以外の種族との勢力圏争い、未知なるものたちとの遭遇の確率、むろんヒトとヒトとの争いとて例外ではない。そう――同種族であるヒトとヒトとの間でも、この時代では、こまごまとした争いは存在し、そして同じ種族であるにもかかわらず、くだらないいざこざから、国家単位の戦争へと発展する場合は、残念ながら、少なくなかったのである。
 しかし、とにかく――
 彼らは、その目的に向かって、ヴァンを抜け、その一歩を踏み出したのであった。



 「――はあっ。」
 フィムは、大きなため息をついた。
 彼女は、アルフェルムを見送ると早くに起きはしたものの、まだ外も暗い朝のこと、そんな時間では他にすることもなく、また起きているとなんだか悲しくなってきそうだったので、がっくりと肩を落として部屋に戻ったあとは半分ふてくされながらまたもそもそとベッドの中へ戻ったのだ。
 そしてその一人ではどうしようもないくらい広いベッドの中で、心細さに押しつぶされそうになりながらそれでもどうにか眠りにつき、しかしやはり隣にアルフェルムがいない違和感に何度も何度も眠りを妨げられながら、ようやく明るくなった外の光で起き出すことにしたのは、シューヴァ六の鐘が響き渡ったときだった。
 そして、ぼさぼさになってしまった髪も、そのままベッドに潜り込んだのでしわになってしまったシャツにも構わず、――ただ、少し寒かったので薄い長袖の上着だけ羽織って、階下へ降り、パンをひときれとサラダを少しといういつもにもまして少ない朝食をとって部屋に戻り、窓際に座って、ひじを窓枠につき、顔をその手に乗せてぼうっと通りを眺めていたところだったのである。
 「――はあっ。」
 再び彼女は、通りにも聞こえるかというくらい大きなため息をついた。
 アルフェルムのいない部屋はいやに広く感じられ、まるで素肌を人前にさらしているかのような心細さを彼女に与えた。もちろん、たまたまフィムだけが部屋にいてアルフェルムは出かけているというようなことはよくあったのだが、それはあくまでも彼が『街のどこかにはいる』場合のことである。そうやって通りを眺めて待っているうちに彼の姿が視界に入ることはよくあったし、だから普通、そんな風に感じたことはなかったのだ。
 だけれど、今日は、彼は、夜遅くまで帰ってこないのである。そうして待っていても――いくら待ちわびても、彼が現れることはけしてないのだ。
 「つれてって、欲しかったな…。」
 ぼそっ、とフィムは呟いた。
 思えば、昨日はそのことが発端となってケンカとなったのであった。そして、街外れで少しばかり恐い思いをし、それで戻ってみればまたアルフェルムに叱られ――だけれど、結果としては、昨夜は無愛想なアルフェルムが珍しく少しばかり優しかったし、だから、普通なら今日はまた、いつも通りの楽しくて幸せな一日になるはずだったのだ。
 しかし、そういう時に限って、このようなすれ違いが起こるものである。愛する家族と、恋人と――シールの紡ぎ出す運命のタペストリというものは、かくも皮肉な模様を描き出すものなのか――心はこんなにも近くにあるのに、身体は離ればなれ、あるいはまたその逆――そして、それが当事者たちの人生を変えてしまうことも、しばしばである。
 「…おでかけ、してこようかな…。」
 フィムは、どこまでも蒼い空を見上げて、少しばかり恨めしそうに云った。
 外は今日もよい天気である。昨日と比べるとやや肌寒い感はあるが、それは時間が早いせいもあっただろう。もう一、二ガロスもすれば、昨日同様、暖かくなってきて、フィムが云うところの『おでかけ日和』になるであろう。
 だが、一つだけ、ひっかかることがあった。
 (今日は、絶対に一人で街へ出るな)
 激していた彼女であったが、その言葉は、一応は、彼女の意識に刻み込まれていたのだ。もっとも、そうでなくても、彼女は昨日メリスから人さらい事件の話を聞いていたわけであったから、彼女にとって絶対の守護神であるアルフェルムなしに一人でひょっこり出かけてしまうのは、そのアルフェルムの注意を聞いていなかったとしてもはばかられたであろう。
 「…………。」
 フィムはしばし考え込むかのように目を空から目の前の通りへ落とした。数名の子供たちが子犬を追いかけて走っていく姿が彼女の目に入る。
 「――やっぱし、行ってこよっ。」
 フィムはすっくと立ち上がった。ああは云われたものの、あるいは事件のことはあるものの、こんな天気の良い日にずっとこもっていることなど所詮フィムには出来はしないのであった。彼女はシャツと上着の裾を引っ張ってしわを伸ばし、襟を正し、ぐるっと部屋を見渡すと、あとはもう春の陽気に誘われるようにして、部屋を飛び出していった。



 ヴァンの街中は、今日も活気づいているようであった。
 フィムは、特にこれといった行き先はなかったので、とりあえず中央の方へと向かった。いつもよく行く、噴水のある広場――そのあたりは、周囲に店が立ち並ぶ商店街であり、人通りも多い。そちらへ向かって歩いていけば、たちまち、威勢良く声を張り上げる魚屋の主人や、並んだ新鮮な野菜に群がる女性たちの姿を目にすることが出来る。
 また、ヴァンの中でもその辺りは、それなりに亜人間の姿も見ることが出来る。だからフィムのような珍しい容姿の者がうろうろしていても、昨日の街はずれでの反応ほどは驚いた顔はされない。また、フィムはこのへんの活気がある雰囲気が大好きであったから、ことあるごとにしょっちゅう歩いて回っていて、顔見知りとまではいかなくも、彼女の事を知っている者は多かったから、その意味でもフィムにとってはわりと『居やすい』場所であったのだった。
 フィムは、そんな通りをてくてくと、時々魚屋の店先を覗き込んで魚の頭と不意に見つめ合ってしまったり、美味しそうな匂いをさせているパンに鼻をひくつかせたりしながら歩いていた。と、何度か目に彼女が視線を通りの向こうへ移したとき、その視界に見たことのある人物の姿が入った。
 「……!シーナさん
 フィムはトトトッと走り出した。向こうの方もその特徴のある姿に気づいたのだろう、歩きながらニッコリ笑って手を振った。
 「シーナさんっ
 「フィムちゃん。朝から、お散歩かい?」
 シーナは駆け寄ってきたフィムの頭を撫でてそう云った。

 今日もシーナは派手な格好をしていた。身体のラインがはっきりと判る肩の出る赤いドレス、肘の上までの長い手袋、ドレスのスカート部分はほとんど腰にまでスリットが入っていて、そこからちらちらと覗く白く細い脚が男ばかりでなく女の目線をも惹きつける。耳に、首に、宝石を幾つもちりばめた装飾品を着け、それらはそのドレスとともに、太陽の光を受けてきらきら光り輝いている。だがそれらがなまめかしさを強調しこそすれ、けして下品な雰囲気ではないのは流石というべきであろうか。化粧はいつもながらに濃かったが、長いまつげとはっきり描かれた目の輪郭、きついめのアイシャドウ、血のように赤い唇は、もともと素材としての彼女の顔つくり自体もよいのであろうが、不思議と調和して、妖艶な美しさを醸し出している。
 「ウンシーナさんは?」
 「あたしゃ、今仕事終わらせて帰るところさ。昨夜はちょっと遅くなって、朝までなだれこんじまってさ、ついぞさっきあがったとこだよ。――今日は、あのばかはどうしたんだい?」
 「…アル、今日は一人でおシゴト、行っちゃったから…。」
 フィムは表情をかげらせて、うつむいた。
 「…あれ、なんだい。じゃ今回はフィムちゃんひとりぼっちかい。――まったく、しょうがないねぇ、あの男は……。待ってる女の身にもなれって何度も云ってやったんだけどねぇ。」
 「ン……。」
 「仕事内容はなんだい?」
 二人は往来の邪魔にならぬよう、通りの端に寄った。フィムはそばの建物にもたれかかって云った。
 「なんか、薬草を採ってくるんだって。…ここから、北西の、山……エト、南――」
 「南アルカトかい?」
 「ウン、その中で、薬草探しだって。」
 「南アルカトで薬草採取…それなら、とりあえず一日二日で帰ってはくるんだね。」
 「今日中に帰ってくるとは、云ってたケド。」
 フィムはこつんと、足元にあった石をけ飛ばした。
 「でも、やっぱし…一人で待ってなきゃイケナイのは、つらいよぉ……。」
 「……そうだね。」
 シーナは神妙な面もちでそう応えた。
 かつてはシーナも同じ事を経験したのだ。ひょんなことからアルフェルムと一緒に暮らすことになり、しかし戦いと冒険に明け暮れる彼の無事な帰りを待ちわびる日々――怪我もなく帰ってきたかと思えば、もう次の日には姿を消し、そして今度は怪我をして帰ってくる――そんな彼の姿にずっと心を痛め悩ませ続けたのだ。結果として、彼らが破綻をきたすことになったのは、誰もがよく知るとおりである。
 「…女はいつだって、待つばっかり…野郎どもは、それがどんなにつらいかを、ちっともわかっちゃくれない…いつだって、つらい思いをするのは、女なのさ。」
 「シーナさん……。」
 思わしげに云ったシーナをフィムは見上げた。シーナはそんなフィムの顔を見て、今度はにっこりと笑いかけた。
 「…今度また、あのばかを連れてうちへおいで。あたしがたっぷり説教してやるよ。それこそ、一晩ぐらいかけてじっくりとね。」
 「……ウン
 フィムは、シーナの優しさに、嬉しそうに笑った。シーナは、こんな風に、フィムがアルフェルムの元に来てから――それは、彼女とアルフェルムとの生活が破局を迎えて後の事になるわけであるが――なにかとフィムの世話を焼いてやっていた。最初のうちはフィムもそれに対して疑いのまなざしを持っていたのだが、それが何も裏のないことだと――アルフェルムという観点からも、また人種の違いという観点からも――判ると、あとは彼女もシーナに心を開くのは早かった。そして、今となってはシーナは、メリスや、フォード、セプターらと並ぶ――ヴェリアスについてはおいておいて――フィムの云う『ダイスキなヒトたち』の一人であるのである。
 「――それにしても、」
 それを知ってか知らずか、シーナはウエーブのかかった髪をかきあげながら、話を続けた。
 「フィムちゃんは…本当に、あいつのことが好きなんだねぇ…まるで、この世の中には、あいつしかいない、みたいに、さ……。」
 「――ウン。」
 フィムは少し頬を染めながら答えた。
 「…だって、アルは、あたしを、助け出してくれたから。」
 向こうの方から走ってきた馬車がガラガラとけたたましい音をたてながら目の前を通り過ぎた。その音が小さくなるのを待って、フィムは続けた。
 「アルはね……あたしをね、…ント、なんて云うんだっけ……『生きてるつらさ』――?…からね、救い出してくれたの…。――だってね、あたしはね、アルと逢うまでは――自分が、何のために生まれてきたのか、全然……わかんなかったから。――どうして、こんなにつらいんだろう、…なんで、生きてるんだろう、って……ずっとずっと思ってて、そいでもおナカは減ってきて……食べ物、お店から盗って、棍棒持ったヒトに追っかけられて……ホントに、つらかったのを……アルは、助け出して、くれたから……。」
 フィムはシーナを見上げた。シーナは『わかってるよ』とでもいいたげな笑顔を見せて聞いていた。フィムは続けた。
 「――アルはね、ときどき、恐いときもあるケド……でもね、ホントは、やさしいの。あたしがワガママ云っても、ぶつぶつ云うケド、いっつも最後にはちゃんと聞いてくれるし…それにね、冒険に出てるときとか、ぜったいにね、あたしを最初に考えてくれてるの…口では、そんなコト、ぜったい云わないケド……でもね、わかるの。寝るときも、黙ってても、ちゃんと抱いててくれてるし、戦ってる時も、いっつも、知らないウチに、あたしを護ってくれるような位置で、戦ってるの……。」
 「――そうだね。」
 シーナは、もう一度同じ言葉を繰り返した。その言葉に、何か含むものがあったのかもしれない――だがそれは、フィムには、知り得ぬことだった。
 「…きっと、フィムちゃんは、あいつとぴったりうまがあうんだろうさね。――世の中には、必ず、求めあう相手が三人はいるとは云うけれど、フィムちゃんにとっては、あいつがその一人だったんだろうねぇ。――それは、幸せなことだよ……人生で、すべてを共に出来る相手を得られた、それを…大事にしなきゃ、いけないよ……。」
 「――うん。わかってる。」
 フィムは笑いながら頷いてみせた。その笑顔は、おそらくシーナの求める答えであったのだろう。彼女はこちらも、もう一度笑顔を見せて、そして云った。
 「…それじゃ、あたしゃそろそろ行くよ。今日は帰って色々しなきゃならないことがあるし、…それになにより、眠くってね。」
 「あっアッ、ご…ごめんなさいッ……あたし、全然気づかなくってっ……!!」
 「いいよ。…それじゃあ、ね。またいつでもおいで。」
 シーナは後ろ手に手を振り、歩き去っていった。フィムはその姿――あでやかな後ろ姿というばかりでなく、その自然にかもしだされる悩ましげな腰つき、あるいは美しくしなやかな足取りといったもの――を目にして、思ったに違いない。
 (シーナさん……いつ会っても、カッコイイな……。)
 (……あたしも、あんなになんなきゃいけないのかな……。)
 それは、フィムがシーナに会うたびに思っていたことだっただろう。…そしてまた、どうしようもないことでもあっただろう。いずれにせよ、フィムはシーナの姿がその視界から消えるまでそうしてずっと彼女が歩いていった方向を見送っていた。そしてその姿が見えなくなって数ロスしても、フィムはそのまままじろぎもせずたたずんでいた。――間違いなく、アルフェルムにとっては、シーナでなく、フィムが彼の求めるものであったのだろうが、フィムからすれば、それはなかなかに信じられないことであり、そう――彼女にしてみれば彼女の求める理想の偶像はまさにシーナのような、洗練された大人の女性の姿であったのだろう。だから、シーナというのは彼女から見て、そうありたい、そうなりたい夢の姿であったのだ。――それが――皮肉にも――どう頑張っても達成は無理であったのだとしても。
 ――とにかく、そうしてシーナがいなくなって、ゆうに一〇ロスほどしてから、フィムはようやく今まで進んでいた方向に向かって再度歩き始めた。
 その後彼女は特に知り合いに会うわけでもなく――店先で彼女に投げかけられる挨拶は別にして――これまでのように、活気のある店先の様子や色々な匂い、あるいは雰囲気を楽しみながら一ガロスほどの散歩を満喫し、そして中央広場へとたどり着いた。
 丸い噴水は、いつものように中心部に水を噴き上げている。噴水の縁には何人かの人が腰を下ろしており、通りを眺めている。まだ少し寒くはあるが、ここは人々が集い、そんな風にして通りの様子を眺めて時間を過ごすには最適の場所なのだ。また、先に述べたように、フィムはこの辺りによく姿を現すから、その姿もなじみのあるものになっていて、そうあからさまに敬遠されたり、驚かれたりするようなこともない。そんなわけでここは、フィムにとっては居やすくもあり、また時間を過ごすことが楽しい場所でもあるのだった。
 フィムは噴水まで歩いていって、なんとはなしにそのなかに手を突っ込んでみて『冷たっ』とそのひやっこさにびっくりした後、へりを二、三度手ではたいて砂を払い、そこに座った。そして両脚を投げ出し、手を脚の間で組んで、通りを眺めた。
「……はあっ。」
 フィムはまた、大きなため息をついた。…自分でもその大きなそれにははっきり気づいたであろう。というか、自分自身を抑えるために無意識のうちについたため息だったのかもしれない。…どちらにせよ、今はっきりしているのは、隣には愛する人はおらず、そして少なくともその人はあと半日ほどは帰ってこないという事実なのである。
 「…アル……。」
 知らずに唇から漏れる、好きな人の名前も、この場ではなんの効果ももたらさないようであった。通りは彼女の沈んだ意識とは裏腹に活気づいており、商売をする者たちも、そこで品物を買う人々も、共にたいへん元気であるように見える。中年の女性が『しょうがないねぇ、今回だけの大サービス、おマケ中のおマケなんだからね!!』と叫びながら客に何かの袋を渡しているのが見えた。街は、いつでも忙しく、そして、あわただしく――自らの役目を果たしながら機能している。だが――フィムにとっては、それがまるで、すべて灰色一色で塗り込められたモノクロームの世界として見えていたに違いない。
 「……はあっ……。」
 フィムは、脚をばたつかせながら、二、三度、翼を左右に揺さぶった。数枚の羽根が飛び、いくつかが噴水の中へ落ち、水面に波紋を作る。
 結局、いくらシーナとアルフェルムの事について話をしたところで、当の本人は目の前にはいないのである。そう――今まさにフィムが必要としているのはアルフェルム自身であるのに、今もっとも得られぬものもまた、アルフェルム自身であるという――いつでも、シールの定める道は酷なれど、これほどのものを与える必要もないのではないか、そう思わせるほどに皮肉な運命が、彼女を捕らえているのであった。せっかく口ゲンカからうまく仲直りしたのに、そこへもってこのような運命を与えるのか――もしシールのそばですべてを見つめている者がいたとしたら、シールにそう非難を浴びせかけたかもしれない。
 しかし――
 とにかく、どうあがいてみたところで、状況は変わりはしないのだった。
 街は何一つ違いを見せることなく動き続け、彼女の回りでは子供たちがはしゃぎまわり、老夫婦が、あるいは若い男女が、互いに喋りあいつつ、それぞれの刻を過ごしている。何も変わりはない――そう、フィムが、一人っきりである事以外に、何も変わりはないのだ。そして、その違いを、気にかけるものは、いない――。
 「…………。」
 まるで、あらゆるものの外側にいるかのような疎外感をさえ感じ、フィムは、少し悲しくなった。
 世界が、自らを必要とせぬということ――自らが、誰にも必要とされぬこと――アルフェルムと逢う前に、幾度となく感じたそのマイナスフィーリング、彼と出逢ってからはそこまで深く取り憑かれることこそなかったものの、しかし、どうしても拭うに拭い切れぬその思い――それが、再び、彼女を捕らえつつあったのだ。
 そんな、さなか――
 (ニャーン)
 ふと、猫の鳴き声が響き渡った気がして、フィムは顔を上げた。

 街は、なにも変わってはいない。買い物に活気づく人々、ものを売るのに声を張り上げる店子たち、そして後ろで噴水が立てる、パシャパシャという水が砕ける音――何一つ、変わっていることなどない。
 だが、確かにいま、猫の鳴き声がフィムの耳に届いたのだ。それも、ざわざわ、がやがやという喧噪のなかでもはっきりと通る、芯のある透き通った鳴き声が。
 「…………。」
 フィムは不思議がって辺りを見回した。周囲に取り立てて妙なもの――あるいは、猫それ自体――はない。人々はいつも通りにいつも通りの生活を送っている。かごを小脇に抱えて歩いていく婦人、何かを叫びながら、通行人にぶつかってそれでも走り去っていく子供たち、ともすれば倒れてしまいそうな老人たち、槍を手にする護民兵――それらは、いつも目にする光景であり、普段と比べて特に違いがあるわけではない。
 だが、フィムはその耳に残る鳴き声が気になった。いや、猫それ自体はヴァンでも不思議ではない――生ゴミをあさる野良猫の姿はよく見るものでもあるし、それらにエサを与えさえする婦人の姿も所によっては目にすることが出来る。だが――その鳴き声は、普通の猫とどことなく違う印象を与えたのだ。なんというか、どんな音とも質の異なる、けして混じり合わぬ澄んだ音――喧騒の中にあってさえ、静寂の中で落とした針の音が響き渡るかのような、はっきりと耳に届いたその声は、フィムの心を捕らえたのだ。
 (ニャーン)
 今度は間違いなくそれを聞き取って、フィムは思わず立ち上がった。
 フィムは、キョロキョロと辺りを見回す。依然、全く変わったところはない――あるいは、猫の姿、それ自体もない。
 ――と、思っていたのだが――
 「――あっ!!」
 ふと足元を見ると、しっぽを立てた灰色の虎猫が彼女の脚にすり寄ってきていた。
 「ネ…ネコちゃん!?」
 いつのまに、そこにいたのか…あるいは、実は初めからいて、気づいていなかったのか、とにかくフィムの足元に、一匹の猫がいて、しっぽをたてながらさかんに彼女の脚にすり寄っていた。大きさは割と小さく、まだ子猫か、あるいは成猫になったばかりと思われた。その猫は人なつっこくフィムの脚にすりより、フィムの右足に身体をすりつけては左足へ、そして両脚の間を通ってまた右足へ…とせわしなく愛嬌を振りまく。
 「やーんっ、ネコちゃんっ…どうしたの!?おうちの人は?」
 フィムはその愛くるしい猫の姿を見て、さっきの透き通る不思議な鳴き声の事とその登場の仕方はまったくどうでもよくなってしまったらしく、ひょいっとそれを抱き上げ、頬ずりした。
 『ニャ〜ンゴロ、ゴロゴロゴロ
 「おまえ、ノラ?ん…ケド、首輪つけてるね――フィムはその首の赤く目立つ首輪を目にして云った――じゃ、どっかの飼い猫?」
 『ニャ……ア〜オ
 猫の方はフィムの問いかけなど気にもせず、嬉しそうにフィムに甘える。目を細めて顎や頬をフィムの顔にすりつけ、時に軽く彼女の指先を噛んだりもする。
 「ヤ〜ンッ…カワイイッ
 フィムは猫を抱いたまま、もう一度噴水のへりに座り直した。フィムは猫を、両手の下を抱えて自分の腹の上に、仰向けに座らせる。
 「ね、おまえ、どうしたの?おうちの人は?」
 『ナ〜オ
 「今日はひとりぼっちなの?」
 『ニャ
 「寂しくて出てきたの?」
 『ニャ…ア〜オ
 その言葉を解っているのかいないのか、フィムが顔を覗き込んで話しかけるたびその猫はまるで返事をするようにそうして鳴き声をあげた。フィムはなんだか嬉しくなって、思わず身体を折り曲げるようにしてその猫を抱きしめた。
 「えへへ…なんか、気が合うみたいだねっ…今日は、ずっと一緒にいる?」
 『ナ…ア〜ンッ
 「エヘヘヘッ……
 フィムは随分嬉しかったのだろう、その頭に頬ずりして、そして軽くキスをした。
 「あのね、あたしね、今日はひとりぼっちなの……いっつもね、いてくれるヒトがね、今日はいないの……。」
 『…………。』
 猫は大きな瞳を見開いて、黙ってフィムを見上げていた。まるでそれは次の言葉を待っているかのようだった。フィムは続けた。
 「いつもはね、一緒にね、連れてってくれるんだけど……今日はね、ダメって云われちゃったの……。」
 『…ニャ
 わかっている、とでも云いたげにネコは鳴き声をあげた。フィムはさらに続けた。
 「だからね、今日はね…あたし、ずっと一人で、待ってなきゃなんないんだっ…。それって、つらいよね……わかる?スキなヒトがね、ずっとずっといないの……帰ってくるって云ってくれてもね……やっぱしね、そばにいてくれないのはね、つらいの……。」
 『…ニャ。』
 「せっかくね……『生きるつらさ』からね、救ってくれても……やっぱし、たとえ一日でも、こうして離れていなきゃならないのはね……つらいよ……。――だって――アルはね、わかんないかも知んないケド……あたしはね、今まで、誰かに『居てもらいたい』なんてね、思われたことなくて……ずっとずっと、一人で生きてきて――」
 「――だからね、嬉しかったの。アルがね……あたしをね、…少し、乱暴だったケドでも……助けてくれて、そして――あたしのコトが、必要だって、云ってくれたコトは、――『救い出して』くれたコトは、…すごく、…すっごく……嬉しかったの……。だからね、あたしはね……ああ、このヒトは、あたしの助け人なんだなって……このヒトについていけば、幸せに、なれるんだなって……そう、感じてね……だからね、嬉しかったの……だのに、だのにね、アルってばね、今日はダメって云うの……!!」
 いつしか――
 フィムの言葉は、まるで自分に話しかけるかのようなそれとなっていた。
 猫の方は、おとなしく、抱きかかえられるままにそれを聞いていた。理解しているものなのか、否か――いや、もちろん、理解など出来ようはずもない。だが、それは、彼女がそうして話しかける言葉の一部始終を解っているとでもいうように、天を仰ぐようにして大きな瞳をフィムに向けたまま、じっと聞き入っていた。
 と――
 「……!?あっ!?どうしたの!?」
 不意に、その猫がフィムの膝の上で暴れ出した。ばたばたと――噛みつきこそしないが、まるでなにかから逃げだそうとしているかのごとく――ひどく、暴れ出したのだ。
 「やっヤッ…あ〜んッ、どうしたのッ……!?あっアッ、落ちちゃうよッ……!!」
 フィムとその猫との争いは、猫に軍配が上がったようだった。つまり、フィムはその暴れ具合に耐えかねて思わず手を離したのだ。猫の方は、彼女の膝から落ちる格好で放されたのだが、そこは猫だけにクルリッ、とたいへん上手に身体をひねらせ、難なく地面に着地した。そしてひとたびそうして地面に足を着けると、絞られた矢が放たれるかのごとくそこから跳ね、フィムが捕まえ直す間もなく雑踏の方へ走っていったのだ。
 「あっアッ、待ってよォッ、ネコちゃああんっ……!!」
 その、走りゆく先に姿を現す、一人の人物――
 「――あッ……!!」
 「――すみませんね、うちの猫が、お世話になったようで。」
 そこにたたずむのは、一人の男性であった。
 「なにか、無礼なことをしでかしませんでしたか?」
 彼はひょいっとその猫を抱きかかえて微笑んだ。フィムはその猫を追いかけて走り出しかけたところだったのだが、彼の登場によって思わず立ち止まり、その顔を見た。
 彼は、線の細い、大変綺麗な顔をしていた。そう、ほとんどエルフか、そうでなければなにかの精霊かとさえ思えるような――そんな、美しさであった。耳までも隠れるような、男性にしては珍しいストレートの長髪――シルバーの、光の輝きによっては様々な色が混じる髪――そして、整った顔立ち。――面長で線の細い顔、切れ長の眼、彫りの深い鼻、薄くはあるが繊細な唇――着ている衣服も品位の高さを思わせるもので、おそらく光具合から絹製品だと思われる、袖が長く首から足元まで伸びるローブ、本革製のブーツなどなど……まるで、神話か何かの世界から抜け出してきたのではないかと思われるような、美しい男性がその先にいたのだ。
 「あっアッ、エトあのその、…………
 「なにか迷惑をかけたの、あなたは?」
 『ニャ〜ン……』
 「…どうも、そうらしいですね……これは、申し訳なかったですね。どうですか、お詫びといってはなんですが、わたしの家へいらして、お昼でも一緒に召し上がられては……?」
 「アッ、えと、そっその……そのネコちゃん、あたしに――その、んとント、なにもしなかったからっ……
 フィムはしどろもどろに答えた。
 「そうですか?――本当に、そうだったの?」
 彼は抱きかかえている猫に尋ねるようにした。『ニャ〜ン……』だが、彼の猫――そうならば、であるが――は、嬉しそうにそう鳴くだけであった。そしてそれは甘えるかのように彼の首筋を舐める。
 「…っとっ…ほら、よしなさい、こらこら……しょうがない。この子はいつもこうでね…甘えん坊で、しかたないのですよ。ほらほら、噛むんじゃありません……!!」
 「…へへカワイイ
 フィムはそんな彼と猫とのやりとりに、思わずにっこりした。猫は心底嬉しそうに彼の首を舐め、そしてそこに頭をすりつけ、軽く噛み、また頭をすりつける。ゴロゴロというのどを鳴らす音がフィムの耳に届くほど、それは嬉しそうに甘えていた。
 「エヘ……カワイイ……ですね、ネコちゃん
 フィムは使い慣れない敬語で話した。彼は笑った。
 「可愛いのですけれど、どうにも甘えん坊すぎでしてねえ。ほらほら、よしなさい……しょうがない。――少し前に、野良だったのを拾ったのですけれど…それからどうも、気に入られてしまったようでしてね。こんな風に、抱きかかえるごとに甘えてくるんですよ。」
 「エヘ…わかる気がするなっ…
 フィムは彼に近寄って、そして甘える猫の頭をトン、とつついた。その猫は何事かとばかりにその後方をキョロキョロと見回して、そしてまた彼の方を向き、たまたまその目の前にあった襟にじゃれつく。
 「こらこら、そんなところをひっかくんじゃありません…!!」
 「ヘヘ……カワイイなっ
 「いつもこうでしてね。おかげでわたしの服はどれもすぐに痛んでしまいます。」
 彼はフィムに向かってほほえんだ。その穏やかな笑みに、フィムも思わずはにかんだ。
 「さて、それはともかく…どうですか?せっかくこうしてお知り合いになれたことでもありますし…お昼でも、ご一緒に。とびきりの料理をご馳走させていただきますよ。」
 にこやかにほほえむ彼に、しかし、フィムは表情をかげらせて、答えた。
 「アッ…んと、でも……そのあのッまだ、時間も早いし、おナカも減ってないし。それに――それに、その――エト、やぱし……そう…は、いかないから……イイです……
 「どうして?」
 彼は不振そうな顔をした。フィムは困った顔で、一言ずつ答えた。
 「エト……その、…だって、あたしは……その、ハネ、あるし……だから、よくないから……!!」
 「――ああ、」
 彼は今初めて意識したというように声をあげた。そして彼女の後ろで揺れる純白の翼を改めてまざまざと見つめた。
 「そういえば、キレイなハネだなと思っていたのですよ――!!どちらの出身なのですか?」
 「エト…そのあの、…あたし……飛翼族で……ニンゲンじゃ、なくて……
 「飛翼族……ああ、……聞いたことがあります。…そうですか、それで……それにしても、美しい翼ですね……真っ白で、綿毛のようで……まるで、天使が舞い降りてきたかのようだ……!!」
 「……
 フィムは恥ずかしがって下を向いた。彼の方はそんなフィムの様子を気にもせず、まるで美しい偶像を崇拝するかのような目つきで彼女の翼を見つめた。ふわふわの、真っ白な翼――フィムの意志に沿って、開いたり閉じたり、はたまた少し揺れ動いてみたり、不思議な動きをする翼――ひとたびそれを広げて羽ばたけば、地上という枷にとらわれた哀れな生命たちをそこに残し、なんの束縛もない自由な世界へと飛び立ち、風と一体になることが出来る、不思議なオブジェクト――だが、それを持つが故に、それを持たぬ種からは妬まれ、疎まれ、蔑まれ――結果として、この世界から静かに消えていこうとしている種、それが彼女らであるのである。
 「――おっと、いけない…これは失礼しました。あなたたちにとっては、翼を気にされることが一番嬉しくないことでしょうからね…配慮が足りませんでした。――と、そうなると、ますます私としてはあなたをお昼にお誘いしなければなりませんね?」
 「…ケド、でも……
 「でも、この子もご一緒したそうですよ?」
 彼はいつの間にやら肩にのっかって尻尾を立てながらその身体を彼の耳元にすりつけている猫の身体を片手で撫でて笑いかけた。
 『ニャ〜ン
 「…ぷっ、アハハ…カワイイ……!!」
 たまたまいいタイミングで、返事をするかのように鳴いたネコを見てフィムは思わず噴きだした。

「さっきから、このコってば、まるで喋るコト、わかってるみたいに返事するんだもん……わかってるの?」
 フィムは彼のそばへ寄り、肩に乗っている猫の鼻先に指を差し出した。猫はフィムの指を何度も嗅ぎ、そこにあごをすりつけ、カプ、と噛む。
 「やん
 「すっかりあなたのことを気に入ってしまったようですね。それほど人に寄っていく子でもないのですが。」
 「え、そうなの?」
 「もともとノラでしたから、人間には警戒心があるのでしょうね。わたしには心を開いてくれているようですが、家の者にも、なつかないので不満を漏らすものも少なくありませんよ。」
 「そうなんだ…あたしのコト、スキ?」
 「ニャ
 猫は眼を細めて小さく鳴いた。フィムは頬を染めて嬉しそうに笑った。
 「エヘヘ…うれしいなっなんか、いいおトモダチみたいだねっ
 「さあ、そういうわけですから…どうぞ、ご一緒に。」
 「ア、…エト……。」
 フィムは、改めてこの男性を見た。
 彼は、穏やかな笑みを浮かべて彼女を見つめている。その表情からは、なにか裏があるような感じ、あるいは何かを企んでいるといったような裏側めいたものはことさら感じられなかった。物腰は柔らかく、そして言葉遣いも丁寧で、なんら危険を感じさせるようなものは窺えない。
 「……?ニャ。」
 そして、その肩口で、また彼の着ている服の襟に手を出している猫。何度か手を出しては、ツメを引っかけ取れなくなってしまい一生懸命引っ張って『こらこら、そんなことをしてはいけません、ほつれてしまいます』と彼にツメを外してもらい、そしてまた同じ事を始める――と、すっかり彼のことを信用しきっている様子である。
 「…………。」
 「――ああ、そういえばまだ名前も名乗っていませんでしたね。」
 その彼女の沈黙をどう取ったか、彼はふと気づいたように口を開いた。
 「わたしは、ファンカー・ゴールドワゲンと云います。ついぞ最近この街に越してきたばかりですので、聞かない名前かとは思いますが。父が商人をしていましてね。…そちらのお名前、うかがってよろしいですか?」
 「アッ……エト、――フィム・デイトナ……。」
 「フィム…フィムさんですか。いいお名前ですね。」
 彼はフィムを見つめて、にっこりと笑いかけた。フィムは思わず頬を染め、ふたたびうつむく。
 「――さあ、心はお決まりになりましたか?と云っても、これでだめだと云われてしまっては、わたしの方も少しばかりショックではありますが……。」
 「…………。」
 フィムは、考え込んだ。
 少なくとも、危険な何かを感じさせるものは、彼にはないことははっきりしている。――わかるのだ。持ち前の鋭い感覚――人間界で、時に食べ物を盗み、時にひどい風邪でそれこそ死にそうになりながら生きてきた彼女である。その間に生きる術として磨かれた、人が内面に持つ『なにか』を、なんとなく感じ取れる能力――それが、彼をシロだと、なにも危険がない人物だと、伝えている。
 しかし――
 (『今日は、絶対に一人で街へ出るな』)
 アルフェルムの言葉が心に残っているのもまた、事実なのであった。
 (どう…しようかな……。)
 心の中に生まれる葛藤は、彼女を激しく揺さぶった。
 (『――小さな子供がいなくなる事件があちこちで起きてるんだって。もうこれで何人かの子供が行方不明になってるって――』)
 (…ケド、でも、それは小さい子供だっていうし…このヒト、悪い人じゃなさそうだし……)
 (――このヒト……言葉もていねいだし、親切だし、それに……ニンゲンに、よくいる、冷たい目のヒトじゃない……やわらかい、あったかい目、してる……。)
 彼は依然、ほほえみながら彼女の返事を待っている。フィムはうつむいたまま、何度か瞼をしばたたかせた。
 (――それに――)
 ここで彼と別れたら、その後はまた、彼女はひとりぼっちに戻らねばならぬのだ。
 (…ひとりは、寂しいよゥ……!!)
 (『ちゃんと、おとなしくして、待っていろよ』)
 (――アルがいけないんだもん!!あたしを置いてくから――アルが悪いんだもん…あたしが悪いんじゃないもん……!!)
 (――アルが――アルさえ、――アルさえ……ちゃんと……いてくれてたら……!!)
 「――どうですか?」
 そこで更に言葉が投げかけられた。そのタイミングは絶妙であった。フィムの頭の中で、意識が『アルフェルムの非難』に移った瞬間――その、心の中に一瞬の空白が生まれた瞬間、だったのだ。フィムははっと顔を上げた。そして、ややおいた後、口を開いた。
 「……その……あたしの…コト、――恐く……ないの……?」
 「?恐い?なぜですか?」
 「――だって……その、ニンゲンは……あたしのハネ見ると、恐い顔するから……。」
 「……ああ……それは、きっと、」
 彼はもう一度、にっこりとほほえんだ。
 「彼らが、その翼がいかに美しいかをわかっていないからですよ。」
 フィムは、目を見開いた。
 (『そりゃ、嬢ちゃんの可愛さがわかってねぇんだよ。』)
 それは偶然にも、かつて彼女が初めてフォードに会った時、彼が口にした言葉と同じだったのだ。
 そしてフィムは、何度もちらちらと目線を外した後、最後に、はにかみながら答えた。
 「エト……それ…じゃ、行く……行き、ます……。」
 「それを聞いて、ほっとしました。」
 彼は少し苦笑いして答えた。
 「じっさい、『ノー』と云われはしまいかと、内心ヒヤヒヤしていたのですよ。――さあ、こちらへ。わたしの家にご招待します。少しばかりここから遠くはありますが、馬車を待たせてありますから……。ちょっと時間は早いのですけれど、着くまでにそれなりの時間になるでしょうし、待ち時間は、そうですね…庭で少しお茶でも飲みながらお話ししましょう。――まあ、ここらあたりの食堂に入ってごちそうさせて頂いてもよいのですが、さすがにまだ時間も早いですし、第一それではわたしの方もお誘いした気がしませんので――」
 彼らは、アレグゼ四の鐘が鳴り響く中、そう喋りながら、歩き始めた。
 その、彼の肩口に乗る、虎猫――
 それが、フィムの方を見ながら、少しばかりにやりと笑った気がしたのは、気のせいだったのだろうか。
 しかしながら、話を聞くことに集中していたフィムは、それに気づくことはなかった。



 ラーズの戦車(チャリオット)が、蒼天から下界へ光を投げ降ろす。
 ヴァンの街中では、そろそろアレグゼ三の鐘が鳴り響いている頃であろうか。
 アルフェルムたちはひたすら南アルカトに向けて騎を進めた。道中は順調であった。やっかいな野党どもに出遭うようなこともなく、彼らはなかば暖かい春の日差しを楽しむようにして目的地へと向かった。
 途中、一度の休憩をはさみ、彼らはほぼ予定通りの時刻に南アルカトのふもとにつくことが出来た。
 ここから山中へは、いくつか、かろうじて跡が残っているだけの、まるでけもの道のようなところを歩いていくことになる。それはうねうね、くねくねと山のラインに沿って延び、途中で何度も枝分かれし、ある道は行き止まり、ある道は別の道へ繋がりしてまるで迷路のような山道網を形成している。
 「さて、本番ですか。」
 馬の歩みを止め、そこからひらり、と地面に降り立ったフォードが呟いた。
 「ああ。」
 「年寄りには辛いんだがなぁ。」
 「…そんな歳じゃねぇだろうが、おめーはよ。」
 フォードが降り立ったセプターの尻をパン、と叩く。
 「…んだよ、ケツを叩くなよ。オレに気があるのか?」
 「そうなんだよ、最初に会ったときから惚れてました。ケッコンしてください。」
 「馬鹿野郎
 そんなやりとりを後目に、アルフェルムはゆっくりとその巨体をインプレスの騎上から地上へと降り立たせる。――ここから先は馬で入り込むことはできぬ。その細いけもの道に騎を強引に進めたところで、整備されておらぬ道の荒さに蹄をつぶして立ち往生するのがおちである。あるいは、その進路に待ち伏せして襲いかかってくる野党の類もおらぬとも限らぬ。いずれにせよ、進むためだけに剣を振るって草木を払わねばならぬようなその細い道に、馬を進めることは自殺行為に等しいのである。
 「こいつらは、放しておいても問題ないだろう。――フォード、セプター、お前らはこっちの道を行ってくれるか。その道沿いにまっすぐ行ってくれれば、特に問題なく群生地に着けるはずだ。」
 「おめぇは?」
 「俺は、途中から枝分かれする右側の道へ行く。」
 アルフェルムは手振りでその行動を示してみせた。
 「お前たちが行く逆側へ行く。そっち側にもう一つ、別の種の群生地を見つけているし、そうすればうまくいけば半分の時間で二種の薬草を見つけることが出来るだろう…というか、出来る。――こんなところを荒らす奴もいないだろうからな。」
 「合流は、どうすんでぃ?」
 フォードが、セナのたてがみをさすりながら訊いた。
 「うむ…この二種類だけではないからな……どうするのがベストなのか……。」
 「収集場所がその先でも分かれているのなら、そのまま行った方がいいか……?」
 「ふむ……確かに、その先で大きくYの字に分かれてはいるが……。」
 アルフェルムは記憶をたぐるように目を閉じて応えた。
 「…なら、このまま二手に分かれて集めるのが効率的ではあるだろうな。が――アル公よ、おめぇ、一人で大丈夫か?」
 「ああ、それは問題ないとは思うが――」
 「フィムがいなくてもか?」
 突然投げかけられた言葉に、アルフェルムは思わず口をつぐむ。
 「…フィムは、関係ないだろう。」
 少しムッとした風にアルフェルムは返答した。
 「いや、すまん。ちょいと気になったもんでな。」
 セプターが思わしげに笑いながら応えた。
 「…フィムは、大丈夫なのか?」
 「大丈夫も何も……別に、どうなっているわけでもないが……。」
 「だから、大丈夫かと訊いているんだ。」
 「――どういうことだ。」
 アルフェルムは眉間にしわを寄せた。
 「あのケンカのあと、フォローはしておいたのか?」
 「…………。」
 そのセプターの言葉には、アルフェルムは答えなかった。セプターは構わず続けた。
 「まあ、云いたくなければいいさ。だが、まあ…今回こうして、お前がフィムを連れてこなかったこと……それが、お前に影響を及ぼさなければいいんだがな。」
 「そんなことは、関係ない。」
 アルフェルムの言葉は即座で簡潔であった。セプターは、予想していたとでも云うように、唇の端をつり上げて、やや皮肉な感じに笑った。
 「お前がそう云うのなら、そうなのだろうさ。…さあ、位置と収集する薬草の種を教えてくれ。合流は、集め終わったときにここでいいだろう。」
 「…………。」
 アルフェルムは、依然、なにか云いたそうではあった。だがそれを振り払うようにしてその後を続けた。
 「――そちら側は、俺と別れた後、道なりに進めば三〇ロス程度でたどり着けるはずだ。二つ目は、群生地から少し戻った分岐から右へ向かい、そのまま登っていってくれ。途中で幾つか分岐するが、順は、こういって…右、左、左だ。ここに目印になる三本の木があるから、これを正面に見て進めば、間違いはないだろう――」
 アルフェルムは地面に地図を書いて説明する。フォードとセプターはそれを頭に叩き込む。続けて彼はギルドで受け取った採取リストを取り出した。
 「――そっちで採取する種類は、――こいつと、こいつ、これとこいつだ。他の種も、もし運良く発見したら集めておいてくれ。いずれにせよ、これでかなり時間は短縮できるはずだ。それらを集め終わったら、セプターが云うように一旦ここで合流しよう。その時点で万が一不足しているものがあればその後三人でもう一度、という形だ。…もし、相手方がアールになっても現れんようなら、一旦ヴァンに戻って、ギルドの応援をあおぐ。…いいな?」
 「ラジャー。」
 「それで、構わんよ。」
 フォード、セプターが同意する。アルフェルムは自分の腰の剣にもう一度確かめるように触れると、インプレスの首筋を叩いて、彼に囁くように話しかけた。
 「ちゃんと、戻ってくるまで、この辺りにいるんだぞ。」
 ブルルル、とそれを理解したものか否か、インプレスは鼻を鳴らした。アルフェルムはマントをひるがえし、フォード、セプターらとともにその道なき道へ向かうべく歩き始めた。




 カッポ、カッポ――

 蹄鉄の音が、昼前のヴァンにひびく。
 それは、珍しいことではない。単体の馬、あるいは人や物資を運搬するための馬車が街中を移動していくのはよく見かける光景ではあるし、彼女もついぞさっきそんな馬車を目にしたところだったのだ。
 もちろん、彼女とて何度かそういったものに乗車したことはある。街から街への移動の際に、あるいは定められた目的地までがかなり遠い場合に――だが、それらはいつも古びていて埃でうす汚れていて、たいていは大きな台車に幌をかぶせた程度の貧相なものであり、またその幌にも穴が開いていてそこから吹き込んでくるすきま風に震えていなければならないような、おせじにもあまり美しいとはいえないものであった。
 だからこんな風に、きちんとした木造りの、その座席が一つの部屋として成り立っているような、そしてその内部にも美しい装飾が手すりや窓の枠に施されているような豪華な馬車には乗ったことはなかったし、またそんなものに乗る機会が来るとは夢にも思わなかったのだ。
 「…………。」
 フィムは、促されてそれに乗ったはよいものの、元々そのような立派な馬車に乗ったことはなかったし、またその小さな室内で、たった今知り合ったばかりの男性と面と向かい合って座っている――従者が付き添っておらぬのは本来不思議なことであったが、彼女はそういった場面に居合わせた経験はなかったから、そういうものだと思っていた――ことで、出発してからここまで終始緊張したままであった。
 「――この街は、そんなに大都市というわけでもないですけれど、活気があってよいですね。人々が、いきいきと動いていて……。――私は職業柄、色々な街や都市へ出かけることが多いのですが、大きな都市でも、場所によってはまるで滅びた古代の都市レーベのように活気のないところもありますし――」
 ファンカーが、彼の膝の上に座り込んで目を細めながら気持ちよさそうにしている例の虎猫を撫でながら、そうして話しかけてくるのにもうわの返事で、フィムは身体をかちこちにしたまま、両手を膝の上で握り、うつむいたままだった。やがて、そんな彼女の様子に気がついて、ファンカーは彼女に笑いかけた。
 「――落ち着かないですか?」
 「アッ、ハッ、ハイッ……あ、えとあの、いいえっ
 フィムはしどろもどろで返事した。ファンカーは苦笑いした。
 「もっと身体の力を抜いてください。そんなに緊張されてしまっては、私の方も困ります。…なにも、とって食おうとしているわけでもありませんし……こういう乗り物での移動は、お嫌いですか?」
 「えとエト……その、キライ…っていうワケじゃ、ないケド……あまし、こういう、おっきな馬車には、乗ったコト――ないから……その、――なんだか、落ち着かなくてっ……
 「あまり、馬車を使われるようなことはないのですか?」
 「…ン……その、」
 フィムはちらっと目線を上げて、そしてまたそれを膝の上に落とし、続けた。
 「乗ったコト、ないわけじゃないけど……こんな、すごいのには……。――それに、やっぱしいっつも、歩くコトの方が多いし……。」
 「歩きながら、外を見るのが好きなのですね。」
 ファンカーは穏やかに云った。フィムは思わず顔を上げて、彼の顔を見つめた。
 「――どうしました?」
 「……!!あ、エトっ…なんでもない、…です……。」
 そして、ふと我に返り、どぎまぎしながら目を伏せる。ファンカーの方はそれを見てもう一度苦笑いしたくなったには違いないが、今度はそれを表情に出すことはなかった。代わりに、話題をフィム寄りに切り替えることにした。
 「――フィムさんは、このあたりに住んでいるのですか?」
 「…えと、そう…です。」
 「ずっとここに?」
 フィムはうつむいたまま首を横に振った。
 「…一年と少しぐらい…だと思う…思います……。」
 「そうですか…それほど長いというわけでもないのですね。…どうです?この街は、住みやすいですか?」
 「…ア……ウン、あの……と、思う…です……。」
 「――敬語は、よしませんか。」
 彼は、たまりかねた様子で唇の端を引き上げながら笑った。
 「…わたしは、職業柄…といいますか、もともとこういう言葉遣いなのですけれど…フィムさんの方は、そうではないようです。…あまりかたくならずに、自然になさってください。――それがきっと、フィムさんを一番きれいに見せるのですから…。」
 ファンカーが放ったその言葉――それはおそらく、『とっておきの』殺し文句だったのではないかと思われた。…彼が、こういった女性との駆け引きに関してどれほどの技量を持っているのか――それは、判らなかったか、だがしかし彼のおもわしげな表情、優しげな声色、そういったものを考慮に入れるに、それは、ほとんどの女性を落とすのに充分であると思われた。…だが、フィムはそれに感銘を受けたようではなく、むしろ困ったように、次の言葉を口にした。
 「…でも、アルは……ダメって云うから……。」
 ファンカーの表情に、変化はなかった。彼は穏やかに、それに対する質問を口にした。
 「アル…というのは、どなたですか?」
 フィムははっと顔を上げて、そしてまた伏せた。そのあと、両手をもみ絞り、それからようやく口を開いた。
 「…エト……その、あたしと――いっしょに……住んでる、ヒト……。」
 それが、どういった感慨をファンカーに与えたのかは判らない。だがファンカーはその穏やかな表情を崩すことなく尋ねた。
 「…その人は、どういう方なのですか?」
 「――あたしの……スキな、ヒト……。」
 だが、そのフィムの次の言葉には、さしものファンカーも愁眉を見せた。――ただし、フィムは次にどう云えばいいか、必死に言葉を探していたため、その表情のかげりには気づかなかった。
 「…アルは……その、…あたしを……助けてくれたヒト……そいで、あたしが、ダイスキなヒト……。んと、あたしを、救ってくれて……そいで、その、あの……いっぱい、いっぱい、ダイスキなの……!!」
 「――そうですか。」
 それを聞いたファンカーは、何か思うところはあったかもしれなかったが、しかしその言葉の響きは穏やかなものだった。そして彼の顔には再び柔らかい笑みが現れていた。
 「――その人と、ずっと一緒に――?」
 「…………。」
 ファンカーの問いに、フィムは、単純に首を縦に振った。
 「…そうですか……。よい方とめぐりあえたのですね。」
 「――うん……!!」
 ファンカーの言葉に、フィムはまたはっと顔を上げ、しかしそこにあった穏やかな笑みに、思わず釣られるようにしてはにかんだ。そして、しばらくの沈黙の後、フィムは上目遣いにファンカーの顔を見ながらおそるおそる尋ねた。
 「…えと……ファンカー、……さん、は――」
 「ファンカーでいいですよ。」
 彼はにっこりして云った。それでフィムはまだ少し抵抗がありながらも続けた。
 「――ファンカー……は……なに、してるヒトなの……?」
 「わたしですか。わたしは、父と一緒に商人として仕事をしていますよ。あちこち、街や都市を渡り歩いて、必要なものを仕入れて、それを必要としているところへ運び、売る――そんな感じですね。」
 「ふぅん……それじゃ、あちこち行ったりするんだ。」
 「そうですね。まあ、今日は東に明日は西に、というようなものではないですが、必要なものをより安く仕入れるためには、いろいろと情報が必要ですから、そのためには飛び回ることもありますね。――もっとも、ほとんどの仕事は父がこなしていて、私はまだ手伝い程度のことをしているに過ぎないのですけれどね。」
 「そうなんだ…すごいんだね……。」
 フィムは驚いたように云った。ファンカーは続けた。
 「この街へ来たのも、そんなふうに、品物の情報を手に入れるためなんですよ。この北にある都市――バルザといいましたね?そちらの方では、まだ商売をしておりませんで、そちらへも手を広げつつ、色々な品が集まるここヴァンで新たに仕入れる品を定めるべく、越してきた、という次第です。」
 「そうなんだ……!!すごぉい……ファンカーは、お金持ちなんだねっ……!!」
 フィムは目を見開いて云った。ファンカーは少し苦笑いして云った。
 「…まあ、確かに生活には困りませんが……それは、父の偉業ですからね……。私はそれにおぶさっているだけですよ。」
 だが、それはフィムの細く尖った耳には届いていないとみえた。フィムは目を見開いて、更に尋ねようとしたが、その時に、ファンカーの膝の上にいた虎猫がごそごそっと動いてその上で立ち上がった。
 「ほらほら、動くんじゃありません。ちゃんと座って――そう、脚を折ってね、そう、いい子ですね……。」
 彼は、云い聞かせるようにそう話しながら、身体を左右に揺らしてもう一度座り直したその虎猫の背を撫でた。フィムは、自分の興味をそちらに奪われ、そして尋ねた。
 「――そのコ……名前は、なんて云うの……?」
 「…ああ、そう云えばまだ話していませんでしたね。この子はプレシマ――『気ままな旅人』を意味する、古代語から名を付けました――と云います。さっきも云いましたが、元々ノラで、ある日私の家の庭で弱って死にかけていたのを介抱してやったら、以来すっかりなついてしまいましてねぇ。」
 「そうなんだ…キミ、倒れてたの?」
 『ニャo"』
 プレシマは再び、それを理解しているかのように返事した。
 「おやおや…本当にあなたのことを好いているようですね、このコは。…人に対して返事をするなど、まずないのですけれどねぇ。」
 「へへ…なんか、ウレシイなっo"」
 フィムは頬を赤くして笑った。
 「やっぱし、似たもの同志だから、気が合うのかなっ
 それを聞いたファンカーが、ためらいがちに少し間を置いて尋ねた。
 「――フィムさんも……そうだったのですか?」
 「――あ、」
 フィムははっとして顔を上げ、そしてまた伏せた。
 「…すみません、訊いてはいけないことでしたか……?」
 「う……ウウンッ……そ、そうじゃ……ない…ケド……
 フィムはファンカーの顔を見てまた目を反らし、首を左右に振り、しばらくおろおろした後、ゆっくりと口を開いた。
 「――エト……あたし、その……アルと出逢うまでは、ずっと……ひとりぼっち、だったの……。――お父さんも、お母さんも、あたしが小さいときに、死んじゃって……それで、ニンゲンの世界の、こ……エト、こじ…いん?――とかに…預けられたトキもあったケド、でも…やっぱし、いじめられたりして、それで、飛び出して……その後は、ずっと、独りで、生きてきたの……。」
 「…………。」
 ファンカーは、このかわいらしい娘の思わぬ境遇に少しばかり驚かされたようだった。フィムは続けた。
 「――そんな時に……エト、あたしが、その……、――お店…から、食べ物、盗ろうとしてたとき……アルに、見つかって。――ケド、アルは、あたしを捕まえて、ヒドイコトする代わりに――お家に、住まわせてくれて、食べ物もくれて、そいで、あったかい布団も……。」
 「…………。」
 「――最初はね、あたしも……アルのコト、信じてなかったの。だから、反発して……それで、アルも、怒っちゃって。――フィムは少し照れ笑いした――でも……その後、アルは、ちゃんと、優しく…してくれて。――ウウン……あたしもね、心のどこかではね、最初に逢ったときから、なんか、違うなって気はしてたの……他のヒトたちとは、なんだか、違うなって……どこ、って云われると、よくはわかんないケド……なんか、違うなって……。」
 ファンカーは小さく二度頷いた。そして次の質問を口にした――その口調からは、やはり、何も特別なものは感じ取れなかった。
 「――そして、その、アルさんと、今、一緒に暮らしている――という、わけですか。」
 「――ウン。」
 フィムの方は、穏やかに尋ねられたその質問に対して、嬉しそうに笑った。

 「アルはね、だから、あたしを助けてくれたヒトなのそれでね、あたしも、アルのコト、大スキなのっ
 フィムは、その『大スキなアル』の事を聴いてくれる人間が現れたことで、嬉しくなって高い声でそう繰り返した。ファンカーの方はそれに対し、柔らかく微笑んで応じ、そしてその『アル』という人物像にたったいまより深い興味がわいたというように、あらためて次の質問を口にした。
 「その、アルさんという方は、どんな方なのですか?」
 「えっとね――」
 フィムの方は、その自分の好きなアルフェルムに彼が興味を示してくれたことでいっそう嬉しくなったらしく、一生懸命に考えて、そして弾んだ口調で話し始めた。
 「エトね……アルはね、すっごく強いのどんな怪物が来てもね、えいってやっつけちゃうのそいで、いつでもあたしのコトを見ててくれてね、あたしを護ってくれるの前の時とかもね、空に逃げられない洞窟の中で戦ってたときにね、怪物があたしに襲いかかってこようとして、であたし逃げようとしたけど洞窟だから逃げられなくて、んだケドアルはちゃんと見てて、えいってそれをやっつけちゃったの!!それとかね、前の時も――」
 そこまで調子よく云って、フィムははっ、と息を飲んだ。そしてまたうつむいてしまう。
 「前の時も――どうしたのですか?」
 「……エト……その、」
 フィムは少しためらって、そして小さく続けた。
 「――その……一度、みんなの武器とか、ヨロイとかが全部消えちゃった時があって……エト、なんか、そういう魔法場だった……って、アルは云ってたケド、とにかく……それで、でも、一番最後の部屋に行ったときに、その消えちゃった剣とかヨロイとかが全部そこにあって、それとよくわかんないケド、魔法の本が、部屋の真ん中に浮かんでて。――あたし、なにかなー、って思って、少し羽ばたいて、それを見てたの。そしたら、それがゆっくり降りてきて、それであたしの手の中にすすーって動いてきて…あたし、アルにいっつも、ヘンなモノを触るな、って云われてたから、そういうコトしないようにしてたのに、でもその本の方から、あたしの方へ動いてきて。」
 「…………。」
 ファンカーは黙って聞いていた。フィムは続けた。
 「――それで、あたし、あっ、落ちちゃう、って思って、それだからその本を受け止めたの。そしたら――そしたら――!!」
 フィムは顔を伏せて、膝の上で両こぶしをぎゅっと握りしめた。
 「――そしたら、あたしの後ろに、剣を持った怪物が、現れてて……アルは、『ぶーびーとらっぷ』だって、云ってた……それで、アルとか、フォードとか、みんな消えちゃってたヨロイ、その部屋に出てきてたの、身につけてるところで、…だから、それに気づいてなくて……だケド、アルだけは、その瞬間に気づいて、あたしの方に走ってきて、それであたしに飛びついて、……!!――その、怪物の剣から、あたしを護ってくれたの……!!」
 「……それで……どう、なったのですか……?」
 「――アル、背中でその剣、受け止めて……大怪我、しちゃったの。ひどいケガだったの……背中のホネ、何カ所か砕けたって云ってた……!!」
 「……それは、それは……。」
 このフィムの話にファンカーも驚きを隠せないようであった。フィムは、さらにぽつぽつと続けた。
 「――その後で……治療の魔法、使えるヒトに、何回か魔法、受けたり、薬使ったりして……それで、もうほとんど、前と変わんないくらいに治った……って、云ってる、ケド……でも、今でもね、背中にね、おっきな傷あとが残ってるの……それでね…それはね、それは…あたしが、いけなかったの……あたしが、アルにケガ、させちゃったの……!!」
 「…………。」
 ファンカーは今にも泣き出してしまいそうなフィムに、言葉を飲み込まずに入られなかった。しばらく重い沈黙が車内を満たす。…だが、それをやぶったのは、そんなフィムに何か言葉をかけようとしたファンカーではなく、フィムの方であった。
 「――だケド……それでも、アルは、それは自分が悪いんだって、あたしのせいじゃないって……だから、くよくよするな、そのコトはもう忘れろって、いっつも、あたしを励ましてくれるの……でもねっ!!――フィムは急に顔を上げた――それはね――やっぱり、悪いのはあたしだと思うの……だけど、そのコトを云うと、またアルを困らせチャウから…だから、あたし、そのコトは、なるべく気にしないようにしてるの…それが、…それが、あたしの、アルに対する、キモチだから……!!」
 「…………。」
 ファンカーは、再び口をつぐんだ。だが今度は空気が重くなる前に、フィムの方が口を開いた。
 「――エヘ……なんか、ヘンなおハナシになっちゃったゴメンなさい…
 「…いえ、興味深い話でした。そうですか……そのような過去をお持ちでしたか……。」
 「とにかくねっ、」
 フィムは自分が重くしてしまった雰囲気を明るくしようと、はにかみながら無理に笑顔を作ってみせた。
 「アルはね、だから……あたしの、大事なヒトなの。すっごく、すっごく、大切で、大スキなヒトなの……!!」
 フィムの回答はつまるところのろけのようなもので、ぶっちゃけた話あまり情報量はなく、おそらくファンカーが求めていたものではなかったであろう。だがファンカーがそれを聞いてどう思ったかは、やはり判らなかった。彼は穏やかな笑みを浮かべて、小さく数度頷いただけだったからだ。
 馬車は、そのままゆっくりと通りを進んでいく。時に大通りを、時にやや狭い道をと選び、街はずれの方面へと向かう。――その間、フィムは、この知り合った男性と色々お喋りをしながら移動の時間を楽しんだ。自分のこと、アルフェルムのこと、この街のこと、そして時にファンカーの事を聞き、彼の旅や仕事のことを聞き――そうするうちに、いつしか、彼女の中にあった、彼に対するわだかまりもすっかり解けたようだった。だから、1ガロスの後に、馬車が目的地――彼の、家――に着いたときには、既に彼女は、ファンカーのことを、まるでフォードやセプターと同じ種の人間だと認識するようになっていて、すっかりうち解けた様子になっていたのだった。
 やがて、馬車は通りの端へ寄り、その歩みをとめた。
 「――お疲れさまでした。到着しましたよ。」
 ファンカーがプレシマを抱えて立ち上がり、その扉を開いた。
 「――あれっ、ここ……?」
 ファンカーが扉を開いて立っているその戸口から降り立ち、周囲を見回してみてフィムは声を出した。そして、トトトッ、と数歩、道の中央の方へと歩いていって、その入り口とおぼしき門を斜めから眺めてみる。
 「――どうか、されましたか?」
 「…ウウン……その、――前に、見に来たコト、あったから……
 そう――
 その、彼らが到着した場所というのは、フィムが昨日見に来た――いや、たまたまたどり着いた――『街はずれの家』だったのである。
 その端が見えないくらい遠くまで続く白い塀、すぐ向こうにある彫刻を擁する大きな門、そしてその奥に覗く、みずみずしい芝で美しく覆われた大きな庭――
 いずれも、昨日彼女が目にして、そして憶えているそれと変わらぬものだったのである。
 「おや、前に、見に来られていたのですか?それは光栄ですね。」
 ファンカーは、驚いた、という風に笑いかけてみせた。
 「ウン……エト、昨日……その、…いろいろ…あって、あちこち歩いてたとき――たまたま、この辺にたどり着いて……そいで、大きなうちだなぁ、って思いながら見てて――」
 そこでフィムははっと目を見開いた。――昨日感じた、少しばかり恐ろしげな感覚――『目玉のオバケみたいなのがじっと見つめてたみたいな』その感覚を思い出してしまったのだ。
 「――どうか――されましたか?」
 急に押し黙ったフィムに、ファンカーは怪訝そうに尋ねた。
 「!?あっア、う、ウウンッ……な、なんでもないの
 フィムは慌てて笑いながら両手を左右に振ってみせ、そして自分の感覚を振り払うかのようにぶるぶるっと全身をふるわせた。数枚の小さな羽根が辺りに飛び散る。ファンカーは不思議そうだったが、それ以上追求はせず、代わりに手を差し出してフィムを門の方へ促した。
 彼はその頑丈な門に近寄ると、門の中央に位置している、一辺が一〇セムほどの正方形のプレートに手をかざした。と、ガチャリ、と音がして、その門がすうっ…と内側に開いた。
 「――ああ、魔法でのロックなのですよ。いえ、私がかけたわけではないのですけどね。高位の魔術師に頼んで、恒久的な魔法錠前を施してもらってあるのです。登録されている者以外はけして開けられないようになっている、というわけです。」
 フィムが目をまん丸にしていたので、ファンカーは笑いながらそう説明した。
 彼らは本館へ通じる道を歩いていった。今日はその広い庭にも、ところどころ、掃除をしたり手入れをしたりと働いているメイドの姿も見られる。彼らはよく教育されているようで、その人間社会にはとてもめずらしい訪問者を目にしても、その場で固まって枝切りばさみをとり落としたり隣の者とひそひそ耳打ちしあうようなことはなかった。代わりににっこりと笑いながら会釈が返ってくることにむしろフィムの方が驚いたようであったが、だがそれは彼女を安心させることには効果があったようであった。フィムはその幅二メムほどの白い石の通路から出ないようにしながら、左右に位置する菜園だのプールだの、そしてそれらを手入れしてかいがいしく働く世話係の姿などを目を輝かせながら眺めて歩いていく。ファンカーがそれに合わせながら、簡単に説明をする。
 「…こちらでは、いくつか野菜を作ったり、花を育てたりする予定でしてね。もうすでに何種類かは種を植えてあるのですが、まあ、芽を出すのはまだまだこれから、といったところです。――向こうは、見ての通り、プールを作ってあります。」
 「…すごーい…きれい……!!あソコも、まるで、お城みたい……!!」
 フィムは、向かって右側のバルコニーを指さして云った。扇状に二階から庭へと直接広がっている、真っ白に塗られた広い階段とその上部バルコニーの屋根を支えるように位置する四本の白亜の柱は、そういったものを見たことがないフィムにとっては確かに城とも見えるものであった。その柱の間から、これも白塗りのテーブルと椅子が、それらの間に配置された観葉植物と共に何組か覗いている。
 「右側は主にお客様をもてなすために作ったものでしてね。もっとも、天気が良くて暖かい日は私もよくあそこで食事をしたりお茶を飲んだりはしますけれどね。」
 「ふうーん……すごいんだ……!!」
 としか、フィムには言葉にならないようであった。
 彼らは正面扉にたどり着いた。ファンカーが片手でプレシマを抱えたままその扉を引き開け、手でフィムを促す。

 「うわぁ……!!」
 正面のホールに入ってフィムは声を失った。赤い絨毯と美しい木造の基調で整えられたホールは非常に大きく、そこだけでもちょっとした舞踏会ぐらいは開けそうな感じであった。大きなシャンデリアがホール中央の天井から吊されていて、そこには何本もの蝋燭が明々とともされている。正面の左右から階段がゆったりとしたカーブを描きながら二階へと続き、その中央にも赤い絨毯がずっと上まで続いている。手すりは美しく仕上げられた曲線を主調としたもので、きれいに磨き上げられており、垢一つ見あたらなかった。ぱっと見渡すだけでも、正面階段の下に二つの扉、左側にも一つ、そして二階に三つの扉があり、その奥行きの深さ、あるいは部屋の数の多さを窺わせた。
 そしてまた、その室内の芸術品の多さも目を惹いた。壁という壁には様々な絵画が飾られており、まるで美術館に来ているかのようだった。それら一つ一つが、おそらくは著名な画家の高価な品であるのだろうことはそのようなことには知見のないフィムでさえ容易に想像できた。そして――
 「……すごーい……!!」
 彼女は、自分の左右に据え置かれている剥製に目を奪われて思わず叫んだ。
 入った入り口のすぐ左右にあったのは、巨大な鷲と鷹の剥製であった。いずれも、非常に美しく仕上げられているもので、眼は鋭く光り輝いており、全身の羽根にも艶があり、まるで今にも動き出さんばかりの、一目で腕のある職人の手による仕事だと判るものだった。翼を大きく広げたその二体の剥製が、正面入り口の左右からそうして彼らを見据えている姿は、まるでこの屋敷を魔から護る守護神のようであった。そして、よくよく見てみればこのホール内には絵画ばかりではなくそういった剥製、あるいは見るからに高価そうな彫刻や置物などが多数据え置かれていた。狼や虎、あるいは白熊や鹿といった珍しい大型の動物だけでなく、正面には騎士のフルプレート一式が剣と楯とを構えた勇壮な立ち姿で組み上げられ、台座の上に据え付けられていた。その背後の壁には、ここだけは絵画でなく、何本もの剣が、二本のポールアックスが交差するように組み合わされているその下に飾られていた。少しホールの中へ足を踏み入れて左右を見れば、その入り口すぐからは死角になっている部分には美しいニンフの彫像が配置されていた。女性の柔らかい身体の線と、それを覆う薄地の布の線は絶妙で、芸術といったものに取り立てて興味を持たぬものでもそれらには目を奪われたであろう。――いずれにせよ、フィムにはそのほとんどが見たことのないものばかりで、だから彼女は目をまん丸にして、それらの飾り物たちを見つめていた。
 「――私は、美しいものが好きでしてね。だからこうして、剥製や彫刻といった芸術品を集めているのですよ。この大鷲は、少しばかり前に立ち寄ったとある都市で見つけましてね、非常に出来の良いものだったので購入したのです。――ああ、あの鎧は、これも別な都市に寄ったとき、――そこは、非常にしっかりした軍隊を持つ国だったのですけれど、そこの騎士の鎧が荘厳でまるで芸術品のようだったため、同じものをそこの鍛冶屋に打ってもらったものです。」
 「すごーい……!!」
 としか、フィムには声にならなかった。ファンカーは続けた。
 「――ここにあるのはほんの一部です。私が持っているものの中でも、気に入っているのをこの屋敷へ運ばせたのですよ。他にも色々、収集しているのですが――例えば、とある有名な竜殺しが倒した、一匹の古代竜の牙から作り上げた竜牙のナイフであるとか――あるいは、『人魚の涙』と称される、南の方のある入り江でしか産出されない大粒の桃真珠であるとか――そういった、ものたちです。幾つかはこの屋敷の展示室に飾ってありますし――ごらんになりたければ、あとでお見せしますよ――また、他の別邸や父の持つ本宅においてあるものもあります。――ですが、」
 「…………。」
 ファンカーは、左右の鷲と鷹に目を向けた。
 「やはり、一番美しいと思うのは、こういった、自然界の動物たち、ですね……あ、お気を悪くされたらすみません。同じ翼を持つあなたは、あまり快く思わないかもしれませんが――でも、こういった剥製を作る職人たちも、なにも動物たちをむやみに捕らえて作っているわけではないですし――それに、こうやって、彼らが持つ本来の姿、その自然界で永きの時を経て形成された神の美しさを、永遠にとどめておくこと――それは、すばらしいことだと思いませんか?」
 「…………。」
 フィムはほとんどそれを聞いていなかったらしく、再び左右にある鷲と鷹に目を向け、そして今度は反対側に行って、こちらも大鷲と同じぐらい大きな鷹の剥製に目をやった。そちらのそれも、反対側の大鷲同様、そのまま飛び立ちでもしそうな出来映えで、その眼光といい、羽根の輝きといい、まさに生きているそれをそのまま捕らえてきたかのようであった。彼女はその太い脚に少し触れ、その生きているとも思える感触にびくっと思わず手を引っ込めた。
 「――どうですか、本当に生きているかのようでしょう?」
 「…ホント……なんか、生きてる鳥を捕まえて、そのまま固めちゃったみたい……!!」
 「そうですね…もちろん、そんなことはないのですが、そのあたりが、剥製職人の腕ということですね……。ここに置かれている作品は、まさに至高のものです…私も、これだけ出来の良い剥製は今まで見たことがありませんでした。だからこそ私も、こうして、手に入れる気になったわけですが……。」
 「…ファンカーは、ホントに、お金持ちなんだね……!!」
 「まあ、父のおかげ、というのもありますけれどね。その意味では、私もまだまだ父に依存しているわけで――なかなか、完全に独立して、というわけではないですけれど。」
 ファンカーは少しばかり苦笑いした。だがフィムの方は先ほど同様、それにはあまり耳を貸していないようであった。彼女はもう一度、その目の前の、翼でブレーキをかけながら何かに襲いかかろうとしている鷹の翼の先に指先で触れてみて、その羽根の感触――まるで、自分の羽根を触っているような――に、もう一度ぶるっと震えて手を放した。
 「…さあ、こちらへいらしてください。二階のバルコニーに参りましょう。――ああ、これ、あなた。――と、ファンカーは、たまたま扉を開けてホールに入ってきたメイドを呼びつけた――バルコニーに、お茶とお菓子を持ってくるように。それから、料理長に伝えてください、今日の昼食はお客様を迎えることになったから、二人分にして欲しい、と。」
 呼びつけられたメイドは、かしこまりましたと深くお辞儀をして奥へと引っ込んでいった。ファンカーはそれを見届けて、フィムを誘った。
 「さあ、こちらへどうぞ。さっきごらんになった二階のバルコニーへご案内します。そちらでお茶でも飲みながら、しばらくお話でもしましょう。そうこうしているうちにお昼になるでしょうから、そこでお約束通り、昼食をごちそうしますよ。」
 彼はプレシマを腕の中に抱えたまま、向かって右側の階段を、フィムを導きながらのぼっていった。フィムは依然、室内の様子をキョロキョロと見回しながら彼についていく。二階へたどり着いた彼はそのまま右へ回り、壁沿いに続く通路を歩いてバルコニーの方へと向かった。フィムはその後に従って、右手で手すりを持ったままクルリ、と身体の向きを変えてその回廊へ乗り、そして壁に掛けられている幾つもの絵画をそのたびごとに覗き込みながら歩いていく。
 「こちらです。」
 彼は扉の前で立ち止まると、それを開いて彼女に中に入るように促した。
 「…わーっ……!!」
 室内へ足を踏み入れたフィムは、再び驚きの声をあげた。
 そこだけで彼女が住んでいる部屋の十倍はあろうかという広い部屋、その中に何組かの椅子と机がゆったりと並べられている。扉と反対側は一面ガラス張りになっていて、バルコニーの様子、白亜の柱と、明るい庭がよく見える。そのバルコニーには、いくつかの観葉植物か配置されることは既に述べたとおりであるが、室内にも、これまた数鉢の植物がところどころに置いてあって、客の心を和ませる役目を果たしていた。壁にはホール同様、緑の景色を描いたものや花、女性の絵画が飾られていて、部屋の雰囲気を温かいものにするのに一役買っていた。
 「さあ、外へどうぞ。」
 ファンカーはバルコニーと部屋を隔てるしきりとなっている、天井から床までの大きなガラスの扉を開けた。――この時代、ガラスはそれなりに普及していたが、しかしこれほどまでに大きく、そして反対側の景色が全くひずむことのないむらのないガラスは相当値の張るものであるに違いない。いったいこの家を一棟建てるのに幾らかかったものなのか、フィムには全く想像もつかなかったであろう。
 だがとにかくフィムはそうしてファンカーが開けてくれたガラス戸を通り抜け、バルコニーへ出た。
 バルコニーは明るく、柔らかい光で満たされていた。見れば、そこを覆っている天井は磨りガラスで出来ており、それが太陽の光をほどよく分散して間接光を投げかけているのであった。――その天井と床とを繋ぐ白亜の柱の間から庭を見渡すと、その眺めはまるで本物の神殿にいるかのような錯覚を起こさせた。扇状にゆったりと広がる真っ白な階段を一歩ずつ下ることは、フィムを下界の者に神託を告げるため降り立った天使のような気にさせたであろう。そして彼女がまったく汚れのない純白の翼を揺らしながらそこを一歩ずつ降りていく姿はまさにその通りであった――アルフェルムでさえも、もしこの場にいたら、その姿を見て一瞬息を呑んだかもしれない、それほどまでに美しいバルコニーだったのだ。
 「こちらへどうぞ。」
 階段の中程まで降りていき、目を見開いたまま庭を見渡していたフィムにファンカーがバルコニーから声をかけた。フィムは呼ばれてようやく気づき、そしてその階段をトトトッと小走りに駆け上がり、彼が引いて待っていた椅子に腰掛けた。ファンカーは彼女が座るのを確認してその反対側に座る。
 「――おっと……あなたの方は少し退屈してきましたか?」
 ファンカーが座るとほぼ同時にプレシマがもぞもぞと動いて彼の膝の上で立ち上がり、トン、とバルコニーの上に降り立った。そして地上からファンカーをじっと見上げる。
 「いいですよ、お散歩に行っていらっしゃい。あまり遠くへ行かないように、気を付けて、ね。」
 プレシマは『ニャ』と小さく彼に向かって鳴いた。そしてフィムのところへ歩み寄り、彼女の脚に何度か身体を擦りつけると、階段に向かって歩いていき、最後にもう一度二人の方向を首だけ回して振り向いて『ニャ』と鳴くと、あとは軽い足取りでその階段を駆け下りていった。
 「行ってしまいましたね。気まぐれなものです。」
 「エヘヘ…ケド、プレシマ、ほんとカワイイねっあのコ、あたしの脚にスリスリしてくんだもんっきゅーんってなっちゃったのっ
 「フィムさんはすっかり彼女のお気に入りになってしまったようですね。」
 「へへ…ウレシイなっ
 そんな話をしていると頃合いよく、彼らが通り抜けた部屋にワゴンを押してメイドが入ってきた。メイドはバルコニーへ出ると、ワゴンの上に載せてあったティーカップを彼らが座っているテーブルに並べ、ティーポットを置き、そして何種類かのクッキーや小さな砂糖菓子を手際よく配置していく。
 「――どうぞ、ご自由に、お好きなものを取って召し上がってください。」
 メイドが最後に呼び鈴を置いて一礼し、ワゴンを押しながらその場を立ち去った後、ファンカーはフィムに手をさしのべて促した。…とは云うものの、フィムの方はこんな風に優雅な席に招かれたことはなかったから、菓子の方へ少し手を出してひっこめ、戸惑ってちらちらとファンカーを見、そして困ってうつむいてしまった。ファンカーの方はそれを見て察し、笑いながら言葉をかけた。
 「…どうぞ、お気になさらないで。――いえ、私が取りましょうか…どれがよろしいですか?」

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