『ああ、慈愛の神は、どうしてこんなにもきまぐれなのでしょう。
  彼女がそうでさえなければ、世の中は、もっと幸せな男女であふれているでしょうに――。』
                      アリア『王女ディオンの恋の嘆き』第五章より





 「アルっ
 元気な声を上げて、開け放たれていた扉からその室内に飛び込んできた少女がいた。
 白翼の少女――フィムである。
 冬はすっかり過ぎ去り、空気も充分温かくなり、野原には色とりどりの花々が咲き乱れ、街中でもあちらこちらに蝶が飛び交い――子供も大人も、ふだんなら塀の上でまるまっている猫たちも、このあたたかく心地よい風と日差しに自然その動きも活発になる春である。
 「――ああ。」
 アルフェルムは、板張りの床に座り込んで、これまで幾度となく彼の身を守ってきた愛用の部分鎧を磨いていたのだが、その手を止めて顔を上げた。
 今日はこれまでの日々の中でもとりわけ気温が高かった。時間がアレグゼ二と昼過ぎであったこともあり、彼女は随分薄着をしていた。上はシャツの上に生地の薄い、柔らかい襟付きのデニムを前を開けてルースに着、下は太ももの中間辺りまでの薄い半ズボンと、脚の付け根までのストッキングという格好であった。彼女は食事を一階の食堂でいつものようにアルフェルムととった後、彼がなにかを主人と話し込んでいた時に通りへ出て、その柔らかな日差しと、何処からともなく運ばれてくる花か何かの甘い匂いをしばらく楽しんで、そして中へもう一度戻り、アルフェルムがもう話を終えて上に上がっていってしまった――らしかった――ので、自分も階段を駆け上がってきて、こうして室内へ戻ってきた、というわけなのである。
 「ねっねっ、アルっ、おでかけしようよっあのねあのね、行きたいトコあるのっ街のね、一番はずれの所にね、大きな家が建ったんだよっ。そばまで行って見てみたいの
 彼女は、こちらも気持ちのいい風と匂いに少なからず浮かれているのだろう、アルフェルムが彼女を置き去りにしていったことも気にせず上機嫌のまま彼のそばへ歩み寄った。
 「――ちょっと、今日はだめだ。また今度にしろ。」
 「えーっ……そんなのつまんないよォ……。」
 しかしながら、その言葉を聞いた彼女はいつもながらの表情切り替えの早さをみせてすぐにぷうっとふくれ、眉をひそめて彼女はわきへしゃがみ込んだ。
 「なにしてるの……?」
 「見ての通りだ。パーツを磨いとるんだ。」
 「でも、今すぐしなきゃいけないことじゃないんでしょ…?あとにして、おでかけしようよォ……。」
 「ダメだ。云わなかったか?今日はもう少ししたらギルドへ行って、荷物運びを手伝わにゃならんのだ。新しい訓練用の設備が入るから、それを設置したり片付けたりするのを手伝ってくれとボーンに云われとるんだ。」
 「えーっ……そんなぁ……。」
 フィムは眉をひそめ、唇を突き出して抗議したが、アルフェルムはさらに追い打ちをかけるように続けた。
 「だいぶ前から云われとるんだ。それに、今日のはちゃんと報酬が出ることになっとる。…大した額ではないがな。だから、今日はだめだ。」
 「でも、だからって、今それ磨かなくてもいいじゃないっ……!!」
 「そういうわけにもいかん。わかっとるだろう?明日は一つ、日帰りの薬草採取の仕事が入っとるんだから。――しばらく、鎧を整備しとらんかったから…ヘタにひびだの欠けだのがあると、生命にかかわる。」
 「――でもでもっ、アル明日のは、そんなにタイヘンな仕事じゃないってっ……!!」
 「大変な仕事じゃあないが、何かろくでもないものに出遭わんとも限らん。大体、山賊だの野犬だのはそうやって手を抜いた時にえてして現れてくれるもんだ。――明日の仕事のことは、だいぶ前から云ってあっただろう?」
 「だから、今行こうっていったんじゃないっ…!!――アルってばっ、明日の仕事、連れてってくれないって云うしっ……ホントは、一緒に行きたいのにッ……!!」
 フィムの云い方がだんだんと非難を含んだそれになってくる。アルフェルムの方も、自然、口調が荒くなる。
 「高低の激しい山の中で頼まれとる物を全部探して見つかるまで歩き回るんだぞ。お前みたいな体力のないのを連れてそんなところをあちらこちら歩き回れんだろう。それに、どうせその日のうちに帰ってくるんだから、人数は少ない方がいいんだ。――馬の負担だって無視出来ん。道中片道五ガロスだぞ。それくらいはガマンして街で待ってろ。――だいたい、前にも云ったように、俺は本当はお前を連れていきたくないんだ。お前を護らにゃならんし、それに仕方ないとは云え、お前に怪物だのなんだのを殺す場を見せるのは――」
 「そんなこと今云ってるんじゃないもん!!」
 フィムは思わずバン、と横の床を平手で叩いた。
 「もういいっ!!アルのバカッ!!」
 フィムは目を少しばかり潤ませてすっくと立ち上がり、くるりと背を向けると、どんどんとその足音を響かせながら再び部屋の入り口から出ていった。そのまま階段をどすどすと、ものすごく迷惑な大きな音を立てて降りていき、そして階下でなにか、あるじに話しかけられでもしたのだろうが、大きな声で何か叫ぶのが聞こえ――あるじには、不幸な話であった――そして最後に、おそらくは通りから聞こえるようにわざと大きな声で『呟いた』のだろう、もう一度『アルのバカッ!!』という声が開け放たれていた窓から飛び込んできて、それでようやく静かになった。
 「……まったく。」
 わがままなやつだ、とアルフェルムは考えながら、舌打ちをした。そして彼は作業に戻る。――フィムが彼のもとに来て一年以上の時が経つ。そろそろ、彼女の方も彼に対して遠慮もなくなってくるし、自然、意見の食い違いから口論することも多くなってくる。そう――最初の頃、すなわち一年とすこし前の冬――彼が、彼女を、その苦悶より救い出してやったころ――当時は、彼女もたいへんおとなしく、殊勝でかわいらしかったのだが、最近はやれどこそこへいきたいだの、やれ退屈になってきたから相手をしろだの、とにかく彼が部屋にいるときはいっときたりともじっとしていようとしないのだった。アルフェルムの方は、それほどあちこち出歩くたちではないから、訓練や仕事のない時はわりと部屋にいることが多い。それは、休むときには休んでおいて明日来るかもしれない緊急の依頼に備えるという意味でそうしているのだが、そんな彼だったからフィムの要求をつっぱねることも多く、それが彼女を更に膨れさせるということもしばしばであった。
 「――さて。」
 そうこうするうちにアルフェルムは全ての部分鎧の手入れを終え、それらを部屋の隅へと置いた。これまでの働きを示すように小さなひっかき傷やへこみなどは無数にあるが、今見た限りでは特に金属疲労やかけやひびなどといった致命的なものは見当たらず、特に問題なさそうであった。窓からの光を受け鈍く黄銅色に光るそれらは、明日も彼の四肢を、体躯を覆い、彼を守る楯となるに違いない。そう――これまでも、幾度となくそうして彼の生命を、邪悪な凶刃や魔物の毒牙から救ってきたのだから。
 「そろそろ、行くか…。」
 アルフェルムは、ベッドの方へと歩いていって、その枕元の、物置台に置いてあった剣を手にとり、鞘の留め金をズボンのベルトに留め、更に鞘についているもう一本の革ベルトを腰の反対側に回して留め帯剣した。いつも街に出るときには身に着けていく、刃渡り50セムほどの短めの剣である。もっとも、ここヴァンはバルザに向かう者たちが経由しはするが、それほどたくさん行き来するというわけではないし、荒くれ者たちが集まってくるというわけでもない。だから、どこでもそうであるように公の護民兵たちがいいかげんな仕事しかしていなくても、幸いこのヴァンでは街中で剣を振るわなければならなかったようなことはこれまでなかったのだが。
 彼は窓を閉め、そのかんぬき式の錠をしめた。そして一度ぐるっと部屋を見回すと、そのまま扉の方へ向かい、扉近くのたんすの上に乱雑に置かれていたままの薄めの上着を無造作にはおると、扉を後ろ手に閉め、そのまま部屋を出て行った。



 外に出ると、日ざしがある分室内よりもあたたかだった。春特有の色々なかぐわしい香りを含んだ、シルフのダンスとも形容される柔らかい風が頬をなでて優しく吹き去ってゆく。いくつかこの辺りにある、小さな店を営む人々の声も自然と大きく、明るくなるようである。アルフェルムは、何人か彼に挨拶をかけてきた顔なじみのそんな人々に軽く手を上げて応じながら、通りをギルドへと向かって歩いていく。
 ギルドは、彼の宿から歩いて約三十ロス程度、距離にして約二キムの所にある。アルフェルムは、いつもなら傍らに白い翼の天使を従えて歩く道のりを、そちらへ向かってゆっくりと歩いていく。約束の時間はアレグゼ四であったから結構な余裕があると思われたし、だからこんなところで急いで、向こうへ着いた途端汗だくというのもかなわない。どうせ向こうで汗だくになるのだとしても、である。
 「――いよう、アル公。」
 彼が交差点を左へ回ったときに、背後から声がかけられた。彼が振り向くと、シルバーの髪をオールバックに上げた、がたいの良い男が笑いながら歩み寄ってきた。
 「――ああ、セプター。」
 そう、セプターであった。彼も今日の運搬作業には呼ばれているのである。彼の方も、汚れてもいいような運動用の半そでシャツと生地のだぼっとしたズボン、上着としてわりと薄めの、長袖の上着を着て来ていた。
 「今来たところか?」
 「そうだ。」
 「…嬢ちゃんの姿が見えんな。ケンカでもしたか?」
 「――散歩にいきたいと云い出したのをつっぱねたら、膨れて飛び出していった。」
 アルフェルムは小さめのため息をついて云った。
 「まったく、日増しにワガママぶりに拍車がかかっていきやがる。困ったものだ…。」
 「なんだ、それで別れたきりか?」
 セプターは笑いながらそう云った。
 「別れるもなにも、床を叩いて出ていった。」
 それを聞いてセプターは大きな口を開けて笑った。
 「――笑いごっちゃない。」
 アルフェルムは若干むっとした響きを含ませた云い方でそう云った。
 「しかし、つっぱねたのはお前だろう?」
 まだくっくっと笑いをこらえながら、セプターは云った。
 「そうなんだが。」
 アルフェルムはふうっと、今度は大きく嘆息した。
 「まあ…一回りすれば、機嫌も良くなって戻ってくるだろう。――それより、」
 アルフェルムはそれ以上フィムの話を続けるのが面倒臭くなって、話を切り替えた。
 「今日は、フォードは来んのだったか?」
 「ああ、野郎は今日はパスだとさ。」
 セプターはようやく笑うのをやめ、代わりに右手の小指を立てて、手を何回か捻ってみせた。
 「――お盛んなこったな。この前の仕事のあともそうじゃなかったか?」
 「あの時のとはうまくいかなかったんだと。で、今度はこないだ行った酒場のおネェちゃんの尻をおっかけとる――。」
 「なんとまあ…元気なことだ。」
 彼らは更に右へ曲がり、大きな通りへ出る。ここから十ロス弱の所にギルドはある。目抜き通りというわけではないが、この通りはヴァンにいくつかある、街中を縦横に走る大きな通りのうちの一つであるから、ここらあたりまで来ると人通りも割と多く、店の並びも多くなる。アルフェルムはご存じのようにかなり体格はよく、身長も二メムに届こうかというほどもあり、横幅も戦士のそれにふさわしくたいへんがっしりしていたし、セプターの方もアルフェルムほどではないにせよこちらもそんじょそこらの男どもよりははるかに良い身体をしていた――難を云うなら、若干横方向に広かったことは事実だが――から、そんな中を彼らが二人そうして歩いていくと人ごみの中でも相当目立つ。――もっともそれでも、翼を持つフィムがそばにいるいつものことを考えればそれほどでもなかったのだが。
 「――おっと……もう来てるみたいだぜ、アル。」
 「…そうだな。」
 彼らは、遠目にギルドを確認できるようになった頃、顔を見合わせてそう云った。見馴れたギルドの建物の前に、荷物運搬用らしい、ほろをかぶった荷台の大きな馬車が二台ほど止まっていて、そこからたった今下ろされた所らしい幾つかの木箱やら麻袋やらが無造作に地面に置かれている。何人かの人物が後ろの荷台の上や馬車の周りで忙しそうに動き回っていて、どうやら今まさに彼らが積荷を下ろしているところのようである。
 「えらく早んじゃないか?まだアレグゼ四は鳴ってないと思ったが…。」
 「ふむ…まあ、向こうが予定より早く着いたのだとは思うが……。」
 彼らは小走りにギルドへ向かう。何人か、見たことのある顔の者たちが入り口の、両開きの戸を押し開けて出てきて、木箱を一つ重そうに抱えて、よたよたしながら中へ入っていく。
 「ご苦労さん。」
 セプターが、外で積荷下ろし作業をしている者たちに一言かけると、その声に気づいた数名は彼らを見て軽く頭を下げた。その脇から、アルフェルムがまずとにかくボーンに一言挨拶しようと入り口をくぐろうとしたときである。
 「きゃっ!?」
 どん、とその入り口からいきなり現れた何かがアルフェルムの胸に勢いよくぶつかり、さしもの彼も思わずよろめいた。
 「いた……。」
 見れば、入り口のすぐそばで、尻もちをついている女性がいた。顔をしかめて尻をさすっている。――アルフェルムの方は、さすがというか、多少ふらついただけですぐに状況を理解した。
 「――ああ、すまん……ちょっと、急いでいたのと、よそを向いていたんで…気づかなかった。大丈夫か?」
 彼は女性に向かって手を差し伸べた。
 「い、いえ……私のほうも、急に飛び出したから…すみません。」
 彼女はアルフェルムの手を取り、立ち上がった。


 (……ふむ……?)
 アルフェルムは鋭い目で、両手で尻をはたいている彼女をじっと見つめた。
 このあたりではあまり見られない、赤い髪を持つ女性である。いや…今改めて顔を見ると、女性、というにはまだ若い、むしろどちらかというと少女の面影の方が強く残る顔立ちである。しかしながら、ぱっと見た最初の感じでは、やや田舎くさい印象を与えなくもなかった。眉間から鼻上部にかけてと頬にはそばかすが残り、それとそんな若い少女がつけるには分相応に大きな黒ぶちのめがねが彼女を垢抜けなく見せるのに一役買っているようである。やや固そうなその髪は後ろで左右両側に三つ編みにされていて、長さは腰のあたりまであったが、控えめに云ってもあまり似合っているとは云えなかった。衣服のほうも、むしろもっと年季のいった『おかみさん』タイプの女性が着るような、生地の厚くぼてっとした長袖の上と、くるぶしまでをすっぽり隠すやぼったい長いスカートという組み合わせで、あまりセンスが良いとは思えなかった。むろんそんなであるから、光物の一つさえもその身につけている様子はなかったし、まあそれは良い意味で云えば質素であったということなのかも知れなかったが、しかしそれにしてもそのくらいの若い女性がまったくおしゃれに興味を持たないということは、それはそれで問題であると云えたであろう。
 「すまんな。眼鏡が曲がったりしなかったか?」
 「ええと……大丈夫……だと、思います……。」
 彼女はそのつるを両手で持って眼鏡を少し顔の前へ出し、目を細めるようにして何度かフレームを確認し、答えた。――その様子から、その若さにもかかわらずかなりの近眼のようであった。
 「あの……本当に、すみませんでした。これからは、もっと注意しますから……。それじゃ、失礼します。」
 彼女は眼鏡を着け直し、両手を前にそろえてペコリ、と深く頭を下げると、そのまままるでそこから逃げ出すかのように、三つ編みを振り回しながらそそくさと走り去っていってしまった。
 「こらこらアル公、ああいう女の子を苛めちゃいかんなあ。」
 セプターが笑いながら彼の肩を叩く。
 「…馬鹿を云うな。――しかし…こんなところに来るには、あまりふさわしくもない女性のようだったが……。」
 「そうでもないだろう。確かに、彼女が冒険者ではないのは間違いないとは思うが……だがまあ、何がしかの依頼をしに来たのかも知れんしな。――もっとも、あの感じでは、少なくともこういうところには馴れとらんな。」
 「うむ……。」
 彼らはしばらく彼女が走り去った方向を見つめていたが、再び彼女が現れるわけもなく、そうしていたずらに時間を無駄にしていても仕方がないので入り口をくぐった。
 「…ボーン。」
 カウンターの向こう側でこちらに背を向けてなにか棚の書類を調べていた、背の低い頭の禿げた男にアルフェルムは声をかけた。
 「――ああ、アルフェルムか。」
 彼は振り返り、彼らに気づくと手に取っていたファイルを閉じ、にっと笑った。セプターがアルフェルムの後ろから彼に向かって親指を立て挨拶する。ボーン・ブースト、禿げた頭と伸ばした顎髭が印象的な、ここヴァンの冒険者ギルドの長である。
 「荷物が少しばかり早めに到着してな。まだ何名かは来とらんのだが、先に始めてもらっとるよ。」
 「――今さっき、女性が一人出ていったようだったが……。」
 「…ああ、メガネの嬢ちゃんだろう?」
 「何をしに来ていたんだ?」
 アルフェルムはカウンターに手をついて訪ねた。
 「うむ…人捜しの依頼、ということだったんだがな。」
 ボーンはあごにたくわえた髭を撫でた。
 「人捜し?」
 「うむ、数日前から弟が家に帰ってこない、ということでな……捜索の依頼をということで来ていたが、どうにも情報不足でな――しばらく前から弟が見あたらない、とにかく探してくれと。――だが、そうは、云われてもな……我々ギルドとしては、何か新しく発見した遺跡の探索だとか、害になるモンスターどもの退治だとか…そういうのにはいくらでも応じられるが、まったくなにもわからんのをいきなり調べろと云われてもな……。」
 「断ったのか。」
 「断ったというのは響きが悪いな。」
 ボーンはポケットから煙草の箱を出し、一本取り出して足元の火鉢からそれに火を着けた。
 「説明をしたんだ。もう少し詳しい情報をくれと。単に行方不明の者を調べるというだけでは範囲も広すぎるし、時間も無駄になるから高くつく、とも云ってな。そうだろう?そりゃ、金や時間に糸目をつけんのならいくらでも調べてやるが……大概の依頼はそうじゃない。幾ら以内で結果を出せだの、いつまでに一通りの報告をしろだの、いつだって勝手なものだ、依頼者どもはな。――まあ、だからこそ我々が食っていけるんだが。――と、ボーンは唇の端をつり上げて皮肉そうに笑って見せた――だが、それを聞いたらやっこさん、一言『そうですか』と言い残して頭を下げたっきり、そのまま引き下がって出ていっちまった。…どうも、なかなか、こういうことには馴れとらんお嬢さんのようだったな。」
 「…………。」
 「――まあ、何があったのかは知らんが……まずは、国へ捜索依頼を出したらどうだと……とりあえずは、な……まあ、公の、ろくでもない連中がどこまで動くかは知らんがな……その上で、ある程度情報が集まったら改めてこちらへ依頼に来てはどうかと、とにかくそれだけは説明したが、どうも顔色からは、あまり聞いている様子はなかったな。――何というか、頭の中が弟のことで一杯だったというか……心ここにあらず、という感じではあったな。」
 「…………。」
 ボーンがふうっと、煙草の白い煙を吐き出した時、アルフェルムは眉を曇らせたまま、唇を一文字に結んでたたずんでいた。ボーンはやや不審に思って訪ねた。
 「どうした?何か問題か?」
 「いや……。」
 アルフェルムは言葉を吟味するようにゆっくり、一言ずつ口に出した。
 「――そうか……弟が……。…どうにも、浮ついた感じだとは思ったが……。」
 「…そりゃあ、力になってやりたいのは山々だがな。」
 ボーンは扉を尻で押し開けて重そうに木箱を運び込んできた何名かのギルドのメンバーを見つめながら煙草をふかした。
 「だが……こちらも商売だ。偽善事業でやってるんじゃねぇ……ほとんどゼロに近い情報から、人一人を見つけだせというのはな……それなりに時間も、そして云うまでもなく金もかかる。――自慢じゃねェが、このヴァンの冒険者ギルドは、バルザの中央ギルドのように人材が豊富だとは云い難ぇ。おめェにセプター、それにフォード、ヴェリアスの四名を除いちゃあ、他に頼れるのはいくばくもいねェ。…神の加護を受ける白魔法の使い手すらほとんどいやしねぇ、だから毎回のクエストも危険になりがちだってのが実状だ。…そんな、ゼロから結果を出さにゃあならんような依頼では、おめぇらをつぎ込むにせよ他の連中をつぎ込むにせよ、いずれでもその費用もかさみがちになるのは避けられねぇしな…それよりもその前に、もっと安く収まるだろう他の方法を探した方がいいと提案するのは薄情か?」
 「…………。」
 それには、アルフェルムは応えなかった。
 「――ま、そんなわけだ。冷たいようだがな、それでも必要なら、あの嬢ちゃんも再度依頼にも来るだろうし……そうでないなら、――国に調査を依頼してそれでなんとかなるのなら――それに越したことはないだろう。……我々ギルドとしては儲からん、勿体ない話ではあるがな。」
 「…………。」
 アルフェルムは依然、何かを考え込むように愁眉していたが、それは背後からかけられた大きな声でうち消されることとなった。

 「アルフェルム!!」
 聞いた声に振り向くと、そこには彼らと同じくらい体格のよい女性が、額に汗を光らせながら立っていた。乱雑に短く切られた、その中央部分だけが炎のように赤い金の髪がまず最初に目に飛び込む。まるで狼のように鋭い目が、アルフェルムを突き刺すように見据える。着ているものは大変簡素な、シャツとズボンのみ、という格好で、春先だというのにあまりに薄い袖のないシャツから覗く肩と腕にはっきり見える筋肉はそれこそアルフェルムに勝るとも劣らぬように盛り上がっている。ヴェリアス・アクティ、たった今ボーンの口から出たこのギルドの誇る戦士の一人である。
 「――ヴェリアス。」
 彼女は腰に手を当て、セプターを一瞥して、再び視線をアルフェルムに戻した。
 「なにこんな所で油売ってんだよ。くだらねェこと喋ってねェで、とっとと手伝いやがれ。」
 「…ああ、すまん。すぐ取りかかる。」
 「悪ぃな、ヴェリアス。ちいっとばかり気になることがあってな。」
 セプターが笑いながらフォローする。
 「なんでもいい。荷物は前に停まってる二台分だけじゃねェ、まだ馬車数台分はあるんだ。とっとと取りかからねェと、日が暮れても終わらねェぜ。」
 ヴェリアスはそう云って、いつもとは少し違う何かに気がついて続けた。
 「――フン、今日はいつもの鬱陶しい鳥娘は連れてこなかったようだな。」
 「フィムなら、今日は勝手に飛び出していったからな……連れて来んというか、――今頃、どこかをほっつき歩いとるだろう。」
 「けっ……あんなヤツ、いねェ方がいいんだよ。」
 ヴェリアスは腕組みをして、吐き捨てるように云った。
 「――どうにも、お前らはうち解けんな。」
 アルフェルムは苦笑いした。
 「俺としては、お前もフィムも、うまくやってくれる方が助かるんだが。」
 「オレは剣を振るって頼りになるヤツ以外は信用しねェ。」
 ヴェリアスはフン、と鼻を鳴らした。
 「おめェと、フォード、セプター、それに他の数名の奴ら以外はオレは信用してねェ。」
 「ありがたいこってすな。」
 セプターがぼそっとつぶやいて肩をすくめたが、ヴェリアスはそれは気にとめなかった。
 「だいたい、おめェが何で毎回あの小娘を連れてくるのかオレは理解できねェ。どう考えても邪魔以外の何者でもないだろうが。魔法を学んでる訳でも、神に仕えてる訳でもねェ……さりとて、剣が握れるわけでもねェ。だいたい、おめェはこの間、ヤツのせいでその背にひどい怪我を――」
 「…その話は、するな。」
 アルフェルムはやんわりと、しかし反論する余地を与えない口調できっぱりと云い放った。
 アルフェルムは、ほんの数ヶ月前、その背に大怪我を負った。滅多な事では怪我などせぬ、かつ与えられた仕事は必ずこなす、いわば『ヴァンの切り札』であるこのパーティから怪我人が――それも、死に至るような大怪我の――出たことはこのヴァンのギルド登録員のみならず一般の市民の間にも大きな動揺を与えたが、とにかく彼らは、与えられた目的こそ達成したものの、今でさえその背に大きな傷を残すアルフェルムの大怪我、という代償を支払うこととなったのだ。その結果に至った経緯としては、多くは語らぬが、とにかくアルフェルムがフィムをかばい、そして巨大なボーン・ゴーレムの凶刃(ファルシオン)を、一つの部分鎧さえ着けておらぬ状態でその背に受けることになったのである。彼はその驚異的な生命力と回復力でもって、どうにか死の淵から以前と全く変わらぬ――あるいは、以前以上の――状態にまで回復しこそしたが、それにしてもフィムは自分のせいで愛するアルフェルムを傷つける結果になったというそのことを大変気にしていて、ともすればあれからずいぶん時間もたっているのに話している途中に、あるいはその背の傷跡を目にしてすぐにまた瞳を潤ませてしまうのであった。そんなだから、アルフェルムの方もそのことを彼女に思い出させないようにするために、それこそ針の穴に糸を通すように常時神経を張りつめていたのである。
 「――オレは、認めてねェからな。」
 ヴェリアスは、だが、こちらも譲らぬといった口調で、鋭い眼光を放ちながら云い切った。
 「理由はどうであれ、おめェがあの事件で死にかけたのは事実なんだ…ヤツのせいでな。ヤツさえいなけりゃ起こらなかった!!――オレは、理由はどうであれ、パーティのメンバーを危険にさらすようなヤツは――」
 「ヴェリアス。」
 アルフェルムの口調が、はっきりと怒気を含んでいたので、さしものヴェリアスも思わず口をつぐんだ。
 「――云いたいことは解る。だが…その話はするな。俺とフィムとの間では、その話はもう済んでいるんだ。」
 「――オレとてめェの間では済んでねェ。」
 ヴェリアスは、なおも意地を張ろうとした。だが、アルフェルムの眼の奥にたたえる炎のような光にはっきりと気圧され、彼女は無意識のうちに目線をそらした。
 「…とにかく、その話はもう終わったことだ。これ以上ぐずぐず云うな…さあ、ここでこうしていても仕方がない。荷物を運ぶぞ。」
 アルフェルムは大きく息を吐いて数度首を横に振ると、それ以上その話をする気はないとばかりに、その向こうで威勢のいい声が聞こえてくるギルドの入り口へ戻っていった。



 「……アルのばか。」
 フィムは、足元の小石をこつんとけ飛ばした。
 彼女は、いつものように笑顔で穏やかに行き先を尋ねてきた宿の主に『そんなのわかんないもんっ!!』と大変迷惑な返事をして彼をおびえさせた後、宿の前の通りから『翔び立ち』、そして上空ではさすがにまだ寒さの残る空中飛行を無理矢理に楽しんだ後、宿からはかなり離れた、むしろ街の端に近いとある通りに降り立ち、まだこみあげてくる不満をそうやって小石や敷石にぶつけていたところであった。
 この辺りは、さすがに中心からかなり外れていることもあって、家々はそれでも多く立ち並ぶものの商店や食堂などといった店舗はあまりなく、控えめに云ってもかなりへんぴなところであった。おそらくは中央の方へ、あるいは逆に街の外の麦畑へ働きに出る者たちが多いからなのだろうが、足元の敷石も、ところどころ欠けが発生している石もあったりして、祭りが終わった後の通り、あるいはその人の姿だけがある日忽然と消えてしまったという物語にある伝説の街そのもののようなさびれた雰囲気を思わせる。もちろんそこはそうではなくて普通に人は住んでいたし、時折野良猫がのっそりと通りを横切って建物と建物の隙間の路地に入り込んでいったり、また開いているいくつかの家の窓や扉からその中で家事を行っている女性の姿が見えたりもしたが、それでも大部分はその扉を固く閉ざしていて、だからその小さめの通りは大変静かであった。
 「…アルのばか。」
 フィムは、もう一度小さくつぶやいた。彼女にしてみれば、たとえたった一日と云えど、それもおそらくは早朝から深夜までまったく彼の姿を見ることができない明日という一日は、一年にも匹敵するような、大変につらい、やきもきする時間になるに違いないのだった。だからこそ、今日この暖かい、気持ちのよい時間に彼と出かけて、少しでも彼と一緒にいる時間を楽しみたかったのだ。明日の、長く寂しい一人の時間を、少しでも紛らすためにも。
 「――連れてってくれても、いいのにっ……。」
 フィムは、うつむいたまま、のどの奥からこみ上げてきたものをもらした。
 ――もっとも、彼女も、アルフェルムの云うことはよく解るのだ。彼女が、歩くことが主となるその仕事に重荷となるだろうこと、馬への負担、また根本的に、彼にくっついていくことそのものが、彼や、他のメンバの負担も、危険さえ底上げしていること――そしてそのために、最愛の人に、ひどい怪我を負わせてしまったこと――彼の云うことはまったくもって正しかったし、それが第一に彼女の身を案じてのものだということも解る。そう、頭では解っているのだ。だが――
 「――そんなの、わかってるもんっ……。」
 フィムは思わず、声を荒げていた。――結局、一八とはいえ、種族的な寿命の違いもあって、彼女はまだまだそれを理解し己を制御できるほどには精神的に熟していなかったのだ。
 彼女が、うつむきながらとぼとぼと歩いて、いくつめかの角を曲がったとき――
 「――あ……。」
 ふと、何の気なしに顔を上げたその目の前にあったのは、偶然にも、彼女が見たいと、一緒に見に行こうとアルフェルムにもちかけた、彼女自身が『街の外れに建った』と云ったその家だったのである。
 家それ自体は高い塀と、鷲かなにかの彫刻を門柱の上に擁する立派な門に囲まれていて、はっきりとその内部を窺うことはできなかったが、それでもその塀の上に覗く建物の上部を遠目に目にすることは出来た。建物は大きく三つの部分に分かれていて、正面がおそらく本館、左側に見える、渡り廊下で繋がれている少し小さめの建物部分が別館となるのだろう。本館に接するように建つ右側の部分は、客を迎えるためのものかはたまた主の趣味から来るものか、全体的に白亜の壁で作られていて、まるで神殿を思わせるような作りになっている。その上部はバルコニーとなっており、何本かの白亜の柱の間にいくつもの観葉植物が置かれていて、いくつか早春に咲くようなものもあるのだろう、白と緑の中にいくらか桃色の、あるいは黄やオレンジといった鮮やかな色も見られた。残念ながら今はそのバルコニーの大きな窓にはぴったりとカーテンがかけられていて、内部を窺うことはできなかったが、それでも豪奢なつくりであろうことはよくわかった。それ以外の、本館、別館、また渡り廊下に備えられている基本的に上部が丸く下部が方形の窓にはカーテンはかけられておらず、それは窓の両側できちんと結ばれていたが、内部は暗く、そこからではなにか特別なものを見ることは出来なかった。
 「…………。」
 フィムは、もっとよく見てみたくて足早に門に歩み寄った。鉄で造られたしっかりとした、彼女の倍近い高さのある門はぴったり閉ざされていてびくともしなかったが、それは格子状の作りであったから、そこから内部をのぞき見ることは出来た。
 「…………。」
 フィムは両手でその門の格子をつかむと、隙間に顔をつっこむようにして内部をのぞき込んだ。内側は想像していたよりもかなり広く、左右は塀から塀まで数百メムほどもあり、庭でちょっとしたパーティや、ダンス大会さえも行えるほどであった。また門から本館までも数百メムほど離れていただろうか、その間は途中で一度右に、そしてすぐに左へと折れる真っ白な石の通路が延びている。庭は基本的に芝が敷かれていたが、通路の右側には水色のプールが、左側には何かが生けられているのであろう黒い土の菜園を見ることが出来た。ぱっとみただけでもはっきりと手入れがされていることがわかる雰囲気で、芝もきちんと短く刈られていたし、右側のプールも遠目にさえ綺麗な水色に光り輝いている。残念ながら菜園の方はまだ早春ということもあって何かが咲いているとかいうことはなかったが、黒々とした土は明らかにきちんと手が加えられているということを示していた。また、菜園の向こう側に植えられている木々の枝には小さな桃色のつぼみを見て取ることが出来た。つぼみを有する木々は塀沿いに門の横から奥までずっと並ぶ木々の一部、菜園のちょうど向こう側で、何本かごとに種類が変わっているようであったからそれらは季節によって次々と花が咲いていくようにあらかじめ計算されて植樹されているのだろうと思われた。一方でプール側は、その向こう側にも同様に塀に沿って木々は植えられていたが、それよりもその美しく整備されたプールそれ自体が目を引いた。まだ早春だというのにそこに張られた水は文字通り水色にきらきらと輝いていて、ごみ一つ浮かんでいる様子はなかった。そのへりのタイルも、また水に入るための手すりも、くすんだ色ひとつみられず、原色のまま、あるいは塗装されたその色のまま輝かしい色を保っていた。――その庭のみならず、建物それ自体も、まあ最近建てられたということもあっただろうが、その外壁には染み一つなく、きちんと手入れされているらしいことが見て取れた。
 「…きれいだ…な……。」
 フィムは、門に張り付いたまま思わずそう呟いた。確かに、この辺り、いや少なくともヴァンの中では彼女はこういう豪奢な作りの家を見たことはなかった。というよりはむしろ、この辺の雰囲気にはそぐわないほど絢爛な作りでさえあったのだ。ただフィムにとっては、やや不自然ではあるその雰囲気よりも、初めて見るその大きくて美しい建物と、木々とつぼみの色の調和がとにかく目を引いて、それで見とれてしまい、だからそれが少し変なのかもしれないというような考えははなからすっとんでしまっていた。
 「――誰だ?」
 と――その時、不意に誰何の声がかけられた。

 「ひゃっ…!?」
 フィムは、突然その声が彼女に降りかかったので思わず飛び上がりそうになった。そしてきょろきょろと辺りを不安そうに見回す。だが、周囲にも、その塀の内側にさえそれらしい人の姿はなかった。動くものと云えば、彼女の後方、来た通りのずっと向こうに見えた、買い物かごを持った女性の姿の他には、今頭の上を飛び去っていった数羽の大きめの鳥だけである。
 「……?」
 フィムは何度か神経質そうに目をしばたたかせたが、急に何か寒気でも感じたか、ぶるぶるっと身体と翼をふるわせると不意にそこから逃げ出すように、来た方とは別の通りである右の方向へ向かって走り出した。
 フィムの姿は、みるみるうちに小さくなっていった。…だが、もし誰か、すべてを見通せるというミストラルの千里眼を手にした者がそこに残っていたならば――そこで次に起こる事を目にすることが出来たかもしれない。――その、塀の内側、すなわち敷地内の、空中(・・)に、一瞬空間のゆがみが生じたかと思うと、ボウ…とそこに人の姿が現れるのを。
 「…………。」
 実際には、その者は不可視の魔法で一般市民に見とがめられぬよう自らを隠蔽していたから、その姿も、その者がそこに現れる様子さえも一切人の目に映る事はなかったのであるが、もし見ることが出来ていたとしても、彼は――その人物は、男であった――身体全体を青白く光るマントにてすっぽり覆い隠していたから、印象的な後ろに全部上げた白髪と白い口ひげ以外にはマント下部から覗く両方の脚に黒いブーツを履いている事ぐらいしかわからなかった。だがその、額に刻まれたしわや頬のこけ具合から推測される彼の歳からはおよそかけ離れた猛禽類のような鋭い目は、翼を揺らして必死に走っていくフィムの背をずっと見つめており、彼女がいくつめかの角を曲がってその姿が見えなくなってさえしばらくそうしてその方向を見据えていた。
 「…………。」
 彼は、フィムがその角を曲がって数トスしてのち、その後を追おうと、自らにかけていた飛翔(レヴィテイション)の魔法をコントロールしようとした。が――そのとき。
 「――いい。…追わなくても。」
 彼の耳に、命令口調の声が響き渡った。…もちろんそれは実際には魔術による遠話であり、あたりにそのまま響いたというわけではないが、とにかく彼は動きを止めた。
 「…しかし――」
 「いい。――戻りなさい。」
 「――は。」
 彼は不承不承ながらそう返事すると、マントの内側で胸の前で印を切り、ヴン…と、『本当に』姿を消した。先ほどまで彼が存在して(・・・・)いた『異次元』に、その実体を移したようだった。
 そしてそれで、そこにはいままでもとあった静寂が訪れた。春の風はゆっくり、ゆったりと流れ去り、木々はそれになびき、草々もさまざまな香りをそれに乗せる…今目の前を歩いているここらの住民には、この間に、何かが起こったとさえ知り得なかったであろう。だが――確かに、そこではそういう一場面があったのであった。そしてそれは――魔法能力を持つものでなくとも、注意深い者であったならば――その、別館の、ある窓にさえ注意を向けることが出来ていたならば――その理由を、知ることが出来ていたかもしれない。そう――フィムは、それには気づかなかったが――その、縛られたカーテンの脇には――はっきりと、人影があったのであった。
 「…………。」
 いつ頃からそこにいたのかはわからぬが――彼は、フィムがさっきまでいたその門をじっと見つめていた。外部から窺えるのは彼の顔くらいであったが、その顔は面長で、控えめに云っても美しい作りであり、まるでエルフのような印象を与える――じっさいにそうかどうかは、判らなかったが――ものであった。もっともその目はかなり鋭く、フィムが去ったあとの門を、何か思うところがあるような目でじっと見つめていた。
 「飛翼族……か。――話には、聞いていたけれど……実際に、目にするのは……。」
 彼は窓際でそう呟いた。そして指をあごに持っていきながら、一度、何かを考えるように目線を落とし、またそれを窓の外へと移して、再びひとりごちた。
 「――あの娘……なんとか、したいな……。」
 だがそれは、本当に、ごくごく小さな声で呟かれた言葉であったため、誰にも――そう、先の、次元の狭間に姿を消した男にさえも、おそらくは――聞き取れぬものであった。
 もちろんそれは、当のフィムには、まったく知り得ぬ出来事であった。



 「…………!!」
 フィムは、不意に立ち止まった。
 「――ハアッ、ハアッ、はあっ……!!」
 そのまま、上体を倒し、両手を膝につき、上半身を大きく上下させながら激しく呼吸する。
 一つ目の角を曲がった後も、彼女は夢中になって走り続けた。三つ、四つと角を曲がり、やや人通りの多い、少し大きめの通りに入ってさえ、彼女は走るのをやめなかった。――やめられなかったのだ。門から中をのぞき込んでいたときに、突然わき上がった寒気と不快感――走っても走っても、すぐ後ろに迫ってきて彼女を鷲掴みにしようとするかのような云い知れぬ悪寒が、既に息が切れて呼吸がままならなくなってさえ、彼女を走り続けさせた。
 「はあっ、ハアッ、ごほ、ゴホゴホッ……ぜえ、ぜえ、はあ、はあっ……!!」
 この辺りでは珍しい――それはつまり、彼女がその辺りに来たことはほとんどないから――翼を持つ少女の姿に、通行人も目を丸くする。時には立ち止まってじろじろと見つめる者もいたが、フィムの方はそれどころではなかった。飛ぶことはともかく、あまり運動が得意ではない彼女であったから、そんなふうに長い距離を一気に走ってしまって、ほとんど酸欠状態にさえなってしまっていたのだ。心臓は激しくうち鳴らされて、今にも口から飛び出しそうであったし、呼吸も、喉に何か詰まっているかのように苦しく、ままならなかった。春先でしかないというのに身体中はまるで炎のように熱く、額に、頬に浮き出る汗が滴り落ちて、いくつも地面に跡をつける。かろうじてへなへなとそこにへたりこんでしまうことこそなかったものの、もはやフィムはそれ以上そこから一歩も動けないようだった。
 「……はあっ、はあっ、はっ、はっ、――ふう、ハア、はあ……。」
 しかしそれでも、通行人の注目を浴びながらそこでそうして数ロスも苦しさに耐えていると、次第に呼吸も回復してきて、どうにか上体を起こせる程度にはなった。まだ心臓は少し激しめには響いていたけれど、それでもなんとか、彼女は腕で額の汗をぬぐって、あたりをきょろきょろと見回すことは出来た。
 「……なん……だったのかな、今の……。」
 彼女は肩を上下させながらぽそっと呟いた。そうして見回してみても、もちろん何か特別変な物が彼女の視界に入ることはなかった。既にさっきまで感じていたいやな感じはもうみじんも感じられなくなっており、通行人やそのあたりの住民が依然もの珍しそうに彼女を見物してはいたものの、そこはもう至って普通の通り、いつもの日常世界であった。
 (……ヤな、かんじ……アルが、昔戦ったことがあるって云う、目玉のオバケみたいな、そんなのが、じっと見つめてたみたいな……そんな、かんじ……。)
 フィムは思い出したかのようにもう一度ぶるぶるっと震えた。――彼女は、時々、こんなふうに、目に見えない何かを感じとることがあった。たぶんに、種族的な性質として、人間よりも『感じる力』が強いからなのだろうが、時にはアルフェルムでさえわからなかった何かを瞬時に感じとり、彼らの窮地を救ったこともあったのだ。
 だが、もうそれ以上の答えはそこでは出なかった。代わりに、彼女はそこで初めて、自分がこのあたりの人々の注目を存分に集めていたことに気付いた。すぐそばで立ち止まって自分を見つめている行商人、二階の窓から身を乗り出している若い男、こちらを指さして何ごとかをひそひそ囁き合っている子供たち――それらに気付いて、フィムは一気に真っ赤になり、今度はあたふたとあわてはじめた。
 「あっアッ、えとエト……
 人は次々と集まってきて、もはやそこに人だかりを作りつつあった。フィムはその中心部でその壁を押しのけて逃げることもできず、おろおろとひとしきりうろたえた後、思わずばさっと翼を拡げ、上空へと舞い上がった。
 「飛んだ!!飛んだぞ!!」
 「本当に飛ぶんだ……初めて見た!!」
 「ママーッ、ハネのおねーちゃん、飛んでったよっ……!!」
 そんなざわめきを背後に聞きながらフィムは夢中で翼を打ちつける。彼女の身体は空気を切り裂いてぐんぐんと上昇し、見る見るうちに建物が豆粒のように小さくなっていく。それに伴い肌に触れる風が急激に冷たくなってくるのもお構いなしに、彼女は翼を羽ばたかせ続けた。かなり高くまで昇ってから水平移動に移り、そこから中心部に向かって数ロス飛び続け、足元に見えていた人だかりが視界から消えてようやく彼女は進むのをやめて、ホバリングに移った。
 「はあ、はあ、はあ、びっくりした……!!」
 彼女は来た方向を振り返って呟いた。再び心臓が激しく鼓動をうち鳴らし、呼吸もいつもの倍くらいまで荒くなっていたが、それでもようやくそれですべてから逃れられたと知って、彼女はやや落ち着いた様子であった。
 「…………。」
 ばさ、ばさと翼が空気を切る音だけが彼女の耳に入る。風はちょうど彼女の後ろから、つまり中心部の方から今さっき飛び立った場所へ向けて吹いてきていて、それが彼女の背中に強く冷たく吹きつける。フィムは汗をかいた背が急に冷えていくのを感じとって、そしてそれとともになんだか急に心細くなってきて、思わずぶるっと震えた。――久しぶりに浴びた奇異の目と、かつての独りぼっちの冬を思い出させる冷たい風――それらは、フィムを心変わりさせるのに充分であった。
 「……やっぱし、アルのトコ、行こうっ……!!」
 フィムはもう一度ぶるっと震えると、クルリと身体を回し、大きく羽ばたいて、強く正面から打ちつける風の流れの中を、愛する人のいるギルドへ向かって飛び始めた。ちょうど、アレグゼ五を知らせる鐘が鳴り響いたときであった。



 「――アルっ!!」
 両開きの扉が跳ね開けられるのと同時に、元気なかん高い声が響く。

 「…おう、嬢ちゃんか。」
 「…あれ?――アル、いないの?」
 フィムはきょろきょろと室内を見渡した。いつもならたいてい何人かはたむろしているその内部は、今日は珍しくがらんとしていて、カウンターの向こうで何か作業をしていたギルド長ボーン以外には、動く人影の姿は一つもなかった。いや、正確には、その前の通りにはまたあらたな馬車が到着していて、そこでは何名かの作業員が積み荷下ろし作業をしていたのだが――そして、その目の前に『着陸する』ことでやっぱり彼女は彼らを仰天させて扉をくぐったわけであるが――それ以外には誰もおらず、そして邪魔になる室内の椅子も机も、この日は入り口から部屋奥の扉までの通路を確保するために端の方に片づけられていたから、その内部はまるで戦争で荒らされた街中の廃墟のように一種寒々しい雰囲気をかもしだしていた。
 「いや、連中なら今、奥の練習場に、来た新しい設備を設置しとる頃だろう。――中へ行ってみたらどうだ?」
 「うんっ!!」
 ボーンが親指で、カウンターの横にある、足元に大きめの石をおいて開けたままに固定されている扉を指さすと、フィムは嬉しそうににっこり笑って、翼を揺らしながら小走りにその奥へと消えていった。ボーンはその様子を見て、口元をゆがめてふっと笑った。
 ここ、ヴァンの冒険者ギルドは、両開きの扉をくぐるとすぐにそこがオフィスとなっており、右手がカウンター、左手にいくつかの椅子と机、という配置になっている。左手奥の壁には仕事内容や、仲間募集の案内が張られる掲示板があり、また入って正面の壁、やや右――すなわち、『カウンターの横』と述べた――に扉が一つ、その右側、右手の壁部分にも扉がある。右手のそれの奥はボーンやその他ギルドで働く者たちが使う部屋や倉庫につながり、基本的には彼ら以外には入れない。もっとも実際には常連連中が勝手に陣取って仮眠したり、時には食事や酒盛り――けしからんことではあるが、時にはボーン自身が加わっていたりするからたちが悪い――したりと、わりといい加減に使われていたりするのだが、一応、建前上はそういうことになっている。――いっぽうで、正面のそれ、すなわちフィムが消えていったその奥は、通路はそこで左右に分かれ、右へ行くとその奥に第一トレーニング室がある。左側には、数メム先、正面と右側に扉があり、右からは道具置き場のある中庭を経て、正面からは直接第二第三トレーニング室側へと、石造りの頑丈な壁に囲まれた広大な多目的室外トレーニング場に出ることが出来る。――まあもっとも、ギルドはあくまで仕事斡旋・仲間募集の場であって鍛錬場ではないから、それほど本格的な設備があるわけではないが、それでも木刀と各種防具を借りて打ち込みをしたり、あるいは互いの呼吸を確かめるためにチームでの模擬戦をしたりする者たちは多く、日中は大抵誰がしかを目にすることが出来る。
 「エト……。」
 フィムは開けっ放しになっていた中庭をまず覗いて、誰もいなかったので次に正面の扉を開く。目の前に続くトレーニング室へいくための屋根付きの通路には何名かの者がいて、そのトレーニング室へ、彼女には使い方のよく解らない重そうな器具を運び込んでいる最中であったが、そこには彼女が探す姿はなかった。それでフィムはその扉を再び閉め、開け放たれていた方の扉から壁に囲まれた中庭へ出て、反対側の出入り口の戸を開けるとそこから練習場へと出た。
 「――あ、いた
 正面やや右手、練習場を囲う壁際で作業をしている約十名ほどの人影の中から、フィムの目は瞬時に求める者の姿を見つけだした。五、六十メムは離れていたけれど、いつも見ているその逞しい身体と、動きのクセ――どれだけ遠くから見ても見まごうことのない、愛する人の姿である。
 彼は、数名の者たちと一緒に何か土木作業らしきことをしていた。彼は足場の広い高所作業用の脚立の上に立っていて、その頭部が人の頭ほどもある巨大なハンマーを杖代わりにして立っていた。彼の前には、高さ約二メム半ほどもある杭が、その頭部から三方向に引っ張られているロープにて垂直に保たれている。ロープはそれぞれ二、三人ずつが引っ張りあうことによって均衡を保っているようだった。
 「おーい……そっち、もう少し引っ張れ……そうだ、それくらい……!!」
 「ちょっと待て……もう少し後ろだろう……!!」
 「そっち側……もう少し力、緩めろ……!!」
 何度か、声をかけあって、ようやく位置があったか、アルフェルムがハンマーを両手で持った。そしてその重い頭部に近い部分を持って、杭の頭を何度か軽く叩き、地面に少しだけ杭の先端をめり込ませてから、おもむろに振りかぶり、狙い澄ましてその頭部へハンマーを振り下ろした。ゴッ…という鈍い音がして、杭は一気に十数メム地面にめり込む。さらに間髪入れず、アルフェルムは二撃目を放った。今度はさらに深く杭が突き刺さる。アルフェルムは手を休めることなく、またそれを一つも打ち損じることなく、ハンマーを何度も振り下ろして、的確にそれを杭にうち下ろし、それを地面に打ち込んでいく。すぐにロープによる支えが必要ないほどにしっかりと杭は打ち込まれ、アルフェルムは脚立からもっと低い、高さ一メム程度の小さな台に移り、その上からさらに何度かハンマーをうち下ろして、その杭を地上一メム半程度見えるまで打ち込んでしまった。
 「――よし……こんなものだろう……。」
 何名かの者が、杭に結びつけてあったロープを外しにかかる。アルフェルムがそれを見ながら台の上から地上に降り、ハンマーを、さっきまでそうしていたように頭部を地面に置き、その軸を杖のようにして立て、ふうっと息を吐いたとき、耳慣れた声が彼の背後からかけられた。
 「アル〜っ
 「!?おっとっ……!!」
 ばさ、ばさといういつもの翼の音がしたかと思うと、いきなり彼の背にのしかかってくる感触があり、そして肩の上からのびてきた腕が彼の首に回される。フィムは、向こうでしばらく『何してるんだろ?』と様子を見ていたが、作業も終わりかけになる頃彼に向かって駆けだし、そして最後には羽を使ってもうほとんど低空飛行の状態で彼に駆け寄り、いつものようにその背に飛びついて、ついさっきまで怒っていたことなどきれいさっぱり忘れて嬉しそうに『へへ』と笑いながら首を彼の肩の上にのぞかせてきたのだった。
 「こら……まだ仕事中だから、邪魔をするな。」
 「ヤ
 「お……嬢ちゃん、来たのか。」
 「ン、来たの
 「嬢ちゃん、今日も調子良さそうだな。」
 「ン、いいよ
 アルフェルムの叱責も聞きもせず、フィムはセプターを初めとして顔見知りの何名かが手を休めて挨拶して来たのへ、彼の背にくっついたまま、上機嫌でニコニコしながら応えた。
 「こら…降りろと云うのに。こら…フィム。」
 「ヤだも〜んだ
 アルフェルムはどうにか彼女を引き剥がそうとするが、フィムは翼をばさばさと羽ばたかせ、周辺に迷惑な砂埃をあげながらアルフェルムの首に何度もまつわりついてくる。アルフェルムが躍起になればなるほど、フィムは調子に乗って、ついぞさっき彼のことをバカ呼ばわりしたことなどみじんも憶えていないとでもいう風に、力を入れてくっついてくる。
 「こらあっ……離れんかっ……まだだいぶ仕事が残っとるんだ、邪魔をするんじゃない……!!」
 まあ確かに、彼女がそうやってアルフェルムにくっついて、彼とそんなシーンを演じることはよくあったし、このヴァンのギルドでもそれは有名になりつつあったし、そして当然こんなうちうちの仕事に呼ばれるような連中はたいていそれを知っていたから、このちょっとした彼女とアルフェルムとのやりとりはそこで働いていた他の者たちに丁度よい手休めの清涼剤となったようだった。思わず顔がほころぶ者、口笛を吹く者、手を叩いて煽りさえする者――彼女のそんな振る舞いは、ちょっと疲れも出てきて、だれつつあったその場の雰囲気を一気に明るいものに変えてしまった。
 「アルへへ……
 彼女はアルフェルムの『引き剥がし攻撃』を、巧みにかわしながら、彼のうなじにキスをする。――彼女は気づいていなかったが、それは、結局、さっきまでそうして、ちょっと怖い、そして心細い経験をしたことの反動だったのだ。俗にここらあたりで云われる、『溺れて初めてシルフが見える』のことわざの通り――そうやって、彼のことを『バカ』と呼びはしたものの、ひさしく味わっていなかった心細さが、彼女が彼を目にした瞬間彼女をいっきに幸せな気分にさせ、ああやっぱりアルがいるんだと、アルがいればなにも怖がることはないんだと彼女をまるで長い別れの後ようやく飼い主と再会できた子犬のように振る舞わせたとしても、無理からぬことではあっただろう。
 だが、しかし、今はそういう時ではないのもまた、アルフェルムにとっては事実なのであった。
 「こらっ、いい加減にしろ……このままじゃ、いつまでたっても終わらんだろうが……!!」
 そう、まだまだ運び込まなければいけない荷物は山ほどあったのだし、今彼らがやっているように新規に設置しなければならないものも多く残っていたのだ。――だが、アルフェルムがいよいよ力ずくで――そう、ようするに、これまでは彼も手を抜いていたのだ――フィムをひっぺがそうとしたとき、しびれを切らした人物がいた。
 「おいコラ、鳥娘。」
 ヴェリアスだった。彼女はフィムの独特の羽音が耳に入ったその瞬間から、ただ一人、明らかにムッとした顔をしていたのだ。だが、いつまでたっても『おままごと』をやめようとしない彼女に、ついに彼女は怒りをあらわにした。
 「いつまでもベタベタくっついて邪魔してんじゃねェよ。こっちはてめェみたいに一日中遊んでるワケじゃねェんだ。いい加減にしねェと、羽むしって焼き鳥にして食っちまうぞ。」
 「そら始まった。」
 思わずセプターはひとりごちた。――もっとも、それを聞かれると矛先が自分の方に向くので、ヴェリアスには聞こえないような小さい声でだったが。
 だが、フィムの方もまた、ヴェリアスがそうやってケンカを売ってくることにはもう慣れっこになっていた。彼女はまだアルフェルムの背にくっついたまま、わざと挑発的な口調で云った。
 「へへーんだ。ヴェリアスなんかに捕まるほど、とろくないもーんだ。」
 「てめェ……やってみるか?あ?」
 「やめんか、二人とも。」
 かなり厳しいめの口調で、アルフェルムがそれを中断させるべく割って入った。そして二人がさらに何かを云おうとする前に、フィムの、彼の首に回されていた腕をつかみ、彼女を『無理矢理』もぎとった。
 「あっ……や〜んっ……!!」
 地上に降ろされてしまったフィムが不満そうに声を上げる。だが、それに向かって彼はややきびしく云った。
 「フィム。今に限ってはヴェリアスが正しい。…今、俺たちは金をもらって仕事をしとるんだ。これ以上邪魔をするなら、俺にも考えがあるぞ。」
 面食らったのはフィムだった。よもやそうして彼がヴェリアスの味方――と、彼女には見えた――をするとは思えなかったのだ。思わず瞳が急激に潤む。
 「でも、そんなコト云ったって、だって……!!」
 フィムは、なんと云ってよいかわからず、言葉を詰まらせた。彼がそうして彼女に相対する態度をとったこともそうだったが、それよりなにより、さっきのあの孤独感から再び彼をみた時の、急激に心の中に広がった安心感と幸福感を否定されてしまったこと――それが、悲しかったのだ。だが、彼女はそれに気づいていない――だから、それをうまく説明することも出来ず、それが彼女の感情をいっきに高ぶらせた。
 「だってじゃない。…云ったろう、仕事だと。遊びで来とるんじゃないんだ。」
 「だけど、でも……!!」
 アルフェルムの言葉は、フィムの瞳の潤みを見てか、先の言葉よりはやや抑えられたものではあったが、それでもこみ上げてくる感情を抑えることが出来ず、ついにフィムはポロポロと涙をこぼし始める。アルフェルムは(またか)と心の中で思ったには違いないが、小さなため息以外に、それを思わせる態度は表面には出なかった。
 「…ここにいるならいてもかまわんが、ちょっとおとなしくしとれ。…他の連中の邪魔にならんようにな。」
 これ以上時間を浪費するのはかなわないと、彼はそれだけ云うと、作業に戻ってしまった。もう他の連中は既に――ヴェリアスが、フィムに注意した頃から――止まっていた作業を再開していたし、だからいつまででもそうやって時間を無駄にしているわけにはいかなかったのだ。――彼は、その意味では、わりと律儀な、固いタイプであったと云えるだろう。
 「…たまには、いい事云うじゃねェか。」
 「――俺は、この状況で一番正しいと思う行動をとっただけだ。」
 ヴェリアスがぼそっ、とささやきかけてきたのへ、アルフェルムはこちらもほとんど表情を変えることなく応えた。そして彼は、他の者たちに混じって、次の杭を先のからやや離れた位置に打ち込むべく、その準備として頭部に、先ほどと同じようにロープを巻き付け始める。
 「――よう、嬢ちゃん。」
 そんな彼をまだじっと見つめたまま、涙をこぼしてたちつくすフィムに、セプターが歩み寄ってきた。そしてポン、と肩を叩いて、その涙をハンカチでぬぐってやる。
 「…まあ、アルフェルムもヴェリアスも悪気があって云っとるわけじゃないんだ。――ちょっと、予想より荷物とかが多いからな…だいぶ、遅れそうで、みな急いどるんだ。」
 それは、半分は本当ではあったが、実は半分は嘘だったのだ。すなわち、荷物が多かったのは事実だが、それほど大きく遅れるだろうことは多分なかったのである。しかし、セプターは彼女に云い聞かせる意味でそういうことにしてしまって、そして彼女の頭を撫でた。
 「…………。」
 それを解ってか解らずか、フィムは何も喋らなかった。と、ごくゆっくりとセプターを見上げると――
 「――!!」
 不意に、ばさっ……と翼を広げ、翔びたった。
 「フィムッ……!!」

 それに気づいたアルフェルムが、そちらを見上げたときには、彼女はもう目の前の塀を翔び越えようとしているところであった。
 「フィムッ!!街の中では翔ぶなと――こら、待て!!フィムッ――!!」
 アルフェルムが叫ぶも、時既に遅しであった。彼女はそのまま何も返事せず、振り返りさえせず、高い塀の向こうへと姿を消してしまった。しばらくはばさ、ばさと翼が空気を切り裂く音が聞こえていたが、やがてそれも街のざわめきにまぎれて消えてしまった。
 「――あいつはッ……!!」
 アルフェルムは思わず歯がみしたが、それ以上どうすることも出来ず、むなしく空を見上げているしかなかった。周りの者たちが苦笑いしながら『いかんなぁ、彼女を泣かせたりしちゃあ』『俺がフィムでも、ああするな』などとアルフェルムに話しかけてくるが、それに応じさえせず、アルフェルムは握った拳をうち振るわせる。
 「……アル公よ、」
 そこへ、セプターが歩み寄った。彼はアルフェルムの腰を軽く叩いて続けた。
 「――なんぼなんでも、泣いとるのを放っておいちゃいかんよ。…嬢ちゃん、相当ショックだったようだぞ。」
 「――そうは、云うが、じっさいに仕事中なのだし、あの場合、仕方ないだろうが――!!」
 「どうも、おまえさんは女性の扱いがいまいち解っとらんようだな。」
 セプターは、片手で何度か髪をなで上げた。
 「おまえは、律儀でいい奴なんだが…時々そうして、こだわりすぎる場合があるからな。」
 「…………。」
 「――今からでも、追いかけてやった方がいいんじゃないのか。」
 「…そういうわけには、いかん。」
 アルフェルムは首を横に振った。
 「――あの時、嬢ちゃんを、身を挺して守ったアルフェルム殿とも思えん言葉だな。」
 セプターは苦笑いして、肩をすぼめた。
 「…あれと、これとは、別だ。」
 「俺は、同じだと思うんだがな…。」
 セプターは、先にアルフェルムが、フィムに飛びつかれたときに地面に落としたハンマーを拾って、アルフェルムに手渡した。
 「――嬢ちゃん、ひょっとすると――今晩、帰って来んかもしれんぞ。」
 「――馬鹿な。」
 アルフェルムは、渡されたハンマーを手にしながら、吐き捨てるように云った。――そして、もう一度、自らに云い聞かせるように、小さく云った。
 「――馬鹿な。」
 「――ま、アレだな、」
 セプターはポンポンと軽く二度、アルフェルムの肩を叩いた。
 「…この仕事が終わったら、嬢ちゃんのいそうな所を一通り回ってみて、見つけてやることだな。そして、少しばかり、フォローしておいてやることだ。…それだけでも、ずいぶん、違うものだぞ?」
 「…………。」
 アルフェルムがその心中に、いかなる思いを巡らせていたものか――
 いずれにせよ、彼は一言も答えなかった。代わりに、クルリ、と後ろを向くと、その小さな騒ぎで中断されていた本来の仕事に戻った。セプターは、そんな彼を見て、小さく肩をすぼめたが、こちらもそれ以上何かを云うでもなく、その、まだまだこれからたっぷりと残っている仕事をこなすべく、作業に加わった。



 「くす……ぐすんっ……!!」
 フィムは、まだ涙を流していた。
 あのあと、どうしようもない悲しさにつきあげられるまま、しばらく空を翔んでいたが、そのうちどこともなく降りたって、そしてまだ鼻をぐすぐすいわせながら、ときおり思い出したようにあふれてくる涙を手の甲で拭き拭き、とぼとぼと通りを歩いていたのだ。
 ここらは中心に近いところで、割と小さな八百屋や食料品店が多い。今日も開いている店が多く、夕刻が近いということもあってまあまあ人通りもある。先の街はずれと違い、フィムはこのあたりに来ることは結構あったから、そうして彼女が白い翼を揺らしながら歩いていても仰天するものはいなかった。
 代わりに、彼女をよく知る店の主人だとか、あるいは買い物に来ていた中年の婦人だとかが、様子のおかしい彼女に気づいて声をかけてくれたりしたのだが、それが耳に入らなかったのか、あるいは聞こえはしたもののとても答える気にならなかったのか、彼女は顔を上げさえせず、ただとぼとぼと歩き続けるだけだった。どこへ行くという目的があったわけではない。だけれど、高ぶったままの感情が、ゆくあてもないまま、彼女をそうして歩き続けさせたのだ。
 「ねえ、あんた。――ねえ、あんたったら。」
 「…なんでい。」
 「そこで今、フィムちゃんに会ったんだけどさ……なんだか、泣いてたみたいだったんだよ。――いったい、どうしたんだろうねぇ……。」
 「――嬢ちゃんがか。」
 「うん……いつも、明るくて、挨拶すると元気に返事してくるのにさ……今日は、顔を上げもしないで、ぐすぐす泣きながらそこの通りを歩いてったんだよ。」
 「…一人でか。」
 「そういえば、よく一緒に見かける若い兄さんは、今日はいないようだったねぇ……。」
 「――なら、ケンカだろ。」
 「…そうだと、いいんだけど……。」
 そんな会話が、そばの食堂の中、今日の夕方の準備をする中年夫婦の間でかわされていたこともつゆ知らず――
 彼女は、歩みを止めず、顔も上げず、重い足を引きずるようにして、とぼとぼと歩き続けた。
 さっきまでは気分を浮かれさせた穏やかな風も、鼻腔をくすぐるかぐわしい草木の香りも、こうなるとうとましいだけであった。人々の明るい声が、鳥たちの楽しげな鳴き声が、かえって彼女の悲しさを増し、再び彼女の目に涙をあふれさせる。まるで、自分とその周りだけが、世の中から隔離されてしまっているかのような疎外感――それが、あれから結構な時がたっても、まだ彼女の感情を収まらせずにいた。
 そうして――
 どれくらい、歩いただろう。
 どこをどう歩いたかよくわからないまま、彼女はまだ辺りをさまよっていた。ようやくどうにかこうにか気持ちも収まってきて、まだ時折しゃくり上げてはいたものの、さっきまでのようにどうにもならない、たった今そこで別の男が優しい声をかけでもしたらそのままふらふらとついていってしまっていたかもしれない一種狂った感情はとりあえず落ち着いたようだった。――とは云うものの、それでもまだ悲しさが彼女の心を満たしていたことには変わりなく、もう相当歩いて本当は足もさっきからずきずきと痛んでいたのだが、にもかかわらず歩みを止める気にはならなかった。
 (……あんな云い方、しなくっても……。)
 自分も少し悪かったな、という気持ちもあったが、だけれど依然、彼女の心を主に支配していたのはそれだったのだ。そしてそんな中で彼女は気持ちの揺らぐまま、結局、足を止めることが出来なかった。――止まってしまうと、自分がしたことをすべて否定してしまうようで、少し恐かった、ということもあったのだ。
 「……ぐす……。」
 フィムは鼻をすする。さすがに、少し冷たくなってきた風に、(やっぱり、帰ろうかな…)という弱気な気持ちが起こってきたが、それは残念ながら彼女の歩む方向を逆にするほどではなかった。
 そんな、どこへ向かうとも戻るとも出来ぬ、迷いと悲哀の淵に深く沈み込んでしまっていた彼女を救い出したのは、彼女にかけられた声であった。
 「――フィムちゃん?」
 あまりにはっきりと頭に響いたその声に、フィムははっと頭を上げた。
 「――メリス…さん……。」
 いつのまにか、彼女は、メリスの店――インテグラ靴店の前に、来ていたのだ。
 「――どうしたの……?」
 メリスは、心配そうな顔をして問いかけた。彼女はいつものように店番をし数名いた客の相手をしていたのだが、ちょうどその最後の一名が一足靴を買ったので、それを包んで手渡し、その客を見送って棚の空いたところに新しい商品を置いたとき、特徴のある白い翼が一瞬視界の隅に入ったのである。反射的に振り向いてみると、落ち込んだ様子のフィムがまるで亡霊のように――と、メリスには見えた――前を歩いていくところだった、というわけであった。
 「…あらあら……こんなに、涙の跡が……どうしたの?なにか、あったの……?」
 メリスは胸のポケットからハンカチを取り出して、フィムの前でかがみこみ、まだ彼女の目尻に残っている涙を軽くふき取り、何度か頬をなぞってそこについていた跡を消していく。
 「ほら……こんな、涙のあと、つけてちゃ――せっかくの可愛い顔が台無しだから……それにしても、どうしたの……?――今日は、アルフェルムさんは、一緒じゃないの……?」
 「――アルと、ケンカ、しちゃった……。」
 フィムはメリスにされるままになっていたが、そのメリスの言葉を聞いて、目線をまた下に落とし、ぼそっと云った。
 「…え……?…ケンカ……?」
 その言葉を聞いてメリスの手が止まった。フィムはちらっとメリスの顔を見て、また目線を地面の敷石に落として、ぼそぼそ続ける。
 「……アルに……アルが、スキだから……だから、抱きついたら……アル、向こう行けって……邪魔だから、あっちいってろって……。」
 思い出すと、再び気持ちが高ぶってきそうになるのをかろうじて抑えながら、フィムはそれだけ云った。
 「――あら、まあ……。」
 メリスは返す言葉を失って、それだけ云った。
 「――とにかく、ここで――こうしてるのもなんだから――」
 メリスはもう一度、フィムの両目を軽くなぞり、身体を起こした。
 「とりあえず、奥へいらっしゃい。ちょっと、お茶でも入れてあげるから……あったかいお茶でも飲めば、気持ちも落ち着くわ。」
 「…うん……。」
 そうしてフィムは店の奥の一室へといざなわれ、休憩用のテーブルに座ってしばらく待っていた。メリスはすぐにティーポットとカップ、それにクッキーを盆に乗せて戻ってきて、テーブルの上で二つのカップに紅茶とミルクを注ぐと、カップの一つとクッキーをいくつかフィムの前に差し出した。
 「…………。」
 フィムはちらっとメリスの顔を見たが、彼女の『どうぞ』という笑顔を見て、それに口をつけた。
 「……おいし……。」
 フィムはさらに一口二口飲んで、カップをテーブルに置いた。それを見てメリスの方もにっこりとし、自分も一口飲む。
 「…これ……オイシイね……。なんか、いいニオイがする……。」
 「でしょ?ハーブティの一種なの。あたしも、最近知ったのだけど、通りの向こうのお店、いいお茶を入れるのよね。これもそこで買ったものなの。」
 メリスは得意そうに云って、皿の上のクッキーを一つとり、かじった。
 「気分、落ち着くでしょ?」
 「……ウン……
 フィムはその言葉通り少し落ち着いてきたとみえて、こちらも釣られるように笑った。そして、店の方を振り返って云った。
 「……エト……お店、そのままにしといて…いいの?」
 「ああ…ホントは、いけないのだけど――」
 メリスはいつもよくやるようにペロッと舌を出した。
 「…でもまあ、少しくらいあけておいてもいいでしょ。ここいらへんは、商品を盗っていくような人もいないしね。」
 「…今日は、お父さんは、どうしてるの…?」
 知っての通り、彼女――メリスは、父親と二人暮らしである。母親を早くに失った彼女は、父親とともに二人でこの店を切り盛りしてきたのである。その役割は主に、彼女の父が奥の仕事部屋で靴の製作や修繕を担い、彼女が店番をして客の要望などを聞き入れる――という形であるが、彼女の父はなんというか、職人気質というか、頑固一徹な、控えめに云ってもあまり人付き合いの良い方ではなかったから、母親の性格をより強く受け継いで人当たりの良いメリスが客の応対をするこの役割分担はまったくもって理にかなったものだったと云えよう。とは云え、彼女も家事をしなければいけないから、時には買い物などで店を空けることもあり、そんなときには父親が店番をする場合もあったのだが、概してその応対は客に不評であったことは云うまでもない。修理を頼みに店まで来て、メリスの代わりにその父の姿が奥に見えたためにそのまま帰ってしまう者さえ時にはいたのである。
 「いつもの通り、奥でこもって仕事してるわ。ほんとに、少しは表へ出てきたら?って云うのだけど…。」
 そんなだから、メリスのその言葉はため息混じりだった。
 「――でも、腕は、身内だから云うのじゃないけど、ほんとに確かだから…。――だから、お客さんもついてくれるのだと思うけどね。」
 「ウン…アルも、いっつも云ってるよ。メリスさんとこは、いい靴を作るって…頑丈で、しっかりしてて、だからどんなところをどんなに乱暴に歩いても、壊れることとか気にしないでいいって……冒険者が履くには、これ以上ない靴を作るって……。」
 そこまで話して、フィムははっと、自分がなぜ今ここにこうしているのか気づいたらしく、また目線を落とした。メリスはそれにめざとく気づいて――彼女は、気の利く、良い娘であった――それを続けるべく、声をかけた。
 「――それで、なんだったの……?アルフェルムさんが、フィムちゃんをむげに、じゃけんにするとは思えないけれど……?」

 「……その……。」
 フィムは、ちょっと悪びれた様子になった。…ちらちらと、メリスの顔を窺いながら、一つ一つ言葉を並べていく。
 「エト…その、あたし――」
 フィムは、たどたどしく、今日あったことを説明した。とにかく最初に、アルフェルムとの間で小さなケンカがあったこと――宿を飛び出してから、街外れの家を見に行って、そしてそこで恐い思いをしたこと――そのあとギルドに戻って、彼を見つけ、飛びついたこと――そして、結果、それで叱られたこと――その話をするとき、再びフィムの目が潤んだが、この時は彼女はかろうじてこらえることが出来た――最後に、そうして叱られたことで、そのまままたギルドを飛び出してきてしまったこと、など――。
 「…でも、でも、だケド――そんな、邪魔するとか、そんなつもり、全然なかったの……。でもただとにかく、アルを見つけたときに、なんか、すごく、ホントにすっごく、うれしくなって…どうしようもなくなって、そいで飛びついたら……叱られちゃった……。」
 フィムはうつむいたまま、くすん、と鼻を鳴らした。
 「…でもほら、それはきっと、アルフェルムさんも、お仕事、急いでたから――」
 「でも!!」
 フィムは顔を上げ、大きな声で叫んだ。そしてはっと声をひそめ、また下を向き、続ける。
 「…でも、そんなコト云ったってっ……!!あんな、強い云い方、しなくてもっ……!!」
 「――じゃ、アルフェルムさんのこと……嫌いになっちゃう?」
 クスッとメリスは笑った。
 「――!そっ、それはッ……!!」
 フィムはがばっと顔を上げた。
 「…それでも、大好きなんでしょ?」
 「――ウン……。」
 フィムは、しばらくテーブルを見つめて、そしてコクッと小さく頷いた。そんないじらしいフィムを見て、メリスはにっこりほほえんだ。そして一口ミルクティーを口に含む。
 「きっとね、アルフェルムさんも…フィムちゃんのことが、大好きなのよね。――だからこそ逆に、そうやって、はっきりものを云えるのだと思うわ。…そりゃあ、アルフェルムさんの言葉は、きついものだったかも知れないけど…だけれど、少なくともあたしは、…アルフェルムさんとお話をしてるあたしは、そんなアルフェルムさんの言葉は、聞いたことがないもの……それは、フィムちゃんだけの特権なのよ。」
 「……そうなのかなぁ……。」
 フィムはちょっと不満そうな顔をした。
 「だケド、そうだとしても……アル、そのわりに、あまし、あたしのコト……スキとかは、云ってくれないし……。」
 フィムはこちらも一口、カップに口を付けて、そしてクッキーに手を伸ばそうとする。
 「――まあね、アルフェルムさん、口下手だし……あまり愛想のいい方じゃないしね……。」
 「――でしょ!?」
 苦笑いしながら云ったメリスの言葉にフィムは激しく反応し、飛び上がるかのように顔を上げた。
 「アルってば、アルってばねっ……ホントにね、全然、しゃべらない時とかあるんだよ……!?――最近はそんなでもないケド、昔なんてね、ホントに、ホントにねっ……一日のうちで、『ああ』しか喋らなかったコトだって、あるんだから……!!」
 フィムは身を乗り出すようにして訴えた。そして、あまりにのりだしすぎて、羽織るようにして着ていたデニムのその前の部分がティーカップにひっかかりそうになり、紅茶をこぼしそうになって、慌てて椅子に戻った。
 「…だけど、そんなところも…好きなんでしょ?」
 メリスの方は割と冷静に――とは云っても、それは、『フィムと比較して』の話であったが――そう返した。
 「…それは、そうだけど……でも、時々、ヤんなることだって、あるもん……ホントにさみしい時とかでも、なんにも云ってくんないコトだって、あるもん……。」
 フィムは知らず、唇を突きだして不満を漏らした。
 「――今日だって、――今日だって、あたし、ホントに、――ホントに、恐かったから…だから、アルに抱きついたんだもん…。邪魔するつもりなんて、これっぽっちも、なかったもん……。…ただ、アルを見て、そいで、そいでね……うれしいなって、なんだかよくわかんないけど、とにかく、すごくうれしいなって……そう、思っただけなんだもん……それなのに、それなのに、アルってばっ……!!」
 「ちょ、ちょっと待って……
 メリスは、フィムが矢継ぎ早にまくしたてたので、たまらなくなって手で制した。それでフィムは、今日何度目だったかわからないが、はっと我に返った。
 「ご…ごめんなさい…つい……。」
 そして自分の気を落ち着けるようにミルクティーをゴクッと飲んだ。
 「――いいわよね、フィムちゃんは。」
 と、メリスが不意に、そんな言葉を口にした。意味が分からず、フィムはメリスの顔を見つめる。
 「…だってほら。そうやって、アルフェルムさんと、楽しくケンカ出来ちゃったりするわけじゃない。」
 メリスはまたクッキーを一つ取って、口にくわえ、パキッ、とそれを半分に割るようにして食べた。
 「…楽しくなんて…。」
 「アハ…ごめん。いやみを云うつもりじゃなかったのよ。」
 うつむいてしまったフィムを見て、メリスは申し訳なさそうに弁解し、残り半分のクッキーを口に放り込んだ。
 「ただちょっと、…すぐそばにいつも好きな人がいて、そしてその人に自分のすべてをぶつけることが出来るフィムちゃんがうらやましいなって思っただけ。」
 「…………。」
 「ほら――あたしなんか、ずっとお父さんと一緒に暮らしてるわけじゃない。そりゃあ、それがイヤだとか、幸せじゃないとかいうわけじゃないし、ここまで育ててもらったことには感謝してるけど……でもやっぱり時には、お父さんにだと話せないことも出てきちゃうのよね。…その点、フィムちゃんは、アルフェルムさんがいつもそばにいて――そして、何でも話が出来ちゃうわけでしょ。いいなって思うのよね。」
 「…………。」
 「…ごめん。なんだかぐちっぽくなっちゃった。あたしらしくなかったわね。」
 メリスは、なんと答えればよいか困ってしまっているフィムを見て苦笑いし、げんこつで自分の頭をコツンとやった。
 「でもほら、だからってわけじゃないけれど……やっぱり、そうやって、好きな人がいつもそばにいてくれることは幸せなことだと思うし……それに、そんなふうに、ケンカになるっていうのは、お互いがお互いのことを本当に理解しあってるからだと思うのよね。――ほら、少し前に、アルフェルムさんが大怪我したときがあったじゃない。あれって、アルフェルムさんが、フィムちゃんを身体でかばったからなんでしょ?…そうまでしてくれるアルフェルムさんが、フィムちゃんのことを嫌いなわけがないし……そして、好きだからこそ、時には言葉もきつくなっちゃうんじゃないのかしら。…本当に好きじゃなかったら、そこまで云えないと思うから……。」
 「……でも……。」
 フィムはまだ納得しない様子であった。メリスは続けた。
 「そりゃあ、アルフェルムさんも、もうちょっと云いようがあったのかもしれないけれど……いらいらしてたのかもしれないし、疲れてたのかもしれないし。…そこいらへんはね、しょうがないわよ、人間だもの。そんなつもりなくても、きついこと云っちゃうことだってあるわ。あたしだって、些細なことでお父さんと口論になってひどいこと云っちゃったことだってあるし――」
 「――メリスさんが?」
 フィムは信じられなさそうに目を見開いた。
 「――そりゃあ、あるわよ。」
 メリスの方は、こちらはフィムが驚いたことに驚いて、そして逆に尋ねた。
 「どうして?あたしはそんなことしないと思った?」
 「――だって……メリスさん、とてもそんな風には見えないし……。」
 「ありがとう
 メリスはにっこり微笑んだ。
 「でもね、やっぱり、家の中とかだと、どうしても抑えきれないときもあるわ。体調悪くていらいらしてて、そんなときに返事してくれなかったからってあたっちゃったり……それであとから考えて、悪いことしちゃったな、なんて後悔したりね。――だから、」
 メリスは一口カップに口をつけてから続けた。
 「アルフェルムさんだって、時々はそういうこともあるわよ。ひとはひと…神様じゃないんだから、誰だって気分には左右されるし、いつもなら嬉しいことをうとましく感じることだってあるわ。…だけど、それを全部ひっくるめてアルフェルムさん――フィムちゃんの好きになったアルフェルムさんなんでしょ?」
 「……ウン……。」
 「――だったら、やっぱり、認めてあげなくちゃ。アルフェルムさんが、フィムちゃんのことを、いつも受け止めてくれるみたいに……フィムちゃんも、時々は、アルフェルムさんがいらいらしてたりしても、寛容になってあげなくちゃね。」
 「……うん……。」
 「それで、お互いがお互いに、助け合って生きていければ…ね。――でも、それでも――」
 「――それでも、どうしても、ガマン出来ないこととか、あったら。」
 メリスは人差し指を立てて、片目をつぶってみせた。
 「――お酒飲んで、ワガママ云って、仕返ししちゃえばいいんじゃない?」
 「…………!!」
 フィムは、目を見開いた。そして、次の瞬間、いつものような、光り輝くかのような笑顔を見せて、返事した。
 「――ウンッ
 結果的に、このメリスのすり替え作戦――すなわち、本当にそうだったのかどうかわからないが、アルフェルムはいらいらしていたのだということにしてしまった――は、功を奏したようだった。フィムはすっかりさっきのことを許す気になったようで、いつもの笑顔も戻り、そして今度は心底それを楽しむように両手でティーカップを持ってその香りのよい紅茶を味わう。
 「オイシ
 フィムは翼を揺らしながら、うれしそうにそれを飲みほした。
 「もう一杯飲む?」
 「ア、ウン
 フィムがカップを置くと、メリスはふたたびポットからティーを注ぎ、ミルクを入れる。
 「どうぞ。」
 「へへ……!!」
 フィムはメリスの顔を見ながら笑った。メリスの方もつられて笑う。――いつでも、そんなふうに、フィムは周りにいるものたちを明るくする力を持っていたのだ。フィムは、そんなことにはまったく気を払っていなかったけれど――しかし、彼女がそうして花のように笑うだけで、その周りにいるものたちはとても幸せな気分になれたし、そしてその退屈な、変化のない日々をまた頑張って生きていこうと、彼らを鼓舞する力と、原動力となり得たのだ。そう――世の中には、厳然として、そういう者たちは存在するのだ。その無邪気な振る舞いを見ているだけで力が沸いてくる、護ってやらねばという気になる――そして、自分も、頑張って生きていかねばという気にさせられる、そういう存在は、確かに、あるのだ。たとえフィムが、そしてその周りの者たちがそれに気付いていなかったにせよ――彼女は、そういう存在であったのである。
 さて、その当のフィム本人は、カップを置いて、半分冗談まじりに――冗談を云えるくらいに、気持ちとしては回復していたのだ――話を続けた。
 「そだね。――そのうちね、ぜったい、今日のこと、アルに云っちゃうんだもんんとね、メリスさんが云ったみたいにね、仕返ししちゃうんだっヘヘっ…きっとね、アルってば、困ったカオするんだよ
 フィムはおかしそうに話をする。

 「そうそうアルフェルムさんの顔が浮かんできちゃうわ。ほら、アルフェルムさんのことだから、『いいから、向こう行ってろ』とか逃げようとするんじゃない?」
 「するする、ぜったいするっあのね、あとね、『もうお前は先に寝ろ』って云うの。でもね、それであたしが眠っちゃうとね、アルもそのあとは結構早く寝ちゃうみたいなの。んと…寝ててもね、だいたいわかるんだっ…あ、今アル隣に入ってきてくれたなって…。――そいで、そうやって文句云ってても、アルが寝るときには、ちゃんとあたしのコト抱いててくれたりするの。特に冬はねっ、背中、ハネで布団があいちゃわないように、後ろまで腕まわして抱きしめててくれたりもするのっ☆」
 「アルフェルムさんらしいわね
 二人は顔を見合わせてコロコロと笑った。
 「…でね、でね――朝とかでも、寒いな、って思って、あたしがごそごそって布団の中に潜り込むでしょ……そしたらね、知らないうちに、抱き寄せててくれたりね、あとハネが曲がってたりすると、直してくれてたりするの☆それからね――」
 もうフィムの方は、これまた再び、ついぞさっきまでアルフェルムのことについて全く正反対のことを云っていた、つまりその行動についてさんざん文句を並べ立てていたなどということはきれいさっぱり忘れて、彼が時折見せるさりげない優しさを思い出してのろけともとれるそんなことを次々話しはじめた。それを聞くメリスの方は、時々カップに手を伸ばしながら相づちをうったり、アルフェルムの行動について楽しそうにフィムとあれやこれや云い合ったりする。
 「――だからね、アルってば、アルってばね、あんなカオ、してるけど、でもね、すごく意地っ張りなの!!こうだって決めたら、てこでも動かないの!!」
 「そうよね!!あたしもそう思うもの…前に会ったときだってほら、アルフェルムさん、ぜったい引かなくて――」
 フィムが、ふらふらと街中を歩き回り、そしてこうしてメリスと会って話を出来た――ぶっちゃけた話、ぐちを吐き出すことが出来た――ことは、フィムにとっては大変よいことだったようだった。とりたててフィムの方は、メリスに会いたいとか思っていたわけでもなかったのだが、それでもこうしていつのまにやら彼女の店の前を歩いていて、そしてたまたまメリスがそんなフィムを見つけたことも、やはり、シールが定め賜うた運命であったのか――いずれにせよ、二人の会話は随分はずんだし、それによってフィムはすっかりいつもの調子を取り戻したようだった。メリスは、彼女自身割とおしゃべり好きでもあったし、母親が死んでから家事一切をきりもりしてきたというようなこともあってしっかりした娘であったから話を聞くのもうまく、フィムのおしゃべり相手としてはこれ以上ない相手の一人であっただろう。
 「――はあ。もう…おかしくて、なんだか涙が出てきちゃった。」
 そうしてひとしきり話が終わって、そしてアルフェルムの無愛想さについてフィムと大笑いした後、メリスはハンカチを取り出して目尻を拭った。そしてフィムの方は、ようやく少し会話が落ち着いたので、そういえばさっきクッキー食べようと思ってたんだ、と少し前に取ろうとして引っ込めた手をそれにまた伸ばし、一つつまんでひとかじりした。
 「…ん、オイシ
 「でしょうあたしが作ったのよ、これ。」
 メリスは自慢げに云った。
 「え?そなんだ。そういえば前にもらったのとちょっと違うと思った…すごーい
 フィムは少し驚いた様子でメリスをみつめた。
 「前のは買ってきたものだったけど、今回は初めてながら自分で作ってみましたぁっ。」
 メリスはふざけて、腰に手を当て、胸を張ってみせた。
 「メリスさんこれ作ったの初めてなの?こんなにオイシイのに?すごーい…尊敬しちゃう…。」
 「アハハ…そんなに驚かれちゃうと、ちょっと困っちゃうな…白状すると、実は、わりとまぐれだったりするのよね…
 メリスは、フィムがあんまりにも目を丸くするもので、ちょっと苦笑いして云った。
 「まあ、前に少しお菓子作りをお手伝いしたことがあって、それで少しは憶えてたから…あとは、近所の人に訊いたりしてね……で、とりあえず材料買ってきて、とにかく作ってみたら、なんだか予想以上にうまく出来ちゃって、あたしもびっくりしてるのよね。」
 メリスはさっきそうしたようにまた舌をぺろっと出した。
 「えー……でもでも、それでもスゴイと思うケド……。あたしなんか、全然わかんないもん……。」
 「知ってるかどうかだけよ。やってみたことないんでしょ?フィムちゃんなら、やれば出来るわよ。アルフェルムさんに、自分が作ったおいしい料理、食べさせてあげたいと思わない?」
 「…思う……。」
 「それだったら大丈夫よ。大切なのはおいしいものを食べさせてあげようとする気持ちだから……それがあれば、すぐに出来るようになるわ。――ほら、フィムちゃんたちが住んでる宿の――下って、食堂だったわよね?ご主人さんにお願いして、時々、教えてもらったり、作らせてもらったりしたら?」
 「…うん。」
 フィムははにかみながら笑った。
 「――だけど、これホントにオイシイね。」
 フィムは一つ目のクッキーを食べ、もう一つに手を伸ばした。
 「メリスさん、料理とか上手だし、掃除もお洗濯も全部自分でするんだよね…いいおヨメさんになれるね
 「…相手がいればね……
 メリスは苦笑した。
 「――あれっ?メリスさん…スキなヒト、いないんだっけ?」
 フィムはクッキーを口にくわえたまま訊いた。
 「残念ながら、今のところはいませーん
 メリスは両手のひらを広げて、『なにもない』という仕草をしてみせた。
 「ふーん……メリスさんみたいに、家事の上手なヒトだったら、おむこさん、いっぱいいると思うケドなぁ……。」
 「うーん…そうでもないわ。」
 メリスは片肘を机について、もう一方の手でカップを取って一口飲んだ。
 「あまり、男の人と出かけたり、話をしたりする機会がないしね…ほら、朝起きたら家事をして、それでお店に出て、昼過ぎに買い物に行って、帰ってきたらまた夕食の準備でしょ……いい人と、出逢えないのよね。」
 「ふーん……。」
 フィムはサク、とクッキーをひとかじりして、続けた。
 「…あたしがもし男のヒトだったら、メリスさんなんかぜったいほうっておかないケドなぁ……。」
 「あは、ありがと☆そう云ってもらえると嬉しいわ。」
 メリスは明るくほほえんだ。
 「だけど、それ考えるとフィムちゃんはやっぱりラッキーよね。アルフェルムさんっていう、一番大事な人と出逢えたわけだから……。」
 「…ウン
 「…うまくいくといいわね、今回のこと。」
 「ありがとう
 フィムは心底嬉しそうに笑った。そして、食べかけていたクッキーを口に押し込み、そして残っていたミルクティーを飲み干すと、立ち上がった。
 「――ありがと、メリスさん。色々おハナシ、楽しかった…んと、あましおシゴトの邪魔しちゃ悪いから…もう、帰るね。」
 「あら、かまわないのよそんなの気にしなくっても。」
 「んでも…お店もあるから、いつまででもおハナシしてちゃ悪いし。…だから、もう行くね。…んと、紅茶とクッキー、すごくおいしかったよ
 「そう?楽しんでもらえたのならうれしいけど。…クッキー、少し持っていく?」
 「あ、えと……ウン
 メリスはにっこりして立ち上がり、ハンカチを一枚持ってくると残っていたクッキーをそこへ置き、端同士を結んで包みフィムに手渡した。
 「ありがとう
 「ううん。…またいつでも来てね。――別に、アルフェルムさんとケンカしたときばっかじゃなくってもいいからね――と、メリスはウインクしてみせた――今度はまた違うクッキーとか用意して、待ってるわ。」
 「ウン
 二人は部屋を出て、さっき通った細い通路から店の中へ、そしてそのまま並べられている靴の間を通り抜けて店の前へ出た。外は既に陽がかなり傾いていて、街全体が黄に染まりつつあった。もうあと一ガロスもすればその色彩は朱に変わり、そしてそれが藍へと移っていくであろう。近くを通っていく人々の歩みも心なしかやや早く、それは彼らヒトとは違う者たちが支配する時刻が近づいていることを嫌がおうにもうかがわせる。
 「もう、日が暮れちゃうわね。」
 「そだね。風も冷たくなってきたし。」
 二人は空を見上げ、そしてメリスの方は『う〜ん』と大きく伸びをした。
 「――あ、そうそう、フィムちゃん。」
 一呼吸置いて、フィムがさようならをもう一度云おうとしたときに、メリスが先に口を開いた。
 「――これは、ひとづてに聞いた話だけれど――」
 彼女はややまじめな顔になった。
 「…なんでも最近、小さな子供がいなくなる事件があちこちで起きてるんだって。もうこれで何人かの子供が行方不明になってるって……神隠しか、それとも子供を狙った人さらいかって、騒ぎになってるみたいよ。」
 「――そうなの?」
 フィムは不思議そうにメリスを見上げた。
 「うん。だから――フィムちゃんも、気をつけてね。まあ、話を聞いてると、いなくなってるのはみんな十歳前後の子供ばっかりだって云うから、――フィムちゃん、今確か――18だったか、19だったか、よね……?――それに対して、フィムは小さく頷いた――なら、大丈夫だとは思うんだけど……でも、もし犯人が…その、ヘンな趣味を持ってる人だったりしたら……フィムちゃんみたいな、綺麗な翼を持ってるコには…目を留めるかもしれないから……。」
 「…………。」
 「……だから、やっぱり、なるべく早くアルフェルムさんと仲直りして、そしてしばらくは出かけるときは一緒に出かけた方がいいわね。」
 「…うんありがとう
 フィムはもう一度明るい笑顔を見せ、そしてもらったクッキーの入っているハンカチをぎゅっと握り直した。
 「…じゃ、あたし帰るね。クッキー、ありがとう
 「どういたしまして。――アルフェルムさんのこと、寛容に――ね。」
 「うん。それじゃあね、ばいばい
 「さようなら。気を付けて。」
 そうしてフィムはメリスが見送る中、翼を振り振り、通りを宿に向かって歩いていった。途中一度、彼女はメリスの方を振り返り、大きく手を振って、そして人々の間へと消えていった。



 『――素っ気ないと思ったら急にやさしくなったり、
  そうかと思うと、こんどは時間が合わなかったり、
  試練ばかり――
  これを、気まぐれといわずして、なんといえばよいのでしょう――。』



 アルフェルムは、流石に少しくらいはフィムの様子が心配だったのだろう、ギルドでの頼まれごとを終えると、そのあとふるまわれた軽い酒と食事をとるのもそこそこに、とっぷりと日の暮れてしまった通りを宿に向かって急いだ。
 彼は、結局あのあとそれを決して表には出さなかったが、きっとその心の中ではセプターの囁いた『帰って来んかもしれんぞ』の一言が、ずっと鳴り響いていたのに違いない。しかしながら、彼が部屋の扉を開けたとき、幸いにも彼女は既に帰っていて、彼の帰りを待っていた。――それどころか、あれほど激しい行動を見せたフィムが、彼が戻ったときにはすっかり機嫌を直していて、『アル』と再び飛びついてきたことに少々面食らったくらいだった。フィムの喜怒哀楽の激しいことには彼も慣れっこになってはいたが、今日ばかりは――という思いも、流石にあったのだ。それがいつも通り、何事もなかったかのようにすっかり元通りになってしまっている――それには、アルフェルムも肩すかしを食らったような気持ちになったであろう。だが、これもいつも通り、彼の顔にも行動にも、それを示すようなそぶりは現れなかったから、その真意の程ははかりしえなかった。代わりに、彼は待っていたフィムを連れて階下へ降り、遅くなった食事をとって風呂をしたため――ここの宿には、客のために小さいながら風呂があり、時間順で利用することが出来た――今日一日の汗を落として部屋へと戻ってきた。
 「はーっ…キモチよかった
 フィムはポンッとベッドの端に座り、まだ濡れたままの髪をタオルでごしごしといい加減に拭いた。そしてそのタオルをぽいっとベッドの上に放ると、暑いのだろう、薄い寝間着の、首に近いいくつかのボタンを外して前をややはだけさせ、胸の辺りをつまんでパタパタと風を送り込む。
 「――何してるの?」
 フィムは、部屋に入るなり剣や鎧など荷物一式の前に座り込んでなにやらごそごそはじめたアルフェルムに尋ねた。そしてトン、と床に降り、彼が着ているバスローブの上から背中に抱きついた。
 「道具の確認だ。」
 アルフェルムは背負い袋の中身を一通り調べているようだった。保存食や水、ロープ、いくつかの薬、野営道具一式などを、念入りにチェックしている。
 「――でも、明日は……一日で、帰ってくるんでしょ……?」
 フィムはやや不安そうに云った。
 「…それは、そうだが、準備はきちんとしておかんとな…なにが起こるやらわからん。――よし、いいだろう。」
 彼は、首から前に回されていたフィムの腕を外して、立ち上がった。

 「…オシマイ?」
 「ああ。忘れ物もないし…問題ないだろう。」
 アルフェルムはそのときフィムを見て、彼女の髪の毛がぼさぼさになってしまっていることに気づいた。
 「…お前な……ちゃんと髪を拭けといつも云っとるだろう。そんなにしておくから寝癖が付くんだぞ。――こっちへ来い。」
 アルフェルムはフィムの手を引っ張ってベッドの方へと歩いていくと、その端に座り、彼女を自分の脚の間に後ろ向きに座らせた。そして彼女の翼も、まだかなり濡れそぼっていることに気づく。
 「…なんだ、羽もべたべたじゃないか…ちゃんと拭かんか。」
 「そんなコト云ったって、後ろまで手、回んないんだもん……拭いて
 「しょうのない……。」
 アルフェルムは文句を云いながらも、身体を伸ばして彼女がついさっきベッドの上に放り出したタオルを拾い、自分の身体を後ろへ引いて彼女の身体を前に倒させ、その羽のべっとりしているところにタオルをあてて、上から押さえるようにして水分を取っていく。
 「…くすぐったい
 ときどきフィムがもぞもぞと身体を動かすと、彼は『動くな』と翼を持って軽く引っ張り、再び水分を吸い取っていく。フィムはよほど適当に拭いたのだろう、アルフェルムが彼女の両の翼を拭き終わる頃には、持っていた大きめのタオルがぐっしょり濡れてしまっていた。
 「――しょうがないな。」
 アルフェルムはぼそっと呟くと、一旦ベッドから降りてその濡れたタオルを汚れ物の入っているかごの中に放り込み、たんすの引き出しから乾いたタオルを一枚引っ張り出してきて、またさっきのように彼女の後ろに座った。そしてタオルを彼女の頭にかぶせると、両手で軽くごしごしとこする。
 「ン……。」
 そのあと、乱れてしまった彼女の髪にアルフェルムは指を通して、手櫛で彼女の髪を梳いてやる。彼女の身体を後ろから抱えるようにして腕を前にやり、最初は彼女の額から後ろへ向かって何度かゆっくりと、ついでこめかみから耳に向かって、最後に耳に張り付いている後れ毛を解くように指を走らせる。
 「……
 フィムはその間中、おとなしくしていた。おそらくは、昼間のことの影響が――多かれ少なかれ――あったのだろうが、最近の彼にしてはめずらしい、ちょっと優しめのその扱いに、彼女も悪い気はしないようで、いくぶんあごをもちあげるようにして目を閉じ、彼に身体を委ね、気持ちよさそうにしている。
 「…よし、終わりだ。」
 「…もう終わり?」
 「ああ…もういいぞ。あとは自然に乾くだろう。」
 「ンー……でも、もっとして
 「ばかたれ
 アルフェルムはフィムの頭を軽くこづいて、彼女の後ろから抜け出した。
 「むー…もーちょっと、してほしかったな…。」
 フィムはそう云いながらも満足はしたようで、こちらも床に降り、ばさばさばさっと翼を何度か小さくふるわせた。羽毛が数枚飛び散って宙を漂う。
 「でも、いいキモチだったアリガト
 「…ああ。」
 いつも通り、簡素な答ではあったが、その響きがいつもより柔らかめだったのは、気のせいというばかりではなかったであろう。
 「…明日は、この分だと晴れてくれそうだな…。」
 彼はテーブルのそばまで行って椅子を引き、腰を下ろし、窓の外を眺めて呟いた。フィムが同じように、こちらも近くへ来て椅子に座る。そして机の上に置いてある水差しから、コップに少し水を注ぎ、コク、とそれを飲んだ。
 「…ね……明日、早く――帰ってきてくれるよね……?」
 フィムは不安そうな面もちでそう訊いた。
 「ん?……ああ……出来るだけ、早くは帰ってくるが……もし万が一、頼まれているものが見つからなかったら、遅くなるかもしれん……。」
 「そうなの……?」
 それを聞いてフィムは少し眉をひそめた。アルフェルムはそれを見て、――多分、ここでまたもめるのは得策ではないと考えたのだろう――付け足すように云った。
 「まあ、以前にやったことのある仕事と内容は同じだし……頼まれている薬草は、その時に群生しているのを見つけているからな……よほどのことがなければ、一日で帰っては来られるだろう。」
 「…どれくらいに、なりそうなの……?」
 「そうだな――五の五の、向こうで五ガロスかかるとして……こちらを出るのがシューヴァ二だから……アールの八か。…少し馬を急がせれば、六あたりで帰ってこられるかもしれんな。」
 「――早く、帰ってきてね……。」
 フィムは急に、訴えるような目でアルフェルムを見つめた。
 「…わかっとる。早く終わらせるにこしたことはないし……今回のは、成り行きでしょうがなく受けた仕事でもあるしな…。さっさと探し出して、早めに帰って来るさ。」
 「――メリスさんから、聞いたの…。」
 フィムは目線をテーブルに落として呟くように云った。
 「…なんかね、ちっちゃい子供が、消えてる事件が起きてるって……。もうこれで、何人かがいなくなってるって……だからね――」
 「――お前も、聞いたのか。」
 フィムが顔を上げ、再び『早く帰ってきて』と懇願しようとしたとき、アルフェルムが驚いてやや大きな声でそう云ったので、フィムは言葉を飲み込んだ。
 「…お前もって……アルも聞いてたの……?」
 「――ああ。」
 アルフェルムは一言短く返事して、それから一つずつ説明しだした。
 「…実は、二、三日前、俺が一人で通りを歩いていたときに、同じ話を小耳に挟んだんだ。ここ数日で、何人かの子供がいなくなっている、と。…そのときはまあ、よくある人さらい事件の一つだろう、くらいにしか思わなかったんだがな。」
 「…………。」
 「――が――今日、ギルドで、全く同じ事件――正確には、それに対する捜索依頼――を聞いてな。」
 そしてその時、彼は一瞬黙り込んだのである。そう、あの時彼がうかない顔をしたのは、彼が既にこの話を知っていたからだったのだ。彼は続けた。
 「…もっともそれ自体は、あまりに情報が少なかったらしく、ボーンがまず国に依頼しろと提案したようだったが…だが、これほどまでにあちこちで同じ話を聞くとなると…ただの人さらい事件と、一蹴するわけにはいかんな……。」
 アルフェルムはそこまで云うと、黙り込んだ。フィムが不安そうにその彼の顔をのぞき込む。
 「…あの、女性……名前くらいは、聞いておくべきだったか……。」
 アルフェルムは、ごくごく小さな声で呟いた。だからフィムにはその内容は聞き取れず、彼女は『なんて云ったの?』と訊き返そうとしたのだが、しかしアルフェルムがかなり険しい顔をしていたので、尋ねるのがはばかられてしまってそれはやめた。
 「――まあ、いい。それを今ここで考えとっても始まらんし……また必要なら、ギルドから仕事として来るだろうしな。しばらくは、国の連中に任せておくさ。」
 「…………。」
 「…ただまあ、」
 アルフェルムはフィムの方を向き直った。フィムはそれが唐突だったのでちょっとびっくりして顔を上げた。
 「――お前もしばらくは気を付けていろよ。まあ、狙われているのは子供ばかりなようだから、お前が狙われたりはせんだろうし、…それにお前なら、何かあっても空へ逃げてしまえばいいわけだから、おかしなことにはならんとは思うが…だが、注意はしておいた方がいいな。…まあ、出歩くなとは云わんが……人気の少ないところ、行ったことのない郊外などには、しばらくは行かん方がいい。それから、暗くなる前に必ず帰ってくるようにするんだ。いつもより早めに戻るようにな。」
 「…うん。」
 フィムは小さく返事した。そして、すぐににまっと笑った。
 「――なんだ。」
 「へへ……
 フィムは、椅子から降りて、アルフェルムの後ろ側に回り、そして彼の背中に覆い被さった。
 「!?…とっ……!!」
 「エヘヘ……アル、心配してくれてるんだ……?」
 フィムはうれしそうに、彼の顔を後ろから覗き込んだ。
 「あ!?――なにを――!?」
 「エヘ……アルはね、あたしのコト、ちゃんと考えてくれてるのいろいろ文句云っててもね、ちゃんとそうやって、最後にはあたしのコト、考えててくれるの
 「……馬鹿なことを――」
 「――ね、アル。」
 アルフェルムは、フィムに何か云い返そうとしたようだったが、機嫌の良さもあいまってたたみかけてくる彼女に口をつぐんだ。
 「――ね……アルは、あたしのコト、スキ?」
 「…なんだ、急に。」
 唐突に投げかけられた質問に、アルフェルムは眉をひそめた。
 「…ね、スキだよね?」
 「…なんでそんなことを訊くんだ。」
 「そんなのはいいのっ……ね、スキだよね?」
 フィムは彼の首に抱きつきながら、耳元で囁く。
 「――あ!?……そんなもの……云わんでもいいだろう。」
 「えーっ……そんなの、ダメぇ……云ってくれなきゃ、ヤだぁっ……!!」
 フィムは彼の首をつかんで前後に揺さぶる。
 「とっ……こら、よさんかっ……!!」
 「ねえっ、云ってよっ……云ってってばァッ……!!」
 「こらっ……フィム、――よせ、…いいかげんにせんかっ……!!」
 アルフェルムは、しばらく口でいさめていたが、フィムがそれを聞くどころかますます加熱してきたので、さっきそうしたように――但し、さっきよりかなり乱暴に――彼女の腕を引き剥がして、立ち上がった。
 「ヤ〜ンッ……逃げちゃずるいっ……!!」
 「あー、うるさいうるさい。」
 彼は煩わしそうに、フィムから逃げるようにして窓際に立った。そしてそこから階下の通りを眺める。まだ時間は比較的早かったから、辺りに光を投じている店や家も多くあり通りは向こうまでぼんやりとその姿を映しだしており、またまばらながらちらほらと人影も見える。時折響いてくる大きな笑い声は、今日も一日を無事に終えることができたことを、適当にでっち上げた神にでもいい加減に感謝しつつ 男たちが杯を呷っている声なのであろう。今からもうしばらくは、この辺りもまだまだ騒がしい時間が続く。そしてそれが終われば、それは真の意味で、闇の支配する世界の始まり――となる。そう――ヴァンや、あるいはバルザといった大都市でさえ、――いやむしろ、大都市であるが故に、夜出歩けば命の保証はない――という区域はあるのだ。それが、ヒトの仕業なのか、あるいはこのヒト社会に密かに紛れ込んでいる魔の仕業なのか、それは、定かではないにせよ――国の機関でさえ、その手を出しかねる、何が起こっても不思議ではない場所は少なからずあるのである。
 「ねーってばぁッ……アルぅっ……!!」
 フィムは、いつの間にか彼の背中に抱きついてきていて、まだだだをこねていた。だが、アルフェルムの心には、別の思いがあったのだ。
 (――子供の、連続誘拐事件、か……それ自体は、べつだん、珍しい話ではないし……ここいらあたりでも、ない話ではない……。――そう、とりたてて、気にかけるべき話ではない……のだが……)
 (――だが、何故か……気になるな……。――十中八九、俺や…あるいは、フィムに、直接関わってくるような危険な話ではない……はずなのだが、――だが――何故か、気になる……。)
 「……アルぅ!?聞いてるのっ!?ねえ、アルってばっ……!!」

 (――まあ――それによって、今すぐ何かが起こるというわけではないだろうが……だが、少しばかり、気をつけた方がいいのは…確かだろうな……。――それに――)
 アルフェルムは腰に巻き付いているフィムの手を取り、彼女の方を振り向いた。フィムは急な彼の行動にどきっとしたのだろう、口をつぐむ。アルフェルムは、頭二つほども低いところから彼を不安そうな面もちで見上げるフィムの顔を、そしてその背後で揺れる白い翼を見つめる。
 (――コイツは、無邪気というか、恐れを知らんというか……恐いもの知らずなところが、あるからな……。好奇心が旺盛なのは結構なことだが……時としては、それがマイナス方向に働くことも、ある……。――そして、コイツの場合――それが、人一倍だときている――。)
 「……な……なに……?」
 フィムは、厳しい表情で自分を見つめるアルフェルムを見上げて、叱られているとでも思ったのか、ちらちらと目線を外しながらぽつりぽつり云った。
 「……アル……んと、……お……怒った……?」
 「――ん?」
 もちろん、アルフェルムの方はそうではなくて、単に考え事をしていただけなのだが、フィムのその困ったような態度にこちらは思わず苦笑いした。
 「――そうじゃない。…ちょっとな……。」
 「…………?」
 「――いや……いいんだ。」
 アルフェルムはフィムの頭を軽く撫でた。
 「…怒ってないの……?」
 「…別に、怒るような事はなかっただろうが。」
 「――良かった
 フィムは、再びにっと笑ってアルフェルムの首に飛びついた。
 「!?ととっ……!!」
 「エヘヘ……アル、恐いカオしたから――ちょっとびっくりしたのでも、怒ってなかったから、良かった
 「…お前……演技しとったな……?」
 「そんなんじゃないもんちょっと困ったふりしてみただけだもん
 「それを演技というんだ……ほら、よさんか……。」
 フィムが彼の首筋に唇を触れてくるのを、彼は彼女の腰を何度か軽く叩いてなだめ、そのままその細い腰を抱えて床に降ろした。そして、彼はフィムの肩に手を置きながらテーブルに歩み寄り、さっき彼女がそうしたように、水差しからコップに、その半分ほどの水を注ぎ、それを一息に飲み干した。
 「――さて、まあ……まだ眠るには早い時間なんだが、今日は、もう寝てしまうか……明日は早いからな……。」
 アルフェルムはそう云うと、着ていたバスローブを脱ぎ、いつものように、薄いシャツとパンツ、という格好になった。
 「ア……もう、寝チャウ……?」
 「明日は一日中動き回らにゃならんだろうからな…準備も終わっているし、…まあ寝つけんかもしれんが、横になって身体を休めておくさ。」
 彼は掛け布団をめくり上げ、ベッドの上に横になった。彼はそこへ両脚を滑り込ませる。
 「…なにしとる。来んか。」
 彼は、彼の方を見つめたままぼうっと――と、アルフェルムには見えた――立っているフィムを見て促した。
 「ン…エト、これ…脱いじゃ、ダメ…かな……?」
 フィムは寝間着の襟をつまんで、おずおず訊いた。
 「…なんでだ。」
 「なんでって……それは……。」
 フィムはもじもじと言葉を濁す。――そもそもこの寝間着は、アルフェルムが、いくらなんでも彼女をシャツとパンツだけで寝させるのはどうかと何着か購入したもののうちの一つだった。なんどか、真冬のさなかに裸で眠って風邪を引いたりとか、あるいは単純にみっともないという体裁のため――この部屋は、フォードだのセプターだのが遊びに来て、ノックもせずに部屋に入り込んできたりするのだ――に、着させるようにしたものなのだが、フィムの方はどうにも服を着て寝る、というのが好きにはなれないようで、ことあるごとに脱ぎたがるのだった。夏場などは朝気が付くと服を着て寝ていたはずの彼女はいつの間にかほとんど裸になっていて、そして脱ぎ散らかされた寝間着は羽毛にまみれて足元に丸まっている、しかも当の彼女はそれを脱ぎ散らかしたことなど憶えてもいない――というようなことがよくあって、それでアルフェルムの方も半ばあきらめていたりもするのだが、しかし流石にこの季節は、日中は暖かくなるとはいえ朝夕時折思い出したように霜が降りることもあり、それで彼女にはなるべく着させるようにしているのだ。――もっとも、そうは云うものの、ことの後などは二人とも素裸で寝てしまって、そして翌日二人仲良くがらがら声――などということも、なくはなかったのだが。
 「…まだ、しばらくは朝に冷え込むだろうから、着て寝ろ。」
 「ン……だけど……。」
 「明日もしお前がカゼを引いたら誰が看病するんだ。朝になって急に仕事を断るわけにもいかんのだぞ。」
 「…………。」
 「とにかく今夜は着て寝るんだ。」
 「…う、うん……。」
 フィムは彼の脇に横たわったが、まだ不服そうに云った。
 「…なんか、服着てると、ごわごわしてて、ヘンなカンジだから、ヤだよゥ……
 「まあ、俺もそうだから、気持ちはわかるがな。今の季節は、我慢しろ。」
 「…アルばっかしそんなカッコで、ずるいよ…。」
 「お前は俺ほど頑丈じゃないだろうが。」
 「むゥッ……
 フィムは渋い顔をしたが、彼の云うことももっともだったので、それ以上ごねるのはやめた。アルフェルムはフィムの上に掛け布団をかけ、そして枕元の物置台に置かれている、いつもならしばらく灯しておくランプであるが、今日はもう眠ってしまうことにしてそのフードを上げ、揺れ動く火竜の化身に息を吹きかける。一度大きく揺らいだ炎は次の瞬間その具現の姿を失い、室内は一瞬にして漆黒に包まれる。あとに残るのは、外から聞こえてくるかすかな街のざわめきと、蒼く室内に差し込む(エルメル)の光のみである。アルフェルムは、真っ暗になってしまった部屋の中、手探りで枕元の、護身用の小剣の位置をもう一度確かめると、身体を滑らせるようにしてベッドに横たわり、自分で掛け布団を引き上げる。
 「…………。」
 フィムがごそごそと彼に寄り添うと、アルフェルムは黙ったまま腕を上げて、彼女の頭の下にそれをすべりこませる。
 「…………
 「――なんだ。」
 アルフェルムは、フィムがなんだか機嫌良さそうだったので、半分不思議そうに、半分おかしそうに訊いた。
 「――ううん
 フィムは小さく首を振った後で、更に彼に身体を押しつけたあと、暗闇の中、彼の顔に自分の顔を寄せて囁いた。
 「――だって、アル、黙っててもちゃんとこうやって、抱いてくれるんだもん
 「…そうせんとお前は寝つきやせんだろうが。」
 「今日ね、メリスさんとこでおハナシしたのアルはね、なんだかんだ云っても、ちゃんと最後にはあたしのコト抱いててくれるって朝になればね、いつの間にか抱きしめててくれるって
 「――それは、こうしてお前の身体を俺の制御下に置いておかんと、気がつくと目の前にお前の足があって顔面に蹴りを食らうからだ。…まったく、そんな事をメリスのところで話しとったのか、お前は……。――あんまりそういうことを人前で喋るな。べらべら喋るようだと、もう抱いててやらんぞ。」
 「やーんッ、それはダメぇッ……!!」
 フィムは彼が向こう側を向いてしまうと感じて彼のシャツをぎゅっと握りしがみついた。
 「こ…こら、シャツをつかむな。伸びる……やめろというのに。フィム、よせ……!!」
 「やめないもんっ……やめたらアル、向こう向いちゃうもんっ……!!」
 「向きゃせんわ……ほれ、フィム……いいから離せ。離せというのにっ……!!」
 「ヤだっ……!!」
 しばらくどたん、ばたんと布団の中で小さな格闘劇を演じた後、ようやくフィムをなだめてその手を離させたときには、彼の薄いシャツは伸びきってよれよれになってしまっていた。
 「あーあ……まったく、こんなにしてしまいやがって……これじゃ、外で着られんだろうが。しょうのない……。」
 「だって、それはアルがあんなコト云うからだもんっ……!!」
 「うるさい、もう黙って寝ろ
 アルフェルムはこれ以上彼女と話をするのは無駄だと決め込んで、もう一度自分のシャツの裾をひっぱって腹にかぶせ、そしてついでにめくれあがってしまっていたフィムの寝間着の裾も伸ばして、彼女の身体を深く抱え込んだ。フィムの方も、それ以上だだをこねる気はないようで、いつものように彼に寄り添い、顔を彼の胸にうずめ、脚を彼に絡めつかせると、大きく肩を上下させてふうっと息を吐いた。静寂が室内を支配し、闇に包まれた虚無がそこに広がっていく。フィムは、もう一度自分のあるじのぬくもりを、たしかな存在を確かめるかのように彼の胸に手を這わせ、そのあたたかく力強い感触を手のひらで感じ取ると、安心したかのように少し頭を布団の中に潜り込ませた。ひとたびそうして落ち着いてしまえば、実は二人とも意識してはいなかったけれど昼間ずっと働きづめ、あるいは歩きづめで身体はそれなりに休息を求めていて、だから心地よい眠気が彼らに訪れるのは早く、フィムの方はほどなくして『スゥ……すー……』と規則正しい寝息を立て始めた。アルフェルムの方は、フィムがそうして寝ついてしまってからもしばらくは起きていたのだが、彼女が一度もぞもぞっと動いたときにちらっと目を開け、闇の中にもひときわ白く浮かび上がる彼女の翼が上下に揺れているのを目にすると、ごくわずかに口元をほころばせ、そしてこちらも大きくゆっくりと深呼吸して、眠りについたのであった。



 夜。
 人々は床につき、代わりに属性の異なるものたちが活動を始める、別世界である。
 総じて『魔』と称されるそれらが、それでもあからさまに人間社会に手を出すことは少ない。確かに、時には、何らかの理由で発生した次元のひずみからこちら側の世界に侵入した異次元の魔物――それは、上位のデーモンであるなど、極めて危険な存在である場合が少なくなかったのだが――が、無差別に近隣の街や都市を破壊する、というようなこともなかったわけではなかったが、しかしながら多くの場合、『多種族の大規模な集落』であるニンゲンの街や都市を攻撃することはあまりないのだ。それはやはり、リスクが大きいということを本能的に理解しているからなのであろうが、そんなわけで、辺境の小さな村落はともかく――それら小さな村落が襲われる例というのは少なくなかったが、しかしこれは魔のせいというばかりではなく、悲しきかな、人間が人間を襲う場合も多数あった――ここバルザでは、人々は、それほど夜という時間帯をおそれることなく眠ることが出来たのである。
 そして、今夜も、夜は刻々と、静かに更けてゆく。
 既に日付は変わっており、点鐘域はフェラーラへと移っている。もはや通りに人影はなく、むろんそれを照らし出す明かりも『エルメルの囁き』と称される蒼く一種妖しげな月明かり以外には見あたらぬ。
 その、すっかり眠りに包まれている街に、それを妨げるのをおそれるかのごとく、控えめに、短めに、フェラーラ四の鐘が響き渡る。音色は冷たく、重たく、街の端まで走り、何度も共鳴して不思議に響き渡り、そしてそれが消え去った後は、再び静寂が街全体にのしかかる。
 だが――
 確かに、この世の始まりから終わりまでの時間を刻み続けているという『ミストラルの懐中時計』が、一刻、一刻と、一見平和に針を進めているそのさなか――何事もなく、静かに更けていく闇の中で、着実に、その活動を行っているものはいたのである。

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